2、終戦の朝
三日後、ユーフェインは再び野営地に戻ってきた。
その前夜、空は鈍色の雲に覆われ、焚き火の灯りだけが砂の地を照らしていた。
兵たちは酒をあおり、勝利の歌を口ずさんでいる。誰もが笑い、肩を叩き合いながら、戦の終わりを祝っていた。
その音が、アイリスの耳には遠い雷鳴のように響いた。彼らの歓喜は、オルフェリアの死の鐘だ――そう思った瞬間、胸の奥に空洞が生まれた。
天幕の中は冷たく湿っていた。縄で縛られた両手は解かれたものの、出口には見張りが立っている。逃げるという選択肢は、初めから存在しない。アイリスは膝を抱え、ぼんやりと焚き火の赤を見つめた。光が布越しに揺れ、影がゆらゆらと踊る。
あの影の中に、かつての兵たちの姿を見た。若い騎士たち、共に笑った侍女たち、そして弟カイル。
――皆、もういないのだろうか。
思考の端でその事実を認めながらも、心はどこかでまだ拒んでいた。涙は出なかった。泣くことすら贅沢に思えた。
夜明け前、風が天幕を震わせた。乾いた砂の匂いと血の気配が混じる。外の空気は、戦が終わってもなお殺気を孕んでいた。
そのとき、不意に天幕の外から馬の嘶きと鎧の音が聞こえた。兵の声が走り、やがて低い指示が飛ぶ。
――ユーフェインが戻ったのだ。
朝。
天幕の外では、撤収の準備が進んでいた。鎧の軋む音、旗を畳む布の擦れる音。風の音に混じって、兵の笑いが絶え間なく響く。勝者の喧騒の中で、アイリスだけが別の世界に取り残されていた。皇都の行方を知る者はいない。ただ、すべてが終わったことだけは分かっていた。
――戦が、終わった。
誰も告げずとも、胸の奥でそれを悟っていた。あの夜、自分が倒れた時点で、オルフェリアの命運は尽きていたのだ。弟も、メイリーン妃も、あるいは処刑されたかもしれない。だが想像するほどに現実味が薄れていく。まるで、己の心が凍っていくようだった。
天幕の入り口が開いた。冷たい風とともに、ひとりの影が差す。
ユーフェインだった。
数日前と同じ黒衣を纏いながらも、鎧は外され、肩には深紅のマント。その姿は、もはや戦場の将ではなく、支配者そのものだった。
「眠れたか」
低い声が、冷気を裂いた。
アイリスは答えなかった。
ユーフェインはその沈黙を責めもせず、ただ外へ視線を向ける。
「戦争は終わった。大陸はヴァラアニカ一つの下に統一された」
静かな声。そこには勝利の昂ぶりも嘲りもなかった。ただ、任務を遂げた者の確信だけがあった。その冷静さが、かえって彼の残酷さを際立たせていた。
アイリスの胸に、抑えきれぬ怒りが込み上げた。ゆっくりと顔を上げ、彼を見据える。
「……ここに、何をしに来た。敗者を嘲笑いに来たのか? それとも生き残りの皇女に情けでも感じたか?
なぜ私を生かしている! 皇女でありながら、私は帝国軍を屠ってきた! さぞ恨んでいるだろう! 早く殺せ!」
声が震え、やがて咆哮に変わった。だがユーフェインの金の瞳はわずかに細まっただけだった。
「皇女の血は、まだ役に立つ。お前が生きている限り、皇国は完全には滅びぬ」
その言葉の意味を悟った瞬間、胸の奥が冷たく凍りついた。利用される。それが分かっていても、こうして明言されると、逃げ場のない現実として突き刺さる。
「……好きにすればいい」
アイリスの声は掠れていた。唇が乾き、言葉が砂のようにこぼれ落ちる。
ユーフェインは無表情のまま、わずかに顎を引いた。
「その言葉、忘れるな」
短く言い残し、彼は天幕を出ていった。
残された空気は、彼の冷たさをまだ宿していた。外では、風が砂を巻き上げている。旗がたなびき、兵たちの歓声が遠くで響く。そのすべてが、別の世界の音のようだった。
アイリスは静かに立ち上がり、布越しに朝の光を見た。灰色の空に昇る太陽が、血と煙の残り香を照らす。
その光の下で、彼女は思う。
――この男の傍で、生きていかねばならない。
それは敗者の決意ではなかった。生かされた者の、最初の誓いだった。




