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ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
18/18

17、歩き出した景色

お待たせしました


 外に出られるようになって、もう十日ほどが過ぎた。

 最初は車椅子に揺られるだけで息が上がったが、今では短い距離なら歩ける。

 庭の小径をゆっくりと巡り、草花の匂いを胸いっぱいに吸うたび、遠のいていた日常の感覚が少しずつ戻ってくるのを感じていた。


「……ずいぶん歩けるようになったな」


 横からかけられた声に、アイリスは振り返る。

 朝の柔らかな光を浴びて、ユーフェインはどこか誇らしげな、けれど自慢し慣れていない少年のような顔をしていた。


「あなたが毎朝付き合ってくれるからな」

「当然だろう」


 そう言ったユーフェインは、少し迷ったあとで続けた。


「身体さえ無理がなければ……皇都へ出てみないか」


 皇都へ――。

 その言葉に、胸の奥がわずかに震えた。

 もう、馬車に揺られて倒れるような体ではない。歩ける。話せる。息が上がっても休めばいい。


 それを確認するように胸に手を当てると、ユーフェインが静かに頷いた。


「無理はさせない。……だが、そなたに見てほしいんだ。この国を」


 その声音には、どこか切実さがあった。





 皇宮の裏門を出ると、門番をしていた衛兵が頭を下げる。ただしこの場には護衛と呼べるのはアイリスの護衛であるナナキくらいしかいない。その様子に戸惑いを見せている。


 すると、エドモンドが慌てて遠くから走ってやってくる。


「お待ちください! せめてライゼルを待ってから」


 だがユーフェインは短く命じた。


「……よい。護衛はここにいる」


 ユーフェインはナナキに試すような視線を向ける。


「殿下、それは――」

「これは外遊ではなく、私的な外出だ」

「ライゼルの機嫌は殿下が取ってくださいね」

「久々に叱られるのは覚悟しておこう」

「ナナキ、ライゼルが追いつくまでよろしくお願いしますね」

「皇国で将軍をしていた程の男だ。実力は折り紙付きだろう」


 エドモンドが困り果てた顔で手帳を握りしめていたし、突然指名されたナナキはこれで良いのかと戸惑うばかりであったが、ただ一人、ユーフェインだけはどこか楽しそうであった。

 

 結果、三人での外出となった。


 



 皇都グランフィードの大通りは、朝の活気に満ちていた。

 露台から漂うハーブの香り、鍛冶屋の鉄を打つ耳心地のよい音、商人たちの明るい声。

 アイリスは思わず目を丸くする。


「……こんなに賑やかなのね」

「戦争は遠くの出来事、という顔をしているだろう?」


 ユーフェインが皮肉めいた微笑を浮かべた。


 確かに――通りを行く人々は幸せそうだった。

 家族連れ、恋人同士、買い物袋を抱えた人たち。どの顔にも笑みがある。


「これが帝国の表の顔だ」


 彼の言葉に、アイリスはユーフェインを見る。


「表……?」

「ついてこい」


 ユーフェインは道を一本外れる。

 大通りからわずか数十歩しか離れていないのに、景色は一変した。


 薄暗い路地。

 壁に寄りかかる老人。

 片足のない青年が帽子を地面に置き、物乞いをしている。


 アイリスは息を呑んだ。


「……これは」

「戦争で家族を失った者。怪我で働けなくなった兵。住む場所すら戻らない人々だ。帝国は強大だが、傷も深い——敗戦国となった皇国本土は帝国の管理下とはいえ、これより酷いだろう」


 ユーフェインの声は静かだった。


「……なんと平和ぼけしていたのだろう」


 アイリスは自分では気づかない程、強く唇を噛み締めていた。

 負けてしまえば何も残らない。

 何のために戦ったのか。

 国を守るため——形ではなく皇国に生きる人の営みを守るためだった。

 しかし、負けた。

 敗戦国の復興がどれ程進むものだろうか。

 帝国と違い、皇国領土での戦争であったがために街は相当な被害を受けているはずだ。

 帝都内でさえ、これほど色濃く戦争の跡が残るというのに、皇国はどれ程のものだろう。

 人質となったアイリスの存在は、少なからず皇国の未来を保証するものだと思っていた。

 でも実際は——?

 それを確認することも、関わることも何もできない。


「……やめろ、血が滲んでいる」


 ユーフェインは、アイリスの唇を端から端までなぞるように触れた。


「俺は――この国を、強さだけでは測りたくない。守るべきは領土ではなく、人だ。民が生きていて良かったと思える国にしたい。それは皇国領土も同じことだ」


 横顔は日の射さない路地でも、不思議と明るかった。


「俺は目指すこの道が間違ったものだとは思わない。一部の者だけが利益を享受し、他を排斥する今の姿を変えていく。その道に、無理やりそなたを引きずり込んだ結果、命まで狙われたことは悪かったと思う。だがそれすらも、間違っていないと確信している。帝国の未来にそなたは必要だと」


 胸が痛むように温かくなった。

 身体が弱っているせいではない。


 ――この人は、帝国という巨大な魔物のただ中で、必死に理想を抱えている。


 気づけば、アイリスはそっとユーフェインの袖をつまんでいた。


「……見せてくれてありがとう。この先に我々の国の未来があると、私も信じよう」


 彼はわずかに目を見開き、そしてゆっくりと微笑んだ。

 




 路地を抜けると、空の色がふたたび明るみを取り戻した。

 だが、さっきまで見ていた光景が胸に重く残り、アイリスはまだ呼吸の整わない感覚に囚われていた。


 ユーフェインはそれに気づいたのか、歩幅をゆっくり落とす。


「疲れたか?」

「……いいえ。ただ、考えさせられただけ」


 ユーフェインは一度だけ空を仰ぎ、それからアイリスに視線を戻した。


「そなたに隠し事をするつもりはない。帝国の誇りも、醜さも、全部見てほしいと思った」

「見せてくれたでしょう。ありのままを」


 アイリスの声は静かだったが、その奥にある感情は自分でもうまく言葉にできなかった。

 強くなければ帝国は維持できない。だが強さだけでは救えない民がいる。

 その矛盾の只中で、ユーフェインが踏みとどまっている姿に胸が締め付けられる。


 彼が歩きながらぽつりと言った。


「……俺には、まだ帝国を変える力が足りない」


 アイリスは思わず顔を上げた。

 ユーフェインが自分の弱さを口にするのは珍しい。


「だが、力を得てこじ開けたところで、独りではきっと迷う。間違えれば、俺は父と同じになる」


 帝国皇帝——強大だが冷酷な支配者。

 その影は、ユーフェインの背中に常にまとわりついている。


 ユーフェインの言葉がそこで途切れた。

 彼の視線は遠く、皇宮の塔の方角へ向けられている。


「……父は強い。だが、その強さは誰のためでもなく、自分のためのものだった。帝国を守るためと言いながら、誰よりも帝国を疑い、縛り、切り捨てた。自分で作った息子ですら疑い、戦場に送るほどに」


 ひとつ息を吐き、ユーフェインは自嘲するように肩をすくめた。


「俺が力を持てば、同じ過ちをなぞる可能性もある。権力とはそういうものだ。目を曇らせ、正しさの意味を見失わせる」


 その声音はどこまでも静かで、けれど確かに震えていた。

 強がりではない本音だった。


 アイリスは彼の横顔を見つめる。

 この青年は、帝国の未来を掲げながら、その影に怯えてもいる。

 父とは違う道を歩むために、自分自身と戦っている。


 胸の奥にそっと灯るものがあった。


「……だから、だろう?」

「ん?」

「私がこの国に必要だと言ったのは」


 言葉は自然と口をついていた。

 それが慰めでも義務でもなく、心からの願いであることを、自分自身がいちばん驚いていた。


 ユーフェインは目を見開いたまま動かず、やがて小さく笑った。

 その笑みは、目に見えないものが溶け落ちるような、静かな解放の色を帯びていた。


「……そなたは、時々ずるいほど強いな」

「ずるい?」

「そうだ。俺はそなたに背中を押された。凱旋で命を狙われた一件も、ルシアンの処刑に抗った時も。……そなたは、俺が諦める理由を全部壊していく」

「そんな大層なことでは」

「ある」

「俺はそなたの強さに救われた。そして――」


 そこまで言ったところで、遠くから喧しい足音が近づいてきた。


「殿下ーーっ!!」


 振り返ると、数人の護衛を連れたライゼルがこちらへ突進してくるのが見えた。

 顔は真っ赤で、怒りと焦りが混ざっている。

 その後ろには、エドモンドが肩で息をして必死に追いすがっている。


「ようやく来たか……」


 ユーフェインは深いため息をついた。


 ライゼルは到着するなり、地響きのような声を上げた。


「殿下ァァ!  何故報告もなく外出など――ナナキ、お前も止めるんだ!!」


 ナナキはきっちりと背筋を伸ばし、しかし汗を浮かべながら答えた。


「殿下の命令は絶対ですので……」


 エドモンドが肩を落とす。


「……本当に帰ったら怒られますよ、殿下。覚悟してくださいね」

「お前がこの体力底なしの化物相手に必死についてきた分くらいは叱られてやろう」


 ユーフェインは短く答えると、アイリスの方を向いた。


「まだ見せたい場所がある。身体は大事ないか?」


 アイリスは小さく笑って頷いた。


「ええ」


 その言葉に、ユーフェインの眉がかすかに緩んだ。


 怒りに震えるライゼルと、完全に諦めた顔のエドモンドを背に、二人はふたたびゆっくりと歩き出した。


 ――帝国を知るための、ほんの小さな旅路。

 だが確かに、二人の心の距離はまた一歩近づいていた。

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