16、小さな歯車
目を覚ますと、すぐ隣にユーフェインの気配がある。いつの間にか、そのことに驚かなくなった自分がいた。
彼は椅子にもたれ、浅い眠りを取っていた。
机には未整理の書類が積まれ、灯し続けたであろう燭台の芯は黒く縮れている。どれだけ忙しくとも、夜明け前でも、アイリスが目を覚ます頃には必ずそばにいた。
正直、慣れてしまうのが少し、怖い。
胸の奥に小さな痛みのようなものが灯る。
それが不安なのか、感謝なのか、まだ判然としない。
身を起こそうとして、すぐに息が上がった。体力は戻りきらない。
その気配を感じたのか、ユーフェインが目を開ける。
「……起きたか。無理はするな」
伸ばした手が背を支える。その動きはいつものことなのに、今日はやけに優しく思えた。
午前の柔らかな光が差し込むころ、扉を叩く音がした。
「ルシアンです。お加減はいかがですか?」
事件以来、アイリスを診ているルシアンだが、今朝の診察はもう終わったはずだ。何か忘れていたことでもあったのだろうか。
緊張した面持ちでドアの方を見ていると、ルシアンは妙な大きさの布包みを抱えながら入ってきた。
「それは今朝と変わりないが……一体何事なんだ?」
「殿下のお身体の回復のが少し遅れていることが気になっていて……。回復には体力も必要ですが、寝たきりでは体力も落ちるばかりかと思い、勝手ながら、試作品を作ってみたのです」
「試作品?」
アイリスが首を傾げると、ルシアンは包みを開いた。
そこにあったのは、椅子——だが、側面には車輪がついている。
板張りで簡素ではあるが、座面には布が敷かれ、肘掛けもある。
「歩くのはもう少し時間をかけましょう。ただ、体を起こして外の空気を吸えるようになれば、気持ちも晴れて参りましょう」
彼の指は震えていた。
処刑されるはずだった彼を救ったあの日のことを、アイリスは思い出す。
「……ありがとう。本当に、嬉しい」
素直な笑みがこぼれた。
その瞬間、横に立つユーフェインの呼吸がかすかに止まるのを感じた。
彼は椅子をじっと見つめ、しばし言葉を失っていた。
ユーフェインの瞳にわずかに影が落ちた気がした。けれど次の瞬間には、彼は静かに息を整え、深く頭を下げた。
「感謝する、ルシアン。これはアイリスにとって——大きな助けとなる」
その声は、どこか震えていた。
本来、臣下に向かって皇子が頭を下げることなどあってはならない。
「お、おやめください殿下! 私のようなものにそのような……」
それでもユーフェインは頭をあげることはなかった。
「殿下」
アイリスが声をかけて、やっとのことで頭を上げたユーフェインは、深く息を吐いた。その横顔は強張っている。
毒を飲んで倒れたのはアイリスだというのに、ユーフェインはまるで自分が傷ついたかのような顔をする。
「……実際に、座ってみてもらえますか?」
ルシアンが恐る恐る提案する。
「ええ、ぜひ」
アイリスが微笑むと、ユーフェインはすぐさま彼女の肩に手を添えた。
「俺が支える。肩に手をかけてみろ」
その手の強さに、一瞬アイリスは胸が詰まった。
そっと抱き上げられ、車椅子へ移される。視線が低くなると同時に、世界が少し違って見えた。
「辛くないか?」
「大丈夫。思ったより、ずっと楽だ」
アイリスの答えに、ユーフェインは安堵したように目を伏せた。
ルシアンもほっと息をつき、小さく微笑む。
「昼間の中庭なら、冷えも少ないでしょう。少し外へ出てみるのも良いかと」
その言葉に、ユーフェインの瞳がわずかに揺れた。
「……行ってみるか、アイリス」
「ええ。ぜひ」
ユーフェインが車椅子の後ろに立ち、取っ手を握る。からからと音を立てて椅子は前に進み始めた。
扉を開けた瞬間、久しぶりの外気がふわりと触れた。
廊下を抜け、中庭へ向かう。
石畳を進むたび、小さな振動がアイリスの身体に伝わる。それだけのことが、不思議なほど心地いい。
冬の気配が忍び寄る風は少し冷たいが、日差しは柔らかい。
「……こんなに陽の光があたたかいなんて」
部屋の空気の重さが遠い日のように感じられる。
こぼれたアイリスの言葉に、ユーフェインが小さく微笑んだ。
「俺は……そなたに、ここを見せたかった」
「ここ?」
目の前に広がったのは、手入れが行き届いた庭。
小さな花々がそよぎ、池のほとりには冬鳥が降り立っている。
「この宮で、最も穏やかな場所だ。
いつか……そなたが歩いてここに来られるようになったらいいと思っていた」
言葉に詰まる。
胸の奥が、何か温かいもので満たされていく。
「ユーフェイン……ありがとう」
思いがけず、アイリスはユーフェインの名前を呼んでいた。
ユーフェインは少し驚いてみせたが、返事の代わりに、そっとアイリスの肩へ手を添えた。
「これから、もっと外へ出よう。そなたが望むなら、街でも、視察でも……どこへでも連れていく」
風が吹いた。髪が揺れ、陽光がきらめく。
その瞬間に見たユーフェインの横顔は、どこまでも優しかった。




