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ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
16/18

15、運命の軌道

長らくお待たせしました。

 

 ——どれほど静かに眠っていたのだろう。


 ふと、遠くで聞き慣れぬざわめきが起きた。

 兵の足音とも、侍女の慌ただしさとも違う、低く押し殺した声が廊下を満たしている。


 アイリスは瞼を少しだけ開けた。

 寝返りを打つほどの力はまだ戻らない。それでも、耳だけが外の気配を拾う。


 扉の外で、声が交わされた。


「……本当に、殿下にお見せするのですか」

「仕方がない。隠し立てすれば、それこそ騒ぎになる」


 押し殺した緊張。

 ふだん侍従たちが出さない種類の声音だった。


 ナナキではない。もっと若い声、そして——ひとつ、聞き覚えのある声音が混じる。


「……ユーフェイン殿下には、私から伝える」


 足音が過ぎていく。

 内容は分からない。ただ、良い報せではないのは確かだった。


 アイリスは細く息を吐いた。


 ——また、何かが起きた。


 この城に来てから、休まる間はほとんどない。

 処刑場での騒動、毒の影、そして目覚めた今もなお、何かが陰で動いている。


 枕元に目を移すと、花が一輪置かれていた。

 白い星の形をした小さな花。この国に来てよく目にするリュナの花だ。

 揺れるように細い茎が風を思わせる。


 ——一体誰が?


 聞くまでもない気がした。

 誰かに命じて持たせることもできたはずだが、花瓶の形も、置かれ方も、どこか不器用で、どこか静かで、ユーフェインらしい。


 指先を伸ばそうとして——届かない。

 その事実に、ようやく自分が「生き延びたばかり」だと自覚する。


(……まだ、何も終わっていない)


 枕元の花がわずかに揺れた。

 遠くで、城がざわつく音が重なっていく。


 ただ静かに眠っていられる時間は、やはり長くは続かないらしい。


 小さく笑って、アイリスは目を閉じた。


 ——ユーフェインが戻る前に、少しでも体力を戻さなくては。


 意識が再び沈んでいく直前。

 扉の方から、低く重い足音がひとつ近づいてきた。

 先ほどのざわめきとは別の、揺るがぬ力を帯びた足取り。


 アイリスは薄く目を開ける。


 扉の前に立つ影が、静かに名を呼んだ。


「……アイリス」


 その声音には、先程の安堵とも違う、冷えた決意が混じっていた。


 そしてその表情は——

 彼女が知るユーフェインの中でも、まだ見たことのないものだった。

 

 軽く扉が叩かれ、返事を待つ間もなく静かに開いた。

 入ってきたユーフェインはいつも通りの姿勢で、だがどこか声だけが低かった。


「……目を覚ましたと聞いた。具合は」

「問題ない。まだ体は重いが、明日には起き上がれるだろう」


 ユーフェインは頷いたが、すぐには本題を口にしなかった。

 短い沈黙ののち、彼は視線を床へ落とし、言葉を選ぶように続けた。


「――一つ、報せがある。……そなたに毒を仕込んだ疑いのある者だが、昨夜、私の宮殿に仕えていた執事の一人が死んでいるのが見つかった」


 アイリスは身じろぎもしなかった。ただ、呼吸だけがわずかに深くなる。


「死因は、自ら毒を煽ったものと見られている。遺書などはなかった。

 ……調べは続けているが、彼が単独で動いたのか、誰かの指示があったのかも、まだ断定できない」


 ユーフェインの声には怒りも動揺もなかった。ただ、必要な事実だけを置いていくような、静かな響きだった。


「俺の影を使ってそなたの身の周りを調べさせた。この寝所を除き、そなたの私室のあらゆる所に毒が仕掛けられていた。毒の種類からして死んだ執事とは別件だろう」

「ハッ、随分と嫌われているらしい。なぜ……そのようなことを私に知らせる?」

「正直迷ったが……隠しておくことのほうが、かえって不誠実だと思った」


 そこだけ、わずかに言葉が揺れた。


「まだ終わりではない。だが、必ず原因は突き止める。

 そなたに――これ以上の危険が及ばぬように」


 ユーフェインはそう言ってから、ようやくアイリスの目を正面から見た。

 どこか硬く、しかし迷いのない視線だった。


「……守るというのか、私を」

「守るべき者を守らずして何が皇族か。他ならぬその皇族の前でそう叫んだのは、そなただったはずだが。それとも、守られるのは不服か?」

「いや……そういうわけではない。ないが……」


 アイリスに対するユーフェインは常に真っ直ぐだ。きっと守るというのも嘘ではない。


「そう簡単に飲み込めるものでもないだろう。そなたはあくまで人質だと刷り込んだのは俺だからな」

「……いや、そうじゃない。驚いただけだ。私の未来に私の意志は関係ないとそう思っていたから。使い捨ての駒のようなものだろうと」


 だからこそ、守られるなどとは思ってもいなかった。


「新時代となる帝国は、身内同士で争っている場合ではない。そなたという存在は、使い捨てるには惜しい。だから――」


 彼は少し間を置き、視線をアイリスに合わせる。


「俺は皇帝となる。そなたには、ただの側室ではなく、唯一無二の正后に登りつめてもらわねばならん」

 

 ユーフェインはやってみせろと言いたげな視線をアイリスに注ぐ。

 やはりこの男は随分と強欲であるらしい。だかそれもこの男の目に叶ってのことだと思うと悪い気はしない。

 

 アイリスはわずかに息を整えながら、ユーフェインの言葉の意味を噛みしめた。

 その視線の強さに、ほんの少しだけ戸惑いの色が混じる。


「……私は、そこまで期待されるような人間ではないぞ。帝国の誰もが、私を歓迎しているわけでもない」

「歓迎されているかどうかなど、些事だ」


 ユーフェインは即答した。

 その声音はあまりに迷いがなく、アイリスが一瞬言葉を失うほどだった。


「評価も、役割も、立場も……すべて後からついてくる。だが――そなたは替えが利かん。俺にとってな」


 最後の一言は、ほんのわずかに低く、沈んだ響きで。まるで自分でも気づかず漏らしてしまったような声音だった。

 アイリスは瞬きをした。


「……替えが利かない? 私は敗戦国の皇女の一人に過ぎない」

「いや。そなたはそなただ」


 短い否定。

 しかしその言葉の重さは、今までのどの政治的判断よりも個人的で、曖昧に温かかった。

 ユーフェインは目を逸らすことなく続ける。


「俺は、必要だから守ると言った。だが――いや、いずれ話す。今はまだ……俺自身が整理しきれていない」


 その言葉のあと、ユーフェインは静かに椅子を引き、アイリスの枕元へ歩み寄った。

 決して触れようとはしない。触れられない代わりに、距離だけが静かに縮まる。


「そなたはまだ動けぬ身だ。休め。……俺がそばにいる」


『側室に対する保護』ではなく、『個人の安否を気遣う者の声』になっていた。


 アイリスはそれに気づきながらも、どう反応していいか分からず、ただ小さく息を呑んだ。


「……戻らなくてよいのか? 仕事があるのだろう。昨日もずっとここにいてくれたと聞いた」

「ある。山ほどな。だがそれはエドモンドが何とかする……」


 ユーフェインはほんの少しだけ眉を寄せた。

 その表情は、他の誰にも向けたことがないほど柔らかい。


「そなたが目を開けている間くらいは、ここにいたい」


 あまりに自然に、当たり前のように言うものだから、アイリスは返す言葉を失う。


 ユーフェインはそれ以上何も言わず、ただ静かに椅子に腰掛けた。

 いつでも手を伸ばせば触れられるほどの距離で。

 けれど決して触れようとはしない、かすかな遠慮と、強い意志の両方を含んだ距離感で。


 ——それは、明らかに皇族の義務の範囲を越えた在り方だった。

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