表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
15/18

14、微かに揺れる


 ——あの処刑を止めてから、アイリスは意識を失っていた。

 二日間、生死の境を彷徨い、三日目の朝、ようやく瞼を開いた。


 目を覚ますと、侍女が息を呑み、慌ただしく部屋を出ていく。

 ほどなく扉が静かに開き、ナナキが入ってきた。中央までは進まず、ドアのそばで深く一礼する。


「外は……殿下は……私は……」

「まだお体を起こされてはなりません。医官によれば、安静にしていれば問題ないとのことですが……二日も意識を失われ、一時は危険な状態でした」


 体は鉛のように重く、指先ひとつ動かすのも難しい。

 まるで自分の体でないかのような感覚だった。


「……ルシアン殿が解毒薬を作られ、容態はようやく落ち着きました。初めに倒れられた毒とは別に、遅行性の毒が混じっていた可能性があります」

「そうか……心配をかけたな」

「いえ……驚かれるかもしれませんが、殿下は今朝までずっとアイリス様の側におられました。今は溜まった書類の整理で執務室に戻られていますが、まもなくお見えになるかと思います」


 眉をわずかに寄せる。


「……私が忙しくさせてしまったからだろう。ここへ来て間もないというのに……敗戦国の象徴でしかない私が、また余計な目を引いてしまった」


 自嘲の声に、ナナキは首をそっと振る。


「いいえ。殿下は決して不快そうではありませんでした」

「……不快では、ない?」

「むしろ、落ち着いておられたようです。処刑中止の件も皇帝陛下の承認を得られ、各方面への指示も的確でした。ルシアン殿も陛下の命で直接こちらを診ておられます。

 ……また、城外ではアイリス様を支持する声が絶えず、お見舞いの花が城門前に積まれているそうです。殿下も驚かれていたとか——あのような表情は、私も初めて拝見しました」


 ナナキはそこで言葉を止めた。詳しい事情も、彼の胸の内も知らない。

 ただ、殿下が心から案じていたことだけは確かだと感じていた。


「……そうか。なら、少し安心した」


 アイリスは小さく息を吐く。

 窓から差し込む柔らかな光が、揺れるカーテンの影を白布の上に踊らせる。

 指先に力を込めても、まだ思うようには動かない。それでも光を見つめると、ようやく現実の感触が戻ってくる。


「帝国に来てから——ようやく、初めて眠った気がする」


 小さな呟きに、ナナキは穏やかに微笑んだ。


「それは良いことです。殿下も、きっとそうお思いでしょう」


 静かに退出すると、部屋には柔らかな静寂が戻る。

 遠くで鳥の鳴く声が響き、アイリスは再び瞼を閉じた。

 夢の向こうで見た景色が、少しずつ形を取り戻していく。



---


 ——どれほどの時間が経っただろう。

 夢とも現ともつかぬ思考の中、アイリスは光の揺らめきを追う。


 扉の開くわずかな音に、現実へと引き戻される。

 微かな靴音、近づく足音、部屋の空気がわずかに張りつめる。

 声を聞かずとも分かる——ユーフェインだ。


 静かに歩み寄る気配のあと、椅子が引かれる音。彼は寝台のそばに腰を下ろす。

 二人の間に、息を潜めるような沈黙が満ちる。


「……目を覚ましたのだな」


 落ち着いた声の奥に、わずかな安堵が滲む。

 アイリスはかすかに笑みを浮かべた。


「……ご心配をかけました」

「死にかけたのだ。さすがに心配もする」


 いつもの調子に、どこか柔らかさが混じる。

 目の下には薄い隈があり、疲労の色が隠せない。


「……ナナキが、殿下が二日もお側にいたと」

「ルシアンに聞いた。命を取り留めたのは、奇跡だと。そなたは奇跡を作るのが得意らしい」

「……皮肉ですか?」

「褒めている」


 短いやり取りのあと、ユーフェインはふっと目を伏せる。

 沈黙の末、静かに告げる。


「——あの場で処刑を止めてくれて、感謝している。でなければ、ルシアンを失っていた」


 アイリスは息を呑む。叱責でも詰問でもなく、ただ静かな響き。


「……まだ分からないことが多い。そなたの行動が正しかったのか、愚かだったのか。だが——」


 ユーフェインは一度だけ、彼女を見た。

 瞳は真っすぐで、迷いがなかった。


「そなたが選んだことを、否定はしない」


 それだけを残して立ち上がる。

 椅子がわずかに軋む音のあと、背を向けた彼の横顔に、安堵の影がうっすらと宿っていた。



---


 ユーフェインが立ち去ると、部屋には静かな空気だけが残る。

 アイリスは瞼を閉じ、足音が遠ざかるのを聞いていた。


 ——否定されなかった。


 胸の奥に、わずかな温もり。理屈では説明できない奇妙な感覚。

 守られた安心でも、感謝でもない、心の奥の何か。


 だが、すぐに現実が戻る。

 帝国における自分の立場、敗戦国の皇女であること、守られるだけでは済まされない責務。


 ——それでも、今は、少しだけ、静かにいられる時間。

 光が揺れるカーテンをぼんやりと見つめ、アイリスは小さく息を吐く。

 瞼の奥で、彼の存在を確かめるように、心の奥でそっと感覚を留める。


 遠くで鳥が鳴き、柔らかな光が白布の上を揺らす。

 外の世界がどんなに騒がしくても、この静かな瞬間に、心はほんのわずかに柔らかくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ