14、微かに揺れる
——あの処刑を止めてから、アイリスは意識を失っていた。
二日間、生死の境を彷徨い、三日目の朝、ようやく瞼を開いた。
目を覚ますと、侍女が息を呑み、慌ただしく部屋を出ていく。
ほどなく扉が静かに開き、ナナキが入ってきた。中央までは進まず、ドアのそばで深く一礼する。
「外は……殿下は……私は……」
「まだお体を起こされてはなりません。医官によれば、安静にしていれば問題ないとのことですが……二日も意識を失われ、一時は危険な状態でした」
体は鉛のように重く、指先ひとつ動かすのも難しい。
まるで自分の体でないかのような感覚だった。
「……ルシアン殿が解毒薬を作られ、容態はようやく落ち着きました。初めに倒れられた毒とは別に、遅行性の毒が混じっていた可能性があります」
「そうか……心配をかけたな」
「いえ……驚かれるかもしれませんが、殿下は今朝までずっとアイリス様の側におられました。今は溜まった書類の整理で執務室に戻られていますが、まもなくお見えになるかと思います」
眉をわずかに寄せる。
「……私が忙しくさせてしまったからだろう。ここへ来て間もないというのに……敗戦国の象徴でしかない私が、また余計な目を引いてしまった」
自嘲の声に、ナナキは首をそっと振る。
「いいえ。殿下は決して不快そうではありませんでした」
「……不快では、ない?」
「むしろ、落ち着いておられたようです。処刑中止の件も皇帝陛下の承認を得られ、各方面への指示も的確でした。ルシアン殿も陛下の命で直接こちらを診ておられます。
……また、城外ではアイリス様を支持する声が絶えず、お見舞いの花が城門前に積まれているそうです。殿下も驚かれていたとか——あのような表情は、私も初めて拝見しました」
ナナキはそこで言葉を止めた。詳しい事情も、彼の胸の内も知らない。
ただ、殿下が心から案じていたことだけは確かだと感じていた。
「……そうか。なら、少し安心した」
アイリスは小さく息を吐く。
窓から差し込む柔らかな光が、揺れるカーテンの影を白布の上に踊らせる。
指先に力を込めても、まだ思うようには動かない。それでも光を見つめると、ようやく現実の感触が戻ってくる。
「帝国に来てから——ようやく、初めて眠った気がする」
小さな呟きに、ナナキは穏やかに微笑んだ。
「それは良いことです。殿下も、きっとそうお思いでしょう」
静かに退出すると、部屋には柔らかな静寂が戻る。
遠くで鳥の鳴く声が響き、アイリスは再び瞼を閉じた。
夢の向こうで見た景色が、少しずつ形を取り戻していく。
---
——どれほどの時間が経っただろう。
夢とも現ともつかぬ思考の中、アイリスは光の揺らめきを追う。
扉の開くわずかな音に、現実へと引き戻される。
微かな靴音、近づく足音、部屋の空気がわずかに張りつめる。
声を聞かずとも分かる——ユーフェインだ。
静かに歩み寄る気配のあと、椅子が引かれる音。彼は寝台のそばに腰を下ろす。
二人の間に、息を潜めるような沈黙が満ちる。
「……目を覚ましたのだな」
落ち着いた声の奥に、わずかな安堵が滲む。
アイリスはかすかに笑みを浮かべた。
「……ご心配をかけました」
「死にかけたのだ。さすがに心配もする」
いつもの調子に、どこか柔らかさが混じる。
目の下には薄い隈があり、疲労の色が隠せない。
「……ナナキが、殿下が二日もお側にいたと」
「ルシアンに聞いた。命を取り留めたのは、奇跡だと。そなたは奇跡を作るのが得意らしい」
「……皮肉ですか?」
「褒めている」
短いやり取りのあと、ユーフェインはふっと目を伏せる。
沈黙の末、静かに告げる。
「——あの場で処刑を止めてくれて、感謝している。でなければ、ルシアンを失っていた」
アイリスは息を呑む。叱責でも詰問でもなく、ただ静かな響き。
「……まだ分からないことが多い。そなたの行動が正しかったのか、愚かだったのか。だが——」
ユーフェインは一度だけ、彼女を見た。
瞳は真っすぐで、迷いがなかった。
「そなたが選んだことを、否定はしない」
それだけを残して立ち上がる。
椅子がわずかに軋む音のあと、背を向けた彼の横顔に、安堵の影がうっすらと宿っていた。
---
ユーフェインが立ち去ると、部屋には静かな空気だけが残る。
アイリスは瞼を閉じ、足音が遠ざかるのを聞いていた。
——否定されなかった。
胸の奥に、わずかな温もり。理屈では説明できない奇妙な感覚。
守られた安心でも、感謝でもない、心の奥の何か。
だが、すぐに現実が戻る。
帝国における自分の立場、敗戦国の皇女であること、守られるだけでは済まされない責務。
——それでも、今は、少しだけ、静かにいられる時間。
光が揺れるカーテンをぼんやりと見つめ、アイリスは小さく息を吐く。
瞼の奥で、彼の存在を確かめるように、心の奥でそっと感覚を留める。
遠くで鳥が鳴き、柔らかな光が白布の上を揺らす。
外の世界がどんなに騒がしくても、この静かな瞬間に、心はほんのわずかに柔らかくなっていた。




