[閑話]愚かで、美しいひと
すっかり日の昇った執務室で、ユーフェインは一人、机に向かっていた。
処刑の中止を命じた報告書。その末尾の署名を何度も書き直す。手の中の羽ペンが、微かに震えている。
——何をしているのだ、俺は。
法に背いた。
皇族の命を狙った者を赦すなど、前例はない。
彼女の懇願を退け、秩序を守るのが正しかったはずだ。
そう分かっていながら、あの場で俺は迷わず命令を下した。
あの声が、頭の奥に残っている。
「守るべき者を守れずして、何が皇族よ!」
冷たい空気の中で、彼女の叫びだけが真実のように響いていた。
あの瞬間、誰よりも人らしいのは彼女だった。
皇族の義を、彼女は己の血ではなく心で示した。
それを見たとき、胸の奥が熱くなったのを今も否定できない。
アイリス=オルフェリア。
曲がらぬ信念を持ち、誇りと責任のもとに生きる女。
己の命を惜しまず他者を庇う姿は、皇族を神とも称するこの国で、時に愚かしく、そして美しい。
その愚かしさに、ユーフェインは抗えなかった。
理屈では否定できた。忠義でも説明できた。
それでも、あの声を聞いたとき——心が先に動いた。
己の理を誇りとしてきた男が、初めて理の外に手を伸ばした瞬間だった。
彼女に率いられた皇国の兵たちは、誰が見てもアイリスを慕っていた。
今なら分かる気がする。
言葉ではない。人を惹きつける何かが、確かにある。
力でも、美貌でもない。——ただ、生き方の筋が真っ直ぐなのだ。
そしてもう一つ、彼は気づいている。
義務として妃としたはずの彼女の側が、なぜか静かに落ち着くのだ。
居心地がいい。
それを口にすることは決してないが、否定もできない。
この感情は何だろうか。
ユーフェインは小さく息を吐き、報告書の紙端に署名する。
「随分と時間をおかけになったのですね」
ペンを置くと、執務官のエドモンドが言った。
刑の執行を決断したのは即断に近いものだったが、署名をするのには思いのほか時間をかけた。
「アイリスは……その後どうしている」
「特医の話では、しばらく安静に休めば問題ないと」
「そうか」
エドモンドはユーフェインより四つ歳上の青年で、物心ついたときにはユーフェインを支えるべく育てられてきた。
ずっと側で見てきたからこそ、今回のユーフェインの判断には驚かされた。
確かに薬草の知識に明るいルシアンをこのまま失うのは大きな痛手かもしれない。
法を無視したことに疑問を呈する声が無いとは言わないが、観衆達にはアイリスの言葉が真っ直ぐに伝わったらしい。幸いにも、ユーフェインやアイリスを非難する声は小さかった。
「……お前はアイリスをどう見ている?」
比較的自分で全てを決めてしまうユーフェインに、珍しく意見を求められる。
それすらも、普段の彼とはどこか違っていた。
「……聡明であられると思います。何よりご自分の立場をわかって動かれていた。その聡明さと、今朝の己を顧みない立ち振る舞い……それが、皇国で姫が慕われていた理由でしょう」
「皇族らしからぬその振る舞いに、この俺が思わず圧倒されたほどだ」
ユーフェインは小さく笑うように息を吐いた。
「幼い頃に夢想した理想の皇族というのは、アイリスのような者であったかもしれないな」
言葉を終えたあと、彼はふと窓の方を見た。
陽光に霞む空の向こうで、彼女が目を覚ましているかもしれない——そう思うだけで、胸の奥が静かに疼く。
その痛みの名を、彼自身まだ知らなかった。




