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ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
13/18

13、皇族の義、ひとの心

 ——静寂の底から、呼び戻されるようにして目を覚ました。


 瞼を開けた瞬間、視界がゆらりと滲む。見慣れぬ天蓋。薄い亜麻布のカーテン。外では、夜明け前の冷たい光が静かに差し込んでいた。


「……ここは……」


 声に出した途端、喉が焼けるように痛んだ。口の中には薬のような苦味がまだ残っている。上体を起こそうとしたとき、低い声がその動きを止めた。


「動くな」


 ユーフェインだった。

 椅子に腰をかけたまま、こちらを見つめている。いつもの無表情に戻っているが、その目の下には深い隈があった。


「……どれほど眠っていたのですか」

「二日だ。毒の回りが遅かったのが幸いだった」


 毒——。

 その言葉が耳に落ちた瞬間、胸の奥に重いものが沈む。あの茶だ。月光花の花茶。ルシアンからもらった。


「ルシアンを拘束した。直前に口にしたものはあの茶だったからな」

「でも、ルシアンがそんなことするはずないと、わかっているのでしょう?」

「ならば、なぜそなたは茶を飲んで倒れた?」


 ユーフェインの声は淡々としていた。だが、その静けさがかえって痛烈に響く。


 アイリスは唇を噛む。頭の奥がまだ重い。それでも、あのときのルシアンの笑みを思い出す。毒など仕込む者の顔ではなかった。


「彼は……きっと何かの誤解です」

「誤解で済む話ではない」


 ユーフェインの拳が、膝の上で静かに震えた。押し殺した感情が、その皮膚の下で軋んでいるようだった。


 その時、外で太鼓の音が鳴った。

 乾いた音が、夜の終わりを告げるように響く。


「——何の音です?」

「……夜明けとともに、ルシアンの処刑が行われる」


 胸が凍りつく。


「お願い、そこに私を連れて行って」

「……だめだ」

「狙われたのは私です! 私には見届ける義務がある!」


 その懇願に、ユーフェインはしばし沈黙した。やがて低く息を吐き、呟く。


「命を狙われたばかりで絶対安静なのだぞ。お前という女は……」


 皮肉めいた言葉のあと、ほんの僅かに口角が動いた。そして立ち上がり、アイリスを抱き上げて扉へ向かう。


「急がなくては間に合わんな。馬を持て」


 宮殿を出ると、ユーフェインはそのままアイリスを抱えたまま馬に跨がった。

 再び太鼓の音が鳴る。

 二人を包む冷気が、まるで刃のように肌を切った。


 城門を抜けた瞬間、遠くでかすかな歓声が上がる。夜明け前の霧の向こうに、処刑台が見えた。

 人々の息が、凍りついた空気に白く混ざっていた。


 ルシアンは鎖に繋がれ、台の上に立たされている。台の下の男が合図をすれば、足元の板が外れる。


 アイリスはユーフェインの腕の中から飛び降り、そのまま処刑台へと駆けだした。


「アイリス! くそっ!」


 ユーフェインが叫び、後を追う。


「待って! その処刑、少し待ってください!」


 アイリスの声が刑場に響く。

 兵たちは驚きに顔を見合わせた。


「命令が——間違っているかもしれない!」

「アイリス!」


 ユーフェインが追いつき、彼女を抱き締める。


「皇族を害した者は死罪だ。皇族が法を私利私欲で変えることはできない!」


 毒の後遺症で震える身体に、どこにそんな力があるのか。アイリスはユーフェインの腕を振りほどき、叫んだ。


「皇族の権力は、下の者を守るためにあるんじゃないの!

 守るべき者を守れずして、何が皇族よ!

 こんな時に使わないで、いつ使うの!」


 その声が、太鼓の音を止めた。

 処刑人が振り返り、縄の影が朝の光に揺れる。

 群衆が息を呑む。

 冷たい風が吹き抜ける中、ユーフェインはただ黙って彼女を見つめていた。


「……なるほどな」


 ユーフェインは静かに目を細め、兵に命じる。


「責任者はいるか。刑の執行は取り止めだ」


「はっ……ですが、それでは——」


 戸惑う責任者を前に、ユーフェインは見せつけるようにアイリスを抱き寄せた。


「仕方あるまい。私は今、この寵妃に初めて強請られてな。随分と機嫌が良い。

 ……問題があれば後ほど報告せよ。ルシアンはこちらで引き取る」


「は、はぁ……」


 戸惑いながらも、兵たちは従う。

 鎖が外され、ルシアンは地面に崩れ落ちるように膝をついた。


「ありがとうございます! この御恩は——決して忘れません。命をかけて、お仕えいたします!」


 朝の光が霧の向こうから差し込み、彼の頬を照らした。アイリスはその光の中で、ひときわ白く息を吐いた。

 そして、わずかに震える声で囁いた。


「……期待している」


 アイリスは、力が抜けてユーフェインにもたれかかる。


 太鼓が二度、空を震わせた。

 処刑の合図ではなく——夜明けを告げる音として。

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