10、主従の刻印
凱旋が終わり、アイリスは部屋へ戻るなり人払いをした。
ただ立っていただけ——とはいえ、見世物となるのは随分と疲弊する。加えて賊たちから動きにくい服で身を守る際に、そのときは気づかなかったが、あちこち擦りむいているようだ。
ソファに疲れきった体を預けて腰掛けるが、重たい髪飾りを乗せた頭が酷く痛んだ。
やはり着替えて人払いをするべきだったと思い、外へ声をかける。
「……誰か、いないか」
そうして入ってきたのは、ナナキであった。思いがけない人物に、アイリスは目を丸くする。
「……何か御用でしょうか」
「いや、着替えを手伝ってもらおうかと思っていた」
「そうでしたか。侍女達は持ち場を離れているようで、すぐに戻るかと思いますが」
「……大丈夫だ。元はといえば私が人払いしたのだから」
よく見知った間柄であるというのに、どこか距離を感じる。
「では、侍女達には伝えておきますのでもうしばらくお待ちください」
「ま、待て」
アイリスはナナキを呼び止める。
「……その、怪我はもう大事ないのか」
「ご心配には及びません。動けるようになりましたので、アイリス様の護衛の任についています」
アイリスは安堵したと共に、彼が身につける帝国の装いに胸が痛んた。
「……失望、しただろ。私が……帝国の妃になるなど」
我ながらずるいと思う。
ナナキは再会したときから一度も侮蔑する態度を取ることはなかったというのに、私は今、楽な道を選ぼうとしている。
見世物となる人生に覚悟はできていた。であれば、かつての仲間には徹底的に誹りを受ける方が楽だと言えよう。
ナナキは一瞬俯いたが、すぐに言った。
「失望など……するわけがないでしょう!」
ナナキの目には涙がうっすらと溜まっていた。
「貴女が選んだ道は、皇国のために命を散らすよりもずっと苦しい道だ! 生きている限りずっと敗者として見世物にされる貴女を、誰が失望しますか!」
「……じゃあ、どうして。どうしてここにいる? お前ならここを逃げ出すくらい簡単にできるだろう! なぜ城に留まった? 仮にも皇国の侯爵家の一人。わざわざ帝国に忠誠を誓うなど、お前らしくもないじゃないか」
「私はいつだって死ぬことができます。でも、貴女はそうじゃない。今もまだ皇国のために命をかける主がいるというのに、国が無くなったから死ぬなど、それこそ俺らしくないでしょう」
ナナキがそう言い終わると同時に、続き間のドアが開く。
「……だからこそ、これをお前の護衛にした。そなたのためといえば何でも働く忠犬の使いどころはまだありそうだからな。それに、今この時点で俺に牙をむこうとする馬鹿でもなさそうだ」
ナナキが深く頭を垂れると、ユーフェインは面白そうに笑った。
「良い家臣を持っていたようだな。他にもこれのような者がいれば、皇国はいよいよ滅ぼさなくてはならなかった」
言葉には軽い調子が混じっていたが、その眼差しは笑っていなかった。
やがてユーフェインは、ゆっくりとアイリスの方へと歩み寄る。
「忠犬の前で少しくらいは示してやらねば、勘違いされるだろう」
そう言って、彼はアイリスの頬に触れた。
指先は冷たく、触れるというよりも、刻印するようだった。
アイリスは眉を動かさず、その手を受けた。
ただ、ナナキの視線が床に落ちるのを見て、胸の奥にひやりとした痛みが広がる。
「よいな、ナナキ。そなたが仕えるのは皇国の姫ではない。帝国の妃だ」
「……承知しております」
ナナキの声は低く、震えを抑えていた。
ユーフェインは満足げに頷き、ゆるやかにアイリスの髪を撫でた。
「良い目をしている。主の命を守るには、忠義だけでは足りん。——執念が必要だ」
その言葉を残し、ユーフェインは手を離すと、まるで用事を終えたように踵を返した。
扉が閉まる音が響き、再び沈黙が落ちる。
アイリスはその場に立ち尽くし、しばらく何も言えなかった。
ユーフェインの残した指の感触が、頬に冷たく残る。
「……ごめん」
呟いた声は、床に吸い込まれるように消えた。
ナナキは静かに頭を上げたが、その瞳には、怒りとも哀しみともつかぬ光が宿っていた。




