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ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
1/18

1 オルフェリアの戦記

ゆっくりと投稿予定です


 荒れた大地に冷たい風が吹く。夏の初めに始まったこの戦争は、もう間もなく冬を迎えようとしている。

 皇女アイリスは、陣を敷いた高台から眼下に広がる夜の平野を見下ろしていた。


 オルフェリア皇国は大陸の東に位置する小さな国だ。一時は大陸の覇者とも呼ばれた勢いは失われ、皇国を傀儡にしようとする貴族の陰謀によって国力は無いに等しい。

 三年前、戦争に出ていた父が突如急逝した。この時代に生まれていなければ賢王と呼ばれていたはずの健康な王の死に、疑問がなかったわけではない。皇族でありながら、それを問う力すらアイリスには無かった。

 父王に代わって王となったのは、アイリスより七つ歳下の義母弟カイルである。わずか八歳での即位は、貴族の増長を許し、より国内の混乱を極めた。

 

 母こそ違えど、カイルとの関係は良好だった。アイリスは幼い頃に母を亡くし、ずっとカイルの母親であるメイリーン妃に大事に育てられてきた。その彼女の息子もまた、アイリスを姉と慕ってくれていた。

 アイリスは父に続き、カイルまで失っては皇国の終わりだと、自ら戦場に立つことにした。当然メイリーン妃もカイルもアイリスを止めたが、そうする他に無いと覚悟を決めていた。

 

 十五歳で戦場に立って三年目となる今年。

 オルフェリア皇国は滅亡か属国となるかの瀬戸際にあった。もはや軍の半分は壊滅し、残る兵も飢えと寒さに耐えるのが精一杯だ。

 それでも彼らは、皇女がいる限りと踏みとどまってきた。――その信頼が痛かった。

 今夜を越えれば、もう戦う力はない。明日、アイリスは白旗を掲げ、降伏を告げるつもりだった。

 それが屈辱であることは分かっている。だが、これ以上血を流す理由を、もう見出せなかった。

 風が頬を打つ。かつて父が立ったこの丘の上で、アイリスは静かに目を閉じた。

 


 風がさらに冷たくなっていた。


 見下ろす平野の向こうに、敵軍の焚き火がいくつも灯り、ゆらめく光が星のように瞬いている。

 アイリスは小さく息を吐き、天幕へ戻ろうと踵を返した――その瞬間だった。

 闇の中から、低く空気を裂くような気配。次の刹那、覆面の影が三、四人、地を滑るように迫ってきた。


「――ッ!」


 咄嗟に双剣を抜いたアイリスの前に、音もなく鋼が閃く。火花が散り、金属の悲鳴が夜に響いた。

 側近のナナキが駆けつけ、剣を構える。


「姫様、下がって!」


 だが相手の動きは異様に鋭かった。踏み込みの速さも、斬撃の重さも、これまでの戦場で見たどの兵士のものでもない。

 アイリスとナナキの剣筋が次第に押し込まれ、火花の合間に一人の覆面が背後へ回り込む。


 冷たい衝撃が首筋を走った。

 視界が歪み、遠くでナナキの叫びが聞こえる。

 地面に膝をつく直前、最後に見えたのは、夜空を裂くように振り下ろされる黒衣の影――。


 アイリスの身体はそのまま闇に飲まれていった。

 

 

 

 目を開けると、闇が揺れていた。

 灯火の影が粗末な天幕の内側を走り、湿った土と血の匂いが鼻を刺す。

 身体を起こそうとしたが、手足が縄で縛られている。肌に触れるのは冷たい鎖の感触だった。


 どこか遠くで、兵士たちの笑い声と、鍋をかき混ぜる金属音がする。

 自分がまだ生きていることを知り、アイリスは静かに息を吐いた。


 ――殺されなかった。


 それが何を意味するのか、すぐに理解できた。


「目を覚ましたか」


 低く響く声に顔を上げると、天幕の中に置かれたやけに装飾の凝った椅子に男が腰掛けてこちらを見ている。

 先程アイリスを襲った者たちと同じ黒い外套をまとっていたが、覆面はしていない。鋭い金の瞳が覗いている。

 敵国・ヴァラアニカ帝国の将、ユーフェイン。この男が戦場に立てば瞬く間に部隊が壊滅する。この名を、アイリスは何度も報告で聞いていた。


「……その様子だと、名乗らずとも私を知っているようだな」


 男の口元に冷たい笑みが浮かぶ。


「三年前、出兵を嫌がった俺に届いた報せは、敵王の死だった。ようやく帰国できると思った矢先――立ったのは十五の皇女。無謀だと思ったが、三年経ってもこの戦が終わらなかった。その間、我が国が失った兵は万を超える」

「……」

「ようやく、お目にかかることができて光栄だ……アイリス姫」


 アイリスは唇を噛み、何も言わなかった。

 その沈黙を、ユーフェインは満足げに見つめた。

 

「明日、我々は皇都へ進軍する。姫にはことが終わるまでしばし、ここで待っておられよ」

 

 ユーフェインはそう言って天幕を出ると、見張りに何かを告げて去っていった。

 

 天幕の外で、風が唸りを上げた。

 縄で擦れた手首の痛みが、現実を突きつける。


 ――降伏すら、叶わなかった。


 唇を噛みしめながら、アイリスは静かに目を閉じた。頬を伝う涙が冷たく乾く。

 この身が利用されるというなら、それでもいい。

 今はただ、皇都に残るメイリーン妃とカイルのことだけで胸が一杯になった。

 

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