7 肺と肝臓を持ち帰りなさい
それからまもなく、王国と隣国エンゲルラントとの間に戦争が起こり、若き王は自ら兵を率いて戦場に向かうこととなりました。
「エンゲルラント。ドイツ民話に現れる架空の国名だ。
『天使の国』という意味であり、『エングラント』つまり英国のもじりでもある」
誰も聞いていませんが、ヤーコプは熱心に説明していました。
ぴかぴかに輝く鎧に身を包んだ王は堂々として、実に凛々しい美男子ぶりです。
城の中庭で、見送る王妃と白雪姫に語りかけます。
「奥や、くれぐれも城と白雪姫のことを頼む」
「心得ましてございます。
ご健勝をお祈り申し上げます」
王妃も、この国で最も高貴な婦人として、優雅で落ち着いた挨拶をしましたが、その右手はせわしなく、左手に嵌めた指輪をまさぐっていました。先日王から贈られた指輪です。
「白雪姫、私はしばらく留守にする。
母の言いつけを良く守るのだぞ」
「はい。
お父さま……行ってらっしゃいませ……」
涙をためて見上げる白雪姫。
王も憐れを感じたのか、王の顔から父親の表情に戻り、姫の元にかがみこんであれこれと言葉をかけ始めました。
ヴィルヘルムが呆れたような声で言いました。
「あーあ、また王妃が睨んでるよ」
王たちの会話と様子をメモに取りながら、ヤーコプが答えます。
「子供の方が心配なのは分かるが、等分に愛情を見せた方がよかったな。
この2人はただの母子ではなく、王の寵愛を権力基盤にする政治的ライバルなのだから」
グリム兄弟が口々に感想を述べる前で、王は颯爽と戦へと旅立つのでした。
それから何日かの後。
王妃は白雪姫に言いました。
「姫や、われらは王族、騎士や兵士によって幾重にも守られています。
ですが、こたびのように戦が起こり、逆に敵に攻められて危険にさらされることもあるのですよ。
そのような時、どのようにしておのが身を守るか。お前も知っておかねばなりません。
ついていらっしゃい」
「はい、お母さま」
母子はお供を連れずに、例の秘密の小部屋に入っていきました。
もちろんグリム兄弟もついていきます。
「お母さま、ここは……?」
王妃はそれには答えずに机上のランタンを手に取り、収納箱から質素な靴を取り出して履き替えます。
そしてランタンに火を灯すと、入ってきたのとは別の小さな扉を開けました。
その奥は、狭い下り階段になっています。
ランタンの灯りを頼りに、2人して長い階段を降りますと(もちろん、後ろから兄弟もついていきます)さらに窓のない通路になっていました。
「ここは地下通路。
いざとなったら、王家の血を絶やさぬように落ち延びるための隠し通路です。
これは城の外まで続いているのですよ」
通路の端は上り階段があり、閂のかかった扉がありました。
王妃が閂を外して扉を開けると、そこは王妃の言葉通り、古びた小さな礼拝堂の中につながっていました。
礼拝堂の外は、城のすぐ外にある王家所有の土地です。礼拝堂の他は林になっているだけで、誰も入ってくることは許されません。
「ここから先は、わらわが姫を抱きかかえねばなりません。
そなたも大きくなりましたが、まだできるはずです」
白雪姫は王妃の胸くらいの背丈だったのですが、王妃は彼女を抱き上げることができました。
そして、
「森の狩人の元まで」
と言って足を一歩踏み出した次の瞬間、2人の姿は消えていました。
「魔法の靴だ!」
「追うぞ、ヴィルヘルム」
グリム兄弟は即座に世界観測儀を取り出すと、白雪姫のいる座標を確認して操作します。
すると周囲の景色がページをめくったように一瞬にしてかき消え、そして兄弟の目の前には、鬱蒼とした森の中にいる白雪姫と王妃の姿が現れました。
白雪姫と王妃の前には、1人の狩人がおりました。
頑丈な体つきの髭の大男で鉄砲を持ち、羽飾りのついた帽子をかぶり、腰には大ぶりのナイフを下げています。
「なるほど。
この世界では、王妃が白雪姫を狩人のところまで連れて行くのに、隠し通路と魔法の靴を使うんだね。
筋が通っている」
ヴィルヘルムが感心したようにうなずきます。
「確かに。
狩人のいる森は、そのまま7人の小人のいる家に繋がっているほど広い。城からどうやってそこまで移動するのかは、大抵の世界では曖昧だった」
ヤーコプも感心した様子です。
物語の細部が曖昧な世界では、鏡の場面が終わると、切り替わるようにいきなり狩人と白雪姫が森の中にいたりするのです。
この『白雪姫』は、かなり整合性の高い世界であるようでした。
さて白雪姫が狩人に気を取られていると、王妃は彼女の後ろから、どんと勢いよく狩人の方へ突き飛ばしました。
姫は狩人の足元に倒れこみます。
「さあ狩人よ、この者を殺しなさい」
「へえ、かしこまりやした」
「お、お母さま?」
「エーレンベルク稿では狩人を使わない。
2人で森まで馬車で行き、王妃が外の薔薇を摘むように言って白雪姫を馬車から降ろし、そのまま置き去りにして馬車を走らせて去った。
魔法の靴はこの世界独自の要素だが、他の民話には登場する。
行き先を言えば遠方に一瞬にして移動できるが、壁は通過できない。いったん外に出る必要がある。
また、一足の靴は1人しか移動できないが、抱きかかえれば荷物としてもう1人くらいは連れて行ける──しっかりしたルールがあるようだ」
ヤーコプが腕を組み、青ざめた白雪姫を見ながら考えを口にしています。
王妃は、美しくも冷たい笑みを浮かべました。
「ああそうそう、殺した証拠に肺と肝臓を持ち帰りなさい。
わらわが食べるのだからね」
「かしこまりやした」
満足げにうなずくと、王妃はきびすを返してその場から消えてしまいました。
「かわいそうだが、お妃さまのご命令だ」
狩人は、突き飛ばされて地面に手をついた白雪姫を見下ろします。
「そ、そんな……。
お願いおじさん、みのがしてちょうだい!
わたしは自分で森ににげます、もうここにも城にももどりません、だからころさないで!
お願いします……!」
ぽろぽろと涙を流しながら、白雪姫は狩人に懇願しました。
狩人も、幼く愛くるしい姫が泣く姿に眉を下げます。
「たしかにおれは獣を殺すのが仕事だ。だけどもこんな子どもを手にかけるために、ナイフや鉄砲を持ってるわけじゃねえ……。
いいぜ、姫さん、見逃してやるよ。
だがな、おれも命が惜しいんだ。あんたをもう一度見ることがあれば、そん時は容赦しねえ。
森の奥に行きな。2度とこっちに来るんじゃねえぞ」
言って、狩人は白雪姫に背を向けました。
森には危険な獣がたくさんいます。食べられるものもありませんし、夜は冷えます。
狩人が手を下さなくとも、森に子供が迷いこめば生きてはいられないのです。
ですが白雪姫は行くしかありません。
必死の表情で立ち上がると、鹿のように素早く森の奥に走っていきました。
しかしそれは、なんという速さだったでしょう!
ほぼ一瞬で、姫の姿はグリム兄弟の視界から消えました。
「速い! 人間の速さじゃないよ!」
「白雪姫は僕が追う!
ヴィルヘルム、狩人を見ていてくれ!」
ヤーコプは素早く世界観測儀を取り出して調節し、姫の跡を追って空間を跳躍しました。
森は平地であるために起伏はないのですが、大きく隆起した大樹の根っこや岩があちこちにあります。
そんな道なき道を、城育ちの姫が下手な獣よりもよほど速く飛び越え、休みなく駆け抜けていくのです。
「さ、さすが、夜になる前に7人の小人の家にたどり着くだけのことはある……」
ヤーコプも、観測者としての道具と能力を駆使して白雪姫の近くに瞬間移動するのですが、距離を詰めた途端にまた引き離されてしまいます。
駆ける白雪姫にときおり熊や狼が気づくのですが、獲物として追う様子はありません。餌として認識していないような無関心です。
白雪姫は気づいていませんが、逃走とヤーコプの追跡が数時間続いたのち。
夕方になって、白雪姫は森の中にある木の家にたどり着いたのでした。
この『7』話から、白雪姫が災難に遭いはじめます。
たしかに7は試練の数字であるようです。
・白雪姫の足が速すぎないか?
ちなみにグリム童話集だと、
1:白雪姫が狩人から離れて駆け出す
2:その日の夜までに、7人の小人の家に到着
3:後のシーンで、継母(あるいは実母)が「7つの山を越えて」7人の小人の家に行く
4:つまり白雪姫は、半日で7つの山を越えた
なので原作通りです……。
森の獣が襲わないのも原作通りですが、そりゃ追いつけないでしょ。




