6 鏡よ鏡
その日の午後。
王妃は侍女を下がらせて、自分の部屋で1人きりになりました。
そして壁にかかった大きなタペストリーを、カーテンのようにめくります。
タペストリーの裏の壁には扉があり、奥には秘密の小部屋がありました。
王妃に続いて、グリム兄弟も壁を突き抜けて小部屋に入ります。
そこは、不思議で雑多な品物が並ぶ部屋でした。
真ん中にはテーブルがあり、なにか作業に使うらしきすり鉢や乳棒などが置いてあります。
壁際には豪華な鏡台と大きな棚があり、さまざまな薬を入れたガラス瓶や、陶器の容れ物や、金属の小箱が並んでいました。
お酒に漬けて保存されたヤモリや、蜂蜜漬けのなんだか分からない動物の内蔵や、焜炉に置かれた大釜なども。
王妃は鏡台の椅子に触り、机に並んだ小さな瓶から、薔薇やハーブから抽出したらしき香りのする化粧水を手に取ると、それを肌に塗り始めました。
「兄さん、この部屋……」
ヤーコプは、王妃が向かい合っているのとは別の、壁に掛けられた鏡を指さします。
「ああ。『鏡よ鏡』の部屋だ」
それは楕円形の、大人の上半身が映るほどの大きさの鏡でした。
枠は不思議な黒光りする金属で、薔薇と棘のついた蔓が絡まる意匠が凝らされています。さらに蔓に沿って、『鏡よ鏡』という飾り文字が刻まれています。
肌の手入れが終わったらしく、王妃は立ち上がって壁の鏡に近づきました。
「鏡よ鏡、この国で1番美しい女はだれ?」
王妃が鏡に向かって尋ねると、鏡から平坦な、老若男女どれともつかない声が発せられました。
『王妃様、貴女は美しい。
だがあなたの娘、白雪姫は貴女の千倍も美しい』
「────!!」
王妃の顔が蒼ざめました。
「あんな小娘ごときに、このわたくしが……!?」
妃らしからぬ嫉妬と憤怒の声を上げました。ですがそれでも、蒼白な顔色で眦をつり上げたさまは、悽愴の美の極致でありました。
「千倍というのは言い過ぎだな。
これは民話独特の言い回しであって、本当に千倍もの差がついているわけではない」
鏡越しに王妃の表情を見ていたヤーコプが、真面目な顔で冷静に指摘しました。
後ろで見ていたヴィルヘルムもうなずきます。
「まあね。でも気持ちは分かるよ。
7歳の子供に負けるなんて、いくら何でも面目が立たないもんなあ」
その言葉を聞いて、ヤーコプの緑の瞳がきらりと光ります。
「7という数字は、ヨーロッパ民話の世界ではいささか縁起が悪い。
兵隊が悪魔に7年間仕える。7つの頭を持つ竜。7歳で亡くなる男の子。
元々ユダヤ教や初期キリスト教は、週の7日目、つまり土曜日が安息日だった。
のちにユダヤ教との差別化のためか、キリスト教はその次の日である日曜日、つまり8日目を安息日にした。
理屈としては、神が天地創造を終えて休息された7日目の土曜日は、神が不在になった日。そして神が世界に戻られた8日目の日曜日こそが、真の天上的幸福の日ということを意味する」
「ああ〜、余計なスイッチ入れちゃった……」
天を仰いだヴィルヘルムの様子には構わず、ヤーコプは熱く続けます。
「また土曜日はローマ時代ではサトゥルヌスの日。
占星術では、土星は苦難や忍耐といった、成功の前段階の苦労を表す。
1週間が7日あるように、キリスト教以前の宗教では『良い数字』だったのが、キリスト教によって異教の数字、悪魔の数字として否定されていった。7つの大罪、7大悪魔といった風に。
だが妖精や地母神といった古い神々は、民衆の中に根強く残っている。妖精、小人、魔法の力を持つ樹木……それらは善人に幸せをもたらし、悪人に罰を与える。
かくして7という数字は、吉凶両面を併せ持つ数字となった。
主人公に降りかかる苦難の数字、それを乗り越えればハッピーエンドが訪れる試練の数字。
白雪姫が7歳で災難に見舞われるのも、その1つだ」
「なるほどね。試練の降りかかる数字としての『7歳』なんだ。
そういや7人の小人は主人公の味方だけど、主人公の手助けになる『7』は少数派なんだね。
ラッキーセブンって言葉もあるから、縁起のいい数字だと思ったんだけど」
「ラッキーセブンは野球から生まれた言葉だ。
終盤の7回は試合が動いて、攻撃側が得点を取りやすいからだと言われている。
言われているだけで、実際はどうだか知らないが……」
ヴィルヘルムがクスリと笑いました。
「そりゃ僕たち、18世紀生まれで19世紀育ちのドイツ人・グリム兄弟だもんね。野球なんか見たことないよ」
「それはそうだ。
下位世界を100年もさまよっていたら、上位世界のことなど、アップデートされた知識でしか知りようがない」
兄弟は顔を見合わせて、くすくす笑い合いました。
ヤーコプが語っているのはあくまで一説であって、実際には諸説あります。多分。




