4 王妃は美しい女性でした
ところで、下位世界が無数にあるのなら、上位世界もまた無数……よりちょっと少ない数が存在しているということになります。
このグリム兄弟が属している上位世界では、石炭と平行して、精神動力が動力源として利用されています。
兄弟の使う個人用世界観測儀くらいなら、持ち主の精神力だけで充分エネルギーを賄えるのですが、飛行船の運行だの摩天楼の建築だの自動人形の工場稼働だの、そういった莫大なエネルギーとなると、発生源である人類全体から効率良く精神動力を採取しなければなりません。
元々、絵画や彫刻といった物理的な芸術作品が、多くの人間の、感動や関心といった精神動力を集めることは知られておりました。
そこに、19世紀の心理学者ジークムント・フロイトが、自我や超自我、欲動といった精神のあり方を提唱し、人々は無意識という未開発のエネルギー源に注目を始めます。
さらにスイスの心理学者カール・グスタフ・ユングが、集団的無意識と元型の概念を発見しました。
元型とは人類に普遍的に存在するイメージであり、神話や民話伝説の登場人物と共通するところが多々あります。
神話や民話伝説は、集団的無意識のプールに接続する扉。
現実と無意識のエネルギーとの、触媒としての表象。
すなわち、物語を通して人類の無意識的情動のエネルギーを汲み出すことができる。
この発見によって俄然、下位世界群が注目されることになったのです。
「「母親が亡くならなかった……」」
大抵のバージョンでは、白雪姫を産んでほどなく亡くなる王妃。
この世界では産後の肥立ちも良く、順調に体力を回復しています。
出産後も、滋養のある食事を摂りながらも食べ過ぎないように気をつけ、コルセットを着けて体型の崩れを防ぎ、髪や肌の手入れも怠りません。
おかげで彼女の美しさは、衰えるどころか増すばかり。
もともと宝石のように硬質な美しさを持った女性でしたが、子を儲けたことでさらなる気品と大人の余裕が加わっています。
「とにかくこの王妃さまは元気だし、継母は来そうにないよ」
ヴィルヘルムは王妃を横目で見ながら、兄ヤーコプに言いました。
王妃は、自分の部屋で侍女に髪を編み込ませています。
髪結いの侍女も、ドレスを準備している侍女たちも、皆うっとりと王妃に見とれていました。
同姓でも魅入られるほどの美しさなのです。
「ああ。
やはり、初版に近い……いや初版以前、エーレンベルク稿の可能性もある」
話しながら、ヤーコプは壁際に移動して、旅行鞄を開いて革表紙の本を2冊取り出します。
エーレンブルク稿とは、いわゆるグリム童話を出版する前の、手書きの草稿です。
ドイツの民話を口頭で聞いたものをそのまま書きつけた状態の原稿ですから、そのまま出版するには向きません。
分かりやすく説明や台詞を足し、文章を整えた童話が、出版された『子どもと家庭のメルヒェン集』なのです。
「エーレンブルク稿と初版は、内容はどう違ったっけ?」
ヴィルヘルムの質問に、ヤーコプは本をぱらぱらとめくりながら答えます。
「どちらも白雪姫の瞳が黒く、実母が彼女を殺そうとする。
その後、エーレンブルク稿では王妃が白雪姫と馬車に乗って森に置き去りにする。対して初版以降は狩人に殺させようとする。
他の大きな違いと言えば、ガラスの棺から姫を救う者だ。
初版以降は王子が登場するが、エーレンブルク稿では戦から帰国する途中の王、つまり白雪姫の父親だ」
「ああ、王様の侍医がリンゴを取り除いて白雪姫を助けるんだったよね」
「そうだ。
王子が助ける場合は、パターンが色々あるが……」
言って、前回とは別の書物を広げると、そこに書かれた文字が黄金の鳩の群れのように次々と飛び立っていきました。
「エーレンブルク稿と初版の『白雪姫』も発信した。
これで古いバージョンとの同異点も検出できる」
「次のイベントは、白雪姫が7歳の時だよね。
そこまで飛ばす?」
「そうだな。いつものように、情報量の増大する──イベントの起こる時点を探す。
その直前まで飛ぼう」
兄弟は懐中時計のような世界観測儀を取り出して操作します。
そしてうなずき合うと、次の瞬間にはその場からかき消えました。
あとには、兄弟の登場にも退場にも気づかないままの王妃と侍女たちが、ドレスの着付けに励んでおりました。




