2 雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い
城の中の王妃の部屋を、グリム兄弟は訪れました。
当然ながら、廊下から部屋につながる扉は閉ざされています。
彼らは鑑賞者として、この物語世界との完全な同期を避けているため、物質に干渉することができません。閉まった扉を開けることはできないのです。
しかし彼らは歩く速さを落とさずに、堅牢な木の扉にぶつかっていきました。
すると、扉は幻影であったかのように身体が突き抜け──扉からすると、2人の方が幻影のようなものですが──次の瞬間には、無事部屋の中に入っておりました。
石の壁にかかる、床まで届く大きなタペストリー。
惜しげもなく多くの薪が焚かれている、大きな暖炉。
美しく浮き出た梁からは、蝋燭を載せた鉄のシャンデリアが下がっています。
そして王妃は窓際で椅子に座り、2人の侍女と一緒に刺繍をしていました。
王妃はまだ10代の、緑のドレスをまとった少女でした。
宝石のような瞳は青く、完璧に整った顔は、冷たさと同時に気品を漂わせています。
金色の髪を結い上げてヴェールをかぶり、金のサークレットを着けていますが、その豪華な装いよりも、彼女の美貌の方がよほど輝いていました。
「ずいぶんと若い王妃だな」
「見てよ兄さん、窓枠は黒檀でできているよ」
「ああ、これはまず間違いない」
兄弟は、歩き回って部屋を観察しています。
部屋の誰も、兄弟がいることに気づきません。
この世界にとって彼らは幽霊も同然、見ることも声を聞くことも、触れることもできないのです。
ヴィルヘルムが、他の者からは見えないのをいいことに、王妃の手元をぶしつけに覗きこみました。
「よく考えたら、王妃も侍女も結構な身分なんだからさ、刺繍なんかする必要ないんじゃない?
刺繍入りハンカチが欲しければ、仕立て屋か小間物屋に注文して作らせればいいんだよ」
それにヤーコプが答えます。
「この時代は、女性が糸を紡いだり針仕事をしたりすることが美徳とされていた。
民話にも、糸紡ぎが好きで仕方ないと嘘をついた娘が王子の妃に迎えられる話がある。
『ルンペルシュテルツヒェン』は粉ひきの娘が王と結婚したが、それは王が、彼女が藁を黄金に紡ぐという話を信じたからだった……なるほど、糸紡ぎは勤勉と富の生産の謂ということか。
ともあれ、貴族や王族の女性であっても、針仕事を行うことは推奨されていた」
ヤーコプは滔々と語ります。
見た目は落ち着いた美少年なのですが、中身は何かというと蘊蓄を語りたがる、難儀な性分のようです。
ヴィルヘルムは慣れきっているのか、適当に聞き流しています。
しばらくして王妃がふと顔を上げ、窓を開けて外を眺めました。
外の雪景色に見入ったまま、針を動かし──。
「あっ!」
うっかり、指の腹を深く刺してしまいます。
咄嗟に針を抜いて大きく手を振った拍子に、血が飛び、外の窓枠に積もっていた雪の上にぽたぽたと3滴落ちました。
雪と、血と、黒檀の窓枠。
「ああ……雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い子供が生まれればいいのにねえ」
王妃が独り言をつぶやきました。
「はい出た有名な台詞!
ここが『白雪姫』であることが決定しましたー!」
「よし、本格的に測定を始める」
ヤーコプはトランクを開けて、1冊の革表紙の書物を取り出しました。
表紙を開いて目当てのページを開くと、ゆっくりと読み始めます。
「Es war einmal mitten im Winter, und die Schneeflocken fielen wie Federn vom Himmel herab(昔むかしの冬のさなか、雪がはらはらと、羽のように天から降っていました).……」
読み上げた声を呼び水として、書物の中から『Spieglein』や『so fiel es tot zur Ende nieder』、『die rotglühenden Schuhe 』といった黄金の文字列が、いくつもいくつも浮かび上がりました。
それらは黄金の飛沫のように湧き上がり、城の壁をつきぬけて四方八方に飛んでいき、また新たな黄金の文章が生まれては飛び……そうやって世界中に広がっていきました。
これは『子どもと家庭のメルヒェン集』、いわゆるグリム童話集第7版の53番『白雪姫』の原文です。
放たれた言葉たちは、この世界の情報と重なり合い、あるいは情報の差異を浮き出させ、跳ね返ってヤーコプの元に収束する、いわばアクティブソナーなのです。
最も有名な『白雪姫』の原文を基準点とすることで、この小世界のオリジナル要素や他作品からの影響などを分析し、評価する。
それがヤーコプの手法でした。
一方で、ヴィルヘルムもポケットから自分の世界観測儀を取り出して操作しています。
小世界を観測する力はヤーコプに由来するものですが、この機器を通せば、ヴィルヘルムも擬似的に使用することができます。
ヴィルヘルムの役目のひとつは、兄ヤーコプの能力が正常に働いているかの動作チェック。
もうひとつは、兄の能力を借りて、同時に探査作業を行うことです。
2つの目が物を立体的に捉えるように、2人が同じ作業を行うことで、より正確な分析を可能にするのです。
「うん、KHM53ソナーは順調に稼働してるよ」
「情報の収束には時間がかかる。
分析を始められるのは、物語の中盤以降になるはずだ」
「それまではいつも通り、ストーリーの進行を見物だね」
「ああ。でも遊びじゃないぞ、ヴィルヘルム。
収集すること。分析すること。そして分類すること。
まずは自分の目と耳で観察することが大事だ」
「分かってるよ、兄さん」
「それにしても、白雪姫の出産にあたって針仕事というのも暗示的だ。
ギリシャ神話の運命の三女神は、人の運命を糸のかたちで紡ぎ出し、長さを測り、そして切る。
ドイツ神話でも、糸紡ぎはホレ、ホラ、あるいはフルなどと呼ばれる女神に関わっている。人が生まれる時に現れて運命を予言する、あるいは善人に褒美を、悪人に懲罰を与える存在だ。
雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒くあるべし。
その言葉で子の運命を規定するにあたって、女性と糸というモチーフは実に相応しい……」
「ああ〜大雪になってきたなあ〜。
兄さん、重要イベントは見たことだし、白雪姫が生まれるまで時間を飛ばさない〜?」
ヴィルヘルムは、兄の蘊蓄を華麗にスルーする能力を遺憾なく発揮していました。
グリム童話だと、王妃は部屋の中にいるのに、針でついた指の血が雪の上に落ちるんです。
位置関係どうなってんの!? としばらく悩みました。
あと、針で3滴も血が出るのは、相当深く刺してるのでは。




