第30章: 私は…一人じゃない。
人は、強くなろうとする時、
なぜ孤独を選んでしまうのだろうか。
頂点を目指す者ほど、
誰にも頼らず、
誰にも弱さを見せず、
ただ前だけを見ようとする。
それが“強さ”だと、信じているから。
だが本当にそうなのか。
一人で背負える夢など、
この世界に存在するのだろうか。
勝利も、敗北も、
歓喜も、絶望も――
すべてを分かち合う相手がいてこそ、
それは意味を持つのではないか。
気づかぬうちに、
差し伸べられていた手。
気づかぬうちに、
背中を支えていた存在。
そして――
気づかぬうちに、
孤独ではなかったという事実。
強さとは何か。
仲間とは何か。
その答えは、
静かに、しかし確実に、
彼らの中で形を成し始めていた。
これは、
一人の夢が、
“みんなの夢”へと変わる瞬間の物語。
冷たく暗いロッカールームを、重苦しい沈黙が包んでいた。
天井のライトは、いつも以上に不安定に点滅している。
だが、そんなことは誰一人として気にしていなかった。
選手たちの胸を満たしていたのは――ただ、悔しさだけ。
秒針が進むたびに、夢がゆっくりと指の隙間からこぼれ落ちていくように感じていた。
エミは、奥歯を強く噛みしめ、拳を握り締める。
彼の目の前には、どこまでも続く暗黒の砂漠が広がっていた。
これまで築き上げてきたすべてを、飲み込むかのような虚無。
(くそっ……俺は何様のつもりで、あんなことを言ったんだ?)
(何が“ワクワクする”だ……ただのバカじゃないか……)
ツバサの傲慢な視線が、脳裏に焼き付いて離れない。
(あれが初めての怪物じゃない……これから先、もっと強い相手と出会うはずだ)
(それでも……俺たちは本当に、全国へ行けるのか……?)
――
パンッ!
乾いた拍手が、沈黙を切り裂いた。
選手たちが一斉に顔を上げる。
「どうしてそんなに落ち込んでるんだ?」
レオの声だった。
「どうして、だって……?」
エミが顔を歪める。
「俺たちは叩きのめされてるんだ! 太刀打ちできない!」
「これでどうやって前向きでいられるっていうんだよ!」
その怒号に、全員が驚いた。
いつもこの暗闇を照らしていた少年の光が、今は揺らいでいた。
その瞳には、痛みが宿っている。
「エミ……」とリョウが小さく呟く。
「本当にそう思うのか、キャプテン?」
レオが穏やかに問いかける。
「……え?」
「俺は、そうは思わない。」
自信に満ちた笑みを浮かべながら言った。
「確かに今のツバサは、どうしようもない怪物だ。」
肩をすくめる。
「でもな、無敵じゃない。」
選手たちが息を呑む。
「奴の“勝利への渇望”こそが弱点だ。」
「勝つことに執着しすぎている。だから、自分以外を信じない。」
「ましてや今は、“ニルヴァーナ”に入っている。」
「ニルヴァーナ?」カイが首を傾げる。
「説明している時間はないが……簡単に言えば、アスリートの理想状態だ。」
「心と体が完全に調和し、常に最適解を選び続ける領域。」
「じゃあ……俺たちは神と戦ってるのか?」
カイが引きつった笑みを浮かべる。
「止める方法はあるのか?」ユウジロウが真剣な眼差しで問う。
レオは静かに答えた。
「二つある。」
「一つは、お前たちの誰かが自力でニルヴァーナに到達すること。」
一瞬の沈黙。
「……まあ、不可能だな。」
「じゃあ、もう一つは?」
レオの瞳が鋭く光る。
「奴のニルヴァーナを――逆に利用することだ。」
. . .
トン… トン… トン…
その時だった。
まるで毒のように、ねっとりとした声が響く。
「それは、なかなか面白い案だな。」
鋭い笑みを浮かべたジョセップが姿を現した。
「遅かったな、クソ監督。」
レオが不敵に笑う。
「手札を一度に全部切るわけにはいかない。待つ必要があったんだ。」
「で?」
「やれる。」
ジョセップは断言した。
「天才は、いずれ自分の重さに押し潰される。」
選手たちが自然とジョセップとレオの周りに集まる。
「よく聞け。ニルヴァーナは一つの固定された状態じゃない。」
ジョセップが説明を始めた。
「到達した者の性質によって、その形は変わる。」
「この45分で分かったことがある。ツバサは“チームで戦う準備”ができていない。」
「時代を象徴する、自己中心的な天才だ。」
ロッカールームに静寂が落ちる。
「奴が唯一信頼しているのは、自分の背後にいる男だけだ。
それ以外は、ただの障害物に過ぎない。」
「どれだけ周囲が動こうと、最後は自分で決めようとする。」
ジョセップの視線が、ゆっくりとエミへ向けられた。
「そこで、お前の出番だ。エミ。」
「……俺?」
「そうだ。この試合で、一度でも奴を止めたのはお前だけだ。」
「奴のプライドが、お前を無視することを許さない。
必ず潰しに来る。」
エミは拳を握り締める。
「でも……さっきは止められなかった。
今さら、何ができるんだよ。」
その言葉を遮るように、レオが前に出た。
「エミ。その腕に巻いているものの意味を、勘違いするな。」
エミが視線を落とす。キャプテンマーク。
「それは“全部を背負え”って意味じゃない。」
「“俺たちが、お前を信じている”って証だ。」
「キャプテン……」
「仲間を信じろ。
お前が俺たちを信じるように、俺たちもお前を信じてる。」
「みんな、お前が止めると信じてる。」
その瞬間――
エミの視界を覆っていた闇が、ゆっくりと晴れていった。
目の前には、仲間たちが立っている。
迷いのない笑顔。
揺るがぬ眼差し。
その瞳が、はっきりと告げていた。
――今こそ、流れを変える時だ。
観客のざわめきが、再びピッチを包み込んだ。
歓声、太鼓の音――
そのすべてが、初めてエミの唇に笑みを浮かばせた。
「エミ、それは何だ?」
足首にブレスレットを結ぶ彼を見て、ユウジロウが尋ねる。
「さあな……俺を少し強くしてくれるもの、ってところかな。」
エミは大きく微笑んだ。
「さあ皆さん、お待たせしました!
激闘の後半戦が始まります!」
「前半は我々の度肝を抜く展開となりましたが、両チームの主役が再びピッチへ戻ってきました!」
「果たして――ツバサを止められる者は現れるのか!?」
選手たちはそれぞれのポジションへ戻る。
スタジアムは静まり返り、固唾を呑んで見守っていた。
エミの視線は、獲物を捉える猛獣のようにツバサへ向けられている。
だが当の本人は、視線を返そうともしない。
ピィィィィィィィッ!
……
トン――!
シュッ!
迷いなく、ツバサがボールを受ける。
そのまま一直線にゴールへ向かう。
「誰かがトドメを刺す時間だ!」と叫ぶ。
「待て、ツバサ!」
味方の一人が声を上げる。
「邪魔をするな!」
「何としてでも止めろ!」
ユウジロウが叫ぶ。
カイとイェンが最初に飛び出した。
トン、トン!
両足のインサイドでわずか二タッチ。
まるで動かないコーンのように、二人を置き去りにする。
「そう簡単にいくか!」
カイが肩を掴む。
「どけ、足手まとい!」
ツバサの筋肉が爆発する。
カイの拘束をいとも簡単に振りほどいた。
「冗談だろ……」
カイが呟く。
ザッ!
ツバサは暴風のように突き進む。
誰一人、止められない。
タツヤ、リョウ、ユウキが同時に飛び出す。
「パスだ、ツバサ! フリーだ!」
その声を聞いた瞬間、ツバサはさらに加速した。
「何をしているんだお前ら!」
(勝つのは俺だけだ。)
(俺が東京アカデミーのスターだ。)
(俺が全国へ連れて行く。誰でもない、この俺が。)
タツヤの前で、ツバサは目にも止まらぬ速さでボールを操る。
ボールが消えたかのような高速ドリブル。
次の瞬間、リョウがスライディングで飛び込む。
だがツバサは体をわずかに傾け、ボールを軸に鮮やかなルーレット。
あまりに滑らかな動きに、リョウは空を切り、タツヤまでも巻き込んで転がった。
「おおおおおおっ!」
観客がどよめく。
「まだ終わってない!」
ユウキが体当たりする。
一瞬、ツバサの体勢が崩れる。
(ここまでだ。)
……
トン――シュッ!
瞬きの間に、ツバサはヒールでボールを叩き、ユウキの死角へ送り出す。
そして、手で地面を押し、背後へと跳ねるように回り込む。
ユウキは完全に置き去りにされた。
「オーレ!」
「背番号30、なんという技術だ!」
実況が叫ぶ。
「秒を追うごとに、新たなトリックを披露している!」
「ツバサ、矢のように敵陣へと突き進む!」
「どうやら、疲れを知らないみたいだな。」
ツバサは、自分に挑んできた少年へ視線を向けながら呟いた。
「悪いけど、俺はちょっと頑固でね。」
エミは鋭い笑みを浮かべて答える。
次の瞬間、ツバサは獣のような勢いで襲いかかった。
その動きは雷光のごとく速く、目で追うことすら困難だった。
シザース、エラシコ――
尽きることのないテクニックの連続。
当初こそ、エミは何とか食らいつき、体をぶつけながらその企てを何度も阻止した。
しかし――
またしても、ツバサは新たな一手を繰り出す。
両足でボールを挟み込み、そのまま頭上へとすくい上げる。
ボールはエミの頭上すら越え――
彼は完全に硬直した。
「弱者が天才に挑むべきじゃない。」
そう言い放ち、エミの脇をすり抜ける。
目の前にはゴールのみ。
彼にとって、それはあまりにも大きく、そして容易な標的だった。
「終わりだ。」
ドンッ!
突風のような衝撃とともに、エミが全身でツバサへぶつかった。
「無駄だ! お前には俺を止められない!」
「俺は……一人じゃない。」
エミは温かな笑みを浮かべる。
ツバサの目が見開かれた。
その正面に――
驚くほどの速さと正確さで、ユウジロウが立ちはだかっていた。
「デカいだけの俺たちでもな、天才を黙らせることはできる。」
バシッ!
初めて――
あの冷たい瞳が揺らいだ。
取るに足らぬ存在と思っていた相手に、打ち勝たれたという恐怖がそこに宿る。
……
「カウンターだ!」
ユウジロウが背後のスペースへロングボールを蹴り出す。
「早く戻れ!」
トシロウが叫ぶ。
だが守備陣は油断し、完全に意識が遅れていた。
数秒のうちに、クロイカゲの攻撃陣が狩人のように裏へ抜け出す。
迷う暇はない。
チーム全員が一斉に攻め上がる。
――ただ一人を除いて。
西村エミは、いまだ凍りついたツバサのそばに残っていた。
「サッカーはそんなに単純じゃない、ツバサ。」
視線を向けぬまま、エミは言う。
「何度踏み潰されようと、俺たちは必ず止める方法を見つける。」
チクタク――
リョウとユウキがワンツーで守備を突破する。
「笑えばいい、侮辱すればいい。好きにしろ。でも最後に勝つのは……俺たちだ。」
ドォンッ!
カイが渾身の一撃を振り抜く。
鋭いシュートはゴール隅へ突き刺さり、キーパーは反応すらできなかった。
「どこにいようと、俺は必ずお前を止める。」
「ゴォォォォォォォール!」
「試合開始60分、クロイカゲ同点弾!」
「ユウジロウの奪取から始まった、正確かつ破壊力抜群のカウンター!」
「よっしゃああああああ!」
カイが歓喜に叫ぶ。
ベンチも爆発するような熱狂で応える。
「やったぞ!」
レオが叫び、エミへ視線を向ける。
「まだ終わってない!」
エミは厳しく、そして威厳を持って叫んだ。
「絶対に勝つぞ!」
「おう!」
仲間たちが声を揃える。
「天城カイのゴールで、試合の流れは一変!」
実況が熱を帯びる。
「残り30分、クロイカゲは総攻撃に出る構えだ!」
「試合はまさに最高潮!」
「ツバサは再びリードを奪えるのか!? それともクロイカゲが逆転するのか!?」
「瞬きする暇もない!」
エネルギーに満ちた視線で、クロイカゲはすべてを懸ける覚悟を固める。
わずかなミスが、敗北を意味する。
だが――
他に選択肢はなかった。
そして、クロイカゲの高まりに呼応するかのように、ツバサの瞳はより灰色に、より禍々しく染まっていく。
(現実に引き戻してやる……クソ猿ども。)
時計の針は、ゆっくりと終盤へ近づいていく。
それは――
運命を懸けた、最後の戦いの始まりだった。




