第29章:涅槃
勝利の歓声が、静かに消えていく。
まるで風が過ぎ去った後のように、熱狂は一瞬で凍りついた。
誰もが、あの光景から目を逸らせなかった。
ただ立ち尽くし、息を呑むしかなかった。
これは夢なのか。
それとも、現実が追いついていないだけなのか。
サッカーという名の舞台において、
“天才”とは何かを、
“絶望”とは何かを、
そして――“頂”とは何かを、知らされる瞬間がある。
それは残酷なほど美しく、抗いようのない運命のように、すべてを飲み込んでいく。
何かが変わった。
いや――すべてが、変わってしまったのかもしれない。
両チームの視線には、炎のような決意が宿っていた。
魔法使いはただ、影の中から試合の続きを見守るしかなかった。その眼差しには、悔しさが滲んでいた。
エミは、腕に感じる新たな重みを見つめていた。
喜びと、不安、恐怖――様々な感情がその身体を満たしていた。
だが、その沈黙を破る声があった。
「もう悩むなよ、エミ」
ユウジロウがそっと呟いた。
「彼が君を選んだのは、この瞬間を託せるって信じてるからだ。」
「でも… 俺にはまだ早いよ…」
「誰だって、最初から準備ができてるわけじゃない。」
「でも選べるんだ。いつまでも彼の影に隠れるか… このチームを導くか。」
「ユウジロウ…」
「みんなを見てみろよ。君の仲間たちを。」
エミが顔を上げると、ピッチの仲間たちが温かく笑っていた。ベンチにいる選手たちも、力強くうなずいていた。
「みんな…」
「ここに、君の力を疑ってるやつなんていない。」
「この重みに慣れるのは難しいかもしれない。けど、俺たちが支えるよ。」
「だからさ… 君は俺たちを信じて、ツバサを止められるか?」
「うん、任せて。」
――ピイィィィィィ!
東京アカデミーがボールを再開させた。
しかし、そのボールは一瞬でひとりの男の足元へ。
ツバサ。
フィールドの支配者。
黒い影の選手たちは、彼の動きに思わず身を震わせた。
その目が語っていた。
「本気だ」と。
――スウッ!
エミが、まるで一瞬でワープしたかのように、ツバサの前に現れた。
「また君か。」
ツバサが軽く鼻で笑った。
「悪いけど、ここから先は行かせない。」
「本気で、俺を止められると思ってるのか?」
「君たちのチームに、もう魔法は残ってない。トリックも尽きた。終わりだ。」
――ヒュッ!
稲妻のごとく、ツバサがエミを抜き去った。
「終わってなんかねぇよ!」
エミが身体をぶつけるようにして叫んだ。
一瞬だけ、ツバサのバランスが崩れた。
だが――
すぐに立て直し、驚くべき柔軟性でバランスを取り戻した。
そして、ありえない動きを見せた。
倒れかけた体勢のまま――
エミの足元を、ボールがくぐり抜けた。
しかも、それだけではない。
エミが反応した次の瞬間――
再び、つま先でボールを通した。
――パタン。
エミは反応できず、倒れ込んだ。
「おおおおおっ!!」
観客席がどよめいた。
「止めろ!!」
タツヤが必死に叫ぶ。
黒い影の選手たちが一斉に戻り、ツバサの前に立ちはだかった。
――チャッ。
ツバサはそこで、静かに立ち止まった。
彼の前には、壁のように連なる黒の防衛線。
ボールを足元に置きながら、彼はフィールド全体を見渡す。
その眼差しは、まるで王者のように冷静だった。
黒い影の選手たちは、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼が何をするか、誰にも予想できなかった。
...
「まさか……」
ベンチのレオが驚きの声を漏らした。
敵味方、すべての選手たちが、目の前の光景を理解できずにいた。
ボールを足元に収めたまま、鈴木ツバサがふらつくように歩いていた。
しかし、彼の瞳には完全なる“静寂”が宿っていた。
そして──
シュバァッ!
突風のようなスピードで、ツバサが数人の選手を一瞬で抜き去った。
一切の無駄なく、まるで舞うように。
その背後で、地面に座り込んだタツヤが、呆然と立ち尽くしていた。
「負け犬どもめ……」
彼の口から漏れたのは、冷たい嘲笑だった。
間髪入れず、ユウキ、リョウ、そしてリンが前に立ちはだかる。
だが──
最初に崩れたのは、リンだった。
ボールを軽く引くフェイント一つで体勢を崩したリンに、
ツバサは踵で“リフト”を決め、頭上を抜く。
続いて、リョウ。
「ハッ、そこは俺の得意分野だぞ、バカめ!」
自信満々に挑むリョウに対し、ツバサは不敵に笑う。
フィス…ファスッ!
二回のバイクフェイント。
リョウのバランスが崩れる。
最後の望みで足を伸ばした瞬間──
チクタク…!
“エラシコ”。
それはリョウの十八番のはずだった技で、地面に叩きつけられる。
「てめぇ……ここは通させねぇぞ!」
ユウキが牙を剥く。
ツバサは完全に停止した。
次なる壁──ユウキと向き合う。
「……何のつもりだ?」
怒りに震える声が響く。
トッ、トッ、トッ、トッ!
ボールを軽やかに左右に操るツバサ。
「ふざけるなあああ!」
ザシュッ!
ユウキのスライディング。
しかし──
ツバサはそれすらも飛び越えた。
まるで、天使の羽でも生えているかのように。
スタンドも、実況者すらも、言葉を失っていた。
「……まずいな」
レオの声が震えていた。
「どうしたんだ、キャプテン?」
レンが問いかける。
「……入ったんだよ」
「どこに?」
「ニルヴァーナに。」
ツバサの瞳が放つ輝きは、混沌と静寂の境界を踊っていた。
「に、ニルヴァーナ……?」
レンが首を傾げる。
「心と体が完全に融合した状態さ」
「すべての動きが見える……“完璧”の領域。」
「そんなの、あり得ないって……」
タケシが震えた笑みを浮かべる。
「どうやって辿り着いたかは分からない。だが今の彼は──止まらない。」
バンッ!
次の瞬間、ツバサとユウジロウが体をぶつけた。
しかし倒れたのは──ユウジロウだった。
「撃ってこいよ!」
ケントが構える。
ツバサがシュートモーションに入る。
だが──
ザシュッ!
エミがタックルで割って入る!
だが──
シュートは放たれていなかった。
ツバサは冷静な目で、すれ違うエミをただ見送った。
その目には、天才の冷徹さが宿っていた。
ドンッ!
シュート。
爆音のように響き渡る。
ケントが全力で腕を伸ばす──
シュバァッ!
しかし、届かない。
その一撃は“絶対”だった。
「ゴォォォォォォル!!!!」
実況席が総立ちになる。
スタジアム全体が爆発した。
「ゴール!東京アカデミー、先制です!」
「決めたのは、背番号30番──鈴木ツバサ!!」
「前半終了間際、天才の一閃がチームをリードへと導いた!!」
東京アカデミーの選手たちが歓喜に沸く。
だが──
ツバサの目は冷え切っていた。
高みから、エミを見下ろす。
「そんな程度じゃ、俺は止められないよ」
「分かれよ、どれだけ走っても、どれだけ努力しても──
お前は俺に追いつけない。永遠にな。」
そう言い残すと、ツバサはゆっくりと、自陣へと戻っていった。
———
地面に倒れたまま、エミは傷ついたプライドを抱えていた。
世界が崩れていくような感覚だった。
努力も、練習も、流した涙も…すべてが、ひとりの天才によって粉々にされた。
腕に巻かれたキャプテンマークを見つめた瞬間、嫌悪感がこみ上げた。
自分には、それを背負う資格がないと感じた。
ピッ! ピッ! ピイイイーー!
その笛の音は、本来なら希望の光となるはずだった。
だが、あの瞬間の彼らにとって、それは悪夢の始まりにすぎなかった。
ツバサが支配する――悪夢の世界の。




