第25章: 人生
時には、ほんの一瞬だけで十分だ。
シュート、一息、一粒の涙。
それだけで、すべてが変わる。
命は叫ばない。知らせない。待たない。
混乱の中でも、疲労の中でも、歓喜の中でも、静かに道を切り開く。
そして、気づかぬうちに…心を貫く。
成長とは、ただ勝つことではない。
膝をついても、なお立ち上がろうとすることだ。
理由もわからず涙を流し、
心が痛んでも微笑むことだ。
命はサッカーのようだ。
時に不公平で、時に残酷。
それでも、その本質は常に美しい。
すべてが壊れそうな時、
体が限界で、心が揺らぐ時こそ…
一つの仕草、一つの手、一つの言葉が現れる。
そして、気づくのだ。
自分は一人じゃないと。
生きるということは、つまりそういうことだ。
恐れも、希望も…そして夢も、誰かと分かち合うこと。
エミの歓喜の叫びがスタジアム全体に響き渡った。
観客席もまた、彼の熱狂に応えるように歓声と興奮に包まれていた。
その中、主審がゆっくりと近づいてきて言った。
――16番。
――は、はいっ?
主審はカードケースからイエローカードを取り出し、エミに見せた。
――あまり感情に飲まれすぎるなよ、とユニフォームを指差しながら注意する。
――は、はい…すみません。
主審は時計を確認し――
ピッ! ピッ! ピィィィィ!!
――終了です! 試合終了――!!
――黒い影、ブラックストロームの本拠地で劇的な勝利を収めました!
――感動と緊張の詰まったこの一戦、最後の最後で決着がつきました!
――この結果により、ブラックストロームは全国大会出場の可能性が完全に消え、
――残るは東京アカデミーとクロイ・カゲのみ!
――両チームとも、すでに最低でもプレーオフの出場権を手にしていますが、
――次の最終戦では、直接対決でどちらが本戦への“切符”を手にするのかが決まります!
――歴史に残る激闘になることは間違いなし!私も待ちきれません!!
・・・
ピッチでは、ブラックストロームの選手たちが涙をこらえきれずにいた。
フィールドには、彼らの家族も入り、倒れ込む選手たちをそっと抱きしめていた。
その中で、シンジロウだけが静かに座り込んでいた。
敗北による悔しさは確かにあったが、仲間たちのような“悲しみ”が自分の心にないことに、彼自身戸惑っていた。
その隣には、もう一人の天才が腰を下ろした。
――…悲しくはないのか? と、レオが問いかけた。
――さぁな。
――お前らに負けたことは悔しいが……でも、悲しくはならない。
――元々、仲が良かったわけでもない。ただ俺の過去やキャプテンって肩書きで敬われてただけだ。
――“戦友”とか“家族”とか、そういうもんじゃない。
――ただ同じ目標のために走ってきただけで、その目標が消えた今――
彼の視界に広がるピッチは、モノクロになっていき、仲間たちは砂のように崩れて消えていった。
・・・
レオは静かに問いかけた。
――じゃあ……このまま諦めるのか?
――いや、まだ満足してねぇ――と、シンジロウは微笑んだ。
――潰したいクソガキが一人残ってるからな。
――評判悪そうな奴だな――と、レオが笑う。
――お前やケイスケよりはマシだよ。あいつはひねくれてない。ただのバカだ。
――俺ってそんなにひねくれてるか?
――ああ、かなり。
二人は肩を揺らして笑った。
西日がゆっくりと彼らを包み込んでいく。
――じゃあ、また近いうちに会うことになりそうだな?
――勝手に決めるな、俺はお前なんかに付き合わねぇぞ。
――詳細はまた今度説明する――と、レオは背を向ける。
――だから、行かねぇって言ってんだろ!
――またな、シンジロウ――そう言い残して、レオは笑って去っていった。
シンジロウは深くため息をつき、ぽつりとつぶやいた。
――……マジでムカつく奴だな……
人々はゆっくりとスタジアムを後にしていった。
外ではまだ多くの人たちが、試合のプレーについて語り合っていた。
報道陣はインタビューの準備を始めていた。
・・・
シンジロウは苦笑いを浮かべながら、静かにロッカールームへと向かっていた。
だが、ドアを開けた瞬間――
ボンッ!
色とりどりの紙吹雪が一斉に舞い上がり、シンジロウは驚きで立ち尽くす。
――な、なんだこれは…?
――キャプテン、本当にありがとう! と、皆が一斉に頭を下げた。
――えっ……?
――監督、一体これは……?
――君がこの三年間、誰よりも努力してくれたことへの、ささやかなお礼だよ。
――でも……俺たちは、負けました。
――約束を果たせなかった。全国大会には連れて行けなかったんです――と、拳を強く握りしめる。
――それは分かってるよ。でもね、私たちはずっと君を信じて、ついてきた。
――結果がどうあれ、感謝の気持ちは変わらない。
――監督……
――君がいたからこそ、この夢に本気で挑めた。
――君がいたからこそ、心からサッカーを楽しめた。笑って、夢を見て、そして今、涙を流してるんだ。
言葉を失いながら、シンジロウは目に涙を浮かべて笑う仲間たちを見渡した。
――みんな……
――私たちは、君を信じてる。このエンブレムを預けるよ――と、監督は学校のエンブレムをシンジロウに手渡す。
――…はい!
・・・
一方その頃、クロイ・カゲの選手たちが次々とロッカールームから出てきた。
その目に浮かぶのは、喜びでも満足でもなかった。
ただ、燃え盛る炎のみ。
その様子に記者たちはすぐに反応し、今日のヒーローであるレオとエミをインタビューに引き止めた。
――こんばんは、五十嵐選手。次の試合に向けて、どのようなお気持ちですか?
――相手は今年の無敗の王者、東京アカデミーです。勝つ自信は?
――勝ちたい。それだけです――と、レオは静かに、だが力強く答えた。
今度はエミがインタビューを受ける。
――今日のMVPに選ばれましたが、あのフィールドには他にも素晴らしい選手たちがいましたね?
――今日は全員がヒーローでした。そして、次の試合でもそうなります――と、エミは満面の笑みで答えた。
・・・
選手たちはバスへと乗り込んでいく。
カメラのフラッシュが絶え間なく焚かれ、報道陣の声が響く。
選手たちの中には、冗談を言い合う者もいれば、
イヤホンをつけて静かに目を閉じる者もいた。
誰もが知っていた。
――この先に待つのは、最高に厳しく、最高に熱い一戦だということを。
満月が空高く輝き、穏やかな夜風が吹いていた。
親友たちは、とあるカフェに集まっていた。
――ついに、この時が来たな……とユウジロウが緊張した笑みを浮かべる。
――ああ……来てほしかったはずなのに、今は何を考えればいいのか分からないよ、とカイが苦笑する。
――あと一歩だ……本当に、あと一歩だよ、とレオはゆっくりとコーヒーをかき混ぜながら呟いた。
……
――……なんでこんなに緊張してんだよ!? と、レオが思わず叫ぶ。
――だよな……試合終わってから、ずっと手が震えてる、とカイが笑う。
――体はクタクタなのに、全然眠れないんだよな……
――くそっ! と三人同時に叫び、黙り込んだ。
三人は、どこか寂しげに目線を落とす。
――……今まで、ちゃんと考えたことなかったな、とレオが苦い笑みを浮かべる。
――何の話? とユウジロウが尋ねる。
――これさ……チームのこと、俺たちのこと……これが、最後の一年なんだ。
誰も言葉を返せなかった。ただ、静かに黙った。
――くそっ……もっと、ずっと続いてほしいのに、とカイが拳を握る。
――だったら、今を思い切り楽しもうぜ、とユウジロウが涙を浮かべながら笑った。
――ああ!
……
その頃、エミはベッドの上で何度も寝返りを打っていた。
疲労困憊のはずなのに、どうしても眠れない。
――くそっ、なんでだよ……
目の下には濃いクマができ、目は腫れていた。
エミはスマホに目をやり、メッセージを送る。
「夜遅くにごめん。起きてる?」
「うん。どうかしたの?」
「ちょっと歩かない? 全然眠れなくて」
「いいよ。いつもの場所で会おうか?」
「うん!」
東京の喧騒は眠り、静けさが街を包む。
その中で、街灯の下に浮かび上がる少女の横顔があった。
エミはその姿を見つめて、ふっと笑った。
――久しぶりだね、ウミ。
――こんばんは、エミ。
――行こうか?
――うん。
二人は静かな東京の街を並んで歩き出した。
――調子はどう? とウミが尋ねる。
――うん、すごくいいよ……けど、何を感じてるのか自分でも分からない。
――緊張か、プレッシャーか、負けることへの恐怖か……次の試合のことが頭から離れない。
――三年生にとって何を意味するのか、分かってなかった。でも、あの試合で泣く相手を見て気づいたんだ。
――俺たちは、絶対に負けちゃいけない。じゃないと、きっと後悔する……
ウミは、静かに優しく微笑んだ。
――エミは昔から、誰よりも他人のことを気にかけてきたよね。自分のことは後回しにしてまで。
――ただのバカだよ、俺は、とエミが照れ笑いを浮かべる。
――そんなバカがもっといれば、世界はきっと良くなるよ。
――変わった褒め方だな、それ、とエミは吹き出した。
……
小さな川の前で二人は立ち止まり、静かに水面を見つめる。
――ウミはどうなんだ? オーケストラ、うまくいってる?
――うん、すごく楽しい。
――タナカ・ハルって覚えてる?
――ユキの妹だろ?
――そう、彼女の演奏を聴くと、まるで天国にいるみたいなんだ。
――ちょっと大げさすぎない? とウミは笑う。
――いや、本気だよ。いつか、あんな風になりたいな……
――え?
――後輩たちに尊敬されて、導いていける先輩になりたい。
……
その時、ウミの頭に優しく触れる手があった。
振り返ると、そこにいたのはエミ。
――絶対なれるよ、とエミは力強く笑った。
――ウミは本当にすごい。俺が何度も助けられたんだ。
――今だって、君の言葉で全部が救われた。
――エミ……
――信じられないかもだけど、俺よりずっとカッコいいよ。
――ハルにならなくていい。ウミのままでいて。
――きっと、君なら道を切り開ける。みんなもきっと、君に着いていく。
――あの時の俺みたいにね――と、川のせせらぎが優しく響いた。
――さあ、行こうよ。怖がらないで、と幼いウミが言う。
――怖いよ……
――大丈夫、私が手を引いてあげる。絶対、離さない。
――……うん。
小さな二人は手を取り合い、小川にぽちゃんと落ちた。
ウミは笑っていた。エミは、ずっとその手を見つめていた。
……
――帰ろうか? と、ウミが笑顔で言った。
……
記憶は風に乗り、どこかへ消えていった。
――エミ? 泣いてるの?
エミの頬には、気づけば大粒の涙が伝っていた。
――わかんないんだ……と、頬に手を当てながら呟く。
――エミ……
――ごめん…… と泣きながら口にする。
ウミにそっと抱きつくエミ。
驚きながらも、ウミの表情はやさしく変わる。
――帰ろうか?
――うん…… と泣きじゃくる声でエミは答えた。
その夜、月だけが見ていた――
"少年が、大人になるその一瞬を。"




