第15章: 血の契約
見える傷もあれば――
時さえ触れることのできないほど深く隠された傷もある。
夢が砕ける時、音はしない。
あるのはただ、どんな叫びよりも痛む重い沈黙だけ。
それでも痛みの中で、立ち上がる者がいる。
簡単だからではない。
置き去りにできない約束があるからだ。
その契約に紙も、インクも必要ない。
必要なのはただ――視線。
共に刻まれた傷。
そして決して諦めないという願い。
血で築かれた基盤は、
雨にも――
恐怖にも――
決して崩されはしない。
東京の空は、夕焼け色に染まっていた。
そのやさしいオレンジの光は、病院の窓から穏やかに差し込んでいた。
──けれど、そのやさしさは、
ベッドに横たわる一人の少年の心には届いていなかった。
彼の瞳に宿るのは、ただ、闇と痛み。
「バカヤロウ……!
だから言っただろ、完治するまでは中学サッカーなんて忘れろって……!」
イガラシ・タケル──レオの父が、苛立ちを露わにする。
「10ヶ月以上のリハビリが、全部これか……
少しは自分の将来を考えろよ、レオ。」
ベッドの上、脚にはギプスと包帯。
レオはただ、虚空を見つめていた。
その沈黙にため息をついたタケルは、何も言わず病室を後にした。
残されたのは、うす暗い部屋の中。
夢を失いかけた──魔術のない“魔術師”。
◆
しばらくして、静かに扉が開く。
言葉を発することなく、ユウジロウが部屋に入ってきた。
彼は何も言わず、レオの横に腰を下ろす。
……
「……ずっと黙ってるつもりか?」
レオが珍しく困ったように聞いた。
「何を言えばいい?
俺の言葉でケガが治るわけでもねぇし。」
「……お前、冷たすぎ。鬼かよ。」
「俺? はは、いやいや、超優しいっしょ。」
そう言って、なぜか天使のように光り輝くポーズをとるユウジロウ。
……
そのくだらなさに、レオが思わずふっと笑った。
「……バカ。」
「ん? 今なんか言った?」
「いや、別に……」
視線を逸らしながら、レオがつぶやく。
……
「で? なんで来たんだよ。」
「特に用はない。ただ、お前の顔が見たくてな。」
「ふーん……ま、少なくとも生きてるとは言えるか。」
「だな。」
◆
そのとき。
──ポスッ。
「いてっ!? なんだ今の!?」
飛んできたのは──チョコパンだった。
「……食え。」
「これ……」
レオはパンを手に取り、不思議そうに見つめた。
「お前、毎日これ食ってるだろ。
見てたら、結構好きそうだったからよ。」
(……いつの間に?)
レオの脳裏に「観察されてた」疑惑がよぎる。
「食って、元気になれ。
……またピッチに戻ってこい、天才。」
「……簡単に言うなよ。」
「いくらでも待つさ。」
「……は?」
「お前がピッチに立ってるのを見たとき、確信したんだ。
お前はただの“魔術師”じゃない。
このチームの中で、誰よりも──サッカーを愛してる。」
ユウジロウはあの時見た、星よりも強く輝いたレオの“青い瞳”を思い出していた。
「……ま、ちょっと“執着”ってレベル超えてる気もするけどな。
もはや変態?」
「はあ!? お前今、何か失礼なこと言ったよな!?」
◆
──次の瞬間。
どこからか、大量のチョコパンが投げ込まれ、レオの上に降り注ぐ。
レオはパンの山に埋もれながらも、
その中で、誰にも見せたことのないような──静かで、誇りある笑みを浮かべた。
「……必ず、戻ってくるよ。」
(もう、俺だけの夢じゃない。
あのオヤジに“俺は諦めない”って証明するため。
あの笑顔を、フィールドでもう一度見るため。
俺のプレーを待ってくれてるやつらのため──
そして、こいつ。
このチョコパンの悪魔のためにも……)
(俺は、必ず戻る。誓うよ。)
レオはそのパンに、全ての想いを込めて──
強く、噛みしめた。
──────
ここ数日、いや──
ここ数晩、レオは止まらなかった。
食べて、リハビリに行き、体を鍛える。
汗を流し、息が切れ、痛みに顔を歪め、
夜には誰にも見られないように涙を流した。
それでも──決して、立ち止まらなかった。
彼が本当に恐れていたのは、
痛みじゃない。
「諦めること」だった。
レオはまだ──夢を、見たかった。
◆
雨が降る午後。
黒い影の仲間たちはグラウンドで練習に励んでいた。
その横で、レオは一人ベンチに座り、
仲間の動きを一つひとつ観察していた。
ほんの小さなステップ、視線の動き、パスのタイミング。
彼の目は一瞬たりとも逸らさなかった。
◆
練習が終わり、選手たちは荷物をまとめて帰ろうとする。
その時、レオが声をかけた。
「キャプテン、まだ遅いよ。
……俺が渡した“プラン”、ちゃんと試してるか?」
「……ああ、あの紙? あれならゴミ箱に捨てたかも。」
「キャプテン、それは本当に大事なんだ。
言われた通りにやれば──全国大会も、夢じゃない。」
「また“天才”の戯言かよ。」
エイコウが重たいため息をつく。
「違う。これは“目標を叶えるための”完璧な戦略なんだ。」
「……“俺たちの目標”? いつからそんな話になった?」
そう言って、トベがゆっくりとレオに近づき、
威圧的にその前に立ちはだかる。
その様子を、ユウジロウとカイが黙って見ていた。
「言っとくけどな──」
「みんながサッカーやってるのは、楽しむためなんだよ。
お前みたいに、人生かけてるわけじゃない。」
「それに……足すら動かせない奴の指示なんて、誰が聞くかよ。」
……
レオはその言葉に怒りを感じながらも、
拳を握りしめることしかできなかった。
──そうだ。トベの言う通りかもしれない。
心の奥で、そんな弱さが芽生えかけた──その瞬間だった。
バキッ!
閃光のような拳が、トベの顔面に炸裂した。
吹き飛んだトベはロッカーに激突し、
そのまま意識を失う。
──拳の主は、アキラ・ユウジロウだった。
「ユウジロウ……」
「おい、アキラ! 何してんだ、てめぇ!!」
キャプテン・エイコウが怒鳴る。
「それは、こっちの台詞だろ……キャプテン。」
ユウジロウの目が、獣のように光る。
「お前、これで済むと思うなよ……!」
「済まねぇよ。
……でもな、それは“お前ら”の方だ。」
ユウジロウが静かに拳を構えると、
上級生たちが彼を取り囲み始める。
「ユウジロウ! やめろ、バカなことするな!」
「黙れ、“天才”。
俺は……お前のことを“キャプテン”って呼んでんだよ!」
「キャプテン……?」
「こいつら、勘違いしてやがる。
“自分たちだけで”強くなったとでも思ってんのか?」
「違う……全部、お前が影で支えてたからだ。」
「それを分かってもねぇくせに……
……俺は、絶対に許さねぇ。」
ユウジロウは歯を食いしばり、
敵に向かって一歩踏み出す。
──そして、暴風のように殴りかかった。
上級生たちも負けじと飛びかかり、
ロッカールームは瞬く間に“戦場”と化した。
◆
レオは、動けなかった。
ただ、その光景を見つめていた。
だが──その時。
後ろから近づいてきた上級生が、レオを狙って拳を振り上げた。
「危ない──!」
ドカッ!
宙を舞うキックがその上級生を吹き飛ばす。
その正体は──アマリ・カイ。
「こりゃ楽しくなってきたなァ!!」
と、カイは笑いながら叫んだ。
◆
その日──
殴られて語り、蹴られて示した尊敬。
拳で繋がれた、痛みの絆。
そして──新たな“黒い影”が生まれた。
のちにスポーツ新聞にこう刻まれることになる。
「血の雨」──
新・クロイカゲ、誕生の日。
——————————
数時間後──
包帯だらけ、血まみれ、傷と青あざだらけの三人──カイ、レオ、ユウジロウ。
その目の前には、激怒した校長がいた。
「……バカか、お前らは!
新聞部にでもバレたらどうするつもりだったんだ!?」
……
しばらく沈黙が続いた後、校長はため息をついて言った。
「……部活動は今年と来年、完全停止だ。
スポーツをしたいなら、学校の外でやれ。いいな?」
「……はい……」
三人は揃ってうなずいた。
「……訳が分からんが、カツラ監督が全責任を引き受けると申し出た。
お前らを退学から救ってくれたんだ。少しは感謝しろよ。」
「感謝してます。」
三人は、今度ははっきりと力強く答えた。
「……さっさと帰れ。お前らのせいで仕事が山積みだ。」
◆
廊下のベンチに並んで座る三人。
疲れ切っていたが、どこか清々しい空気が漂っていた。
「……ヤバいことになっちまったな。」
ユウジロウがぽつりとつぶやく。
「“なっちまった”じゃねえよ、
あの地獄を始めたのはお前だろ、バカ。」
レオがため息をつきながら、頭をかく。
「だってさ、アイツら、ぶん殴られて当然だったろ?」
「……まぁな。
でも、ありがとうな、ユウジロウ。マジで。」
「礼なんていらねぇよ、“天才”。」
──すると突然、背後から声が響く。
「ちゅっちゅ〜。
ここに、ラブラブなカップルを発見〜。」
……
二人が振り返ると、そこには金髪の少年、カイがいた。
……
「おい、なんでお前がここにいるんだよ!?!?」
「ずっといたけど?」
「え? マジで!?」
「マジだよ。」
「本当に!?」
「本当。」
「嘘じゃ──」
パァンッ!
「マジだって言ってんだろ、バカ!!」
──カイのビンタがレオの頬に炸裂。
頬を赤く染めながら、レオは一言だけ。
「……ごめんなさい。」
「……お前、思ってた“天才”と違ったわ。」
カイが頭をかきながら、ちょっとだけ呆れた表情を浮かべる。
「だろ?」
ユウジロウが満面の笑みを浮かべる。
「は? どういう意味だよ!」
レオがむくれながら言う。
三人はふっと笑い出し、そしてカイが言う。
「……全国大会か。悪くねぇ響きだな。」
「バカな“天才”しかいねぇのが残念だけどな。」
「うるせぇよ!」
……
「行こうぜ、全国。三人で。」
ユウジロウが手を差し出す。
「いや……優勝しようぜ。」
レオが自信満々に手を重ねる。
「乗った。」
カイも静かに手を添える。
──こうして「黒い影」の土台が築かれていった。
この三人こそが、チームの柱であり、魂となる存在だった。
◆
──時は戻って現在。
公園の芝生に座り、ボールを眺めながら語り合うユウジロウとレオ。
「……あの日から、本当にいろんなことがあったな。」
ユウジロウがしみじみと語る。
「そうだな。言い出したらキリがねぇけど……
全部、俺たちを強くしてくれた。」
「そして今回も……きっと同じだ。」
「……あぁ。」
……
その時、足音が近づいてくる。
雨の中、現れたのは──もちろん、カイ。
「……風邪ひくなよ、バカども。」
彼は二人にホットコーヒーを手渡す。
「……あのカフェにもう一つ星つけるか。」
レオが微笑む。
「どういたしまして、我が君。」
カイが90度の完璧なお辞儀をする。
三人はまた笑い出す。
雨なんて関係なかった。
そのひとときを、ただ心から楽しんでいた。
でも胸の奥では、同じ想いがあった。
「もう、俺たちは──一人でサッカーをやってるんじゃない。」




