第11章:Special One
世界が脆く、まるで一言で壊れてしまいそうな日もある。
体は弱り、心は揺らぎ、安全だと思われていたすべてが記憶と化す。しかし、まさに落ちそうになった時、何かが、あるいは誰かが、私たちを無理やり上へ向かわせる。それは時に手を差し伸べてくれる。時には笑顔。そして時には…それはチャンスを装った脅し。
成長は必ずしも報いのように感じられるわけではない。
時には痛み、恐怖、怒りを伴う。それでも、それは必要なのだ。
再び歩き、再び戦い…再び夢を見る。
そしてその時、その渦中に、すべてを変える誰かが現れる。
答えを与えるためではなく、より良くなるよう促すためだ。
サッカーは、人生と同じように、常に予期せぬカードを握っている。そして、そのカードは今まさに現れたのだ。
エミは病院のベッドに横たわっていた。頭には包帯が巻かれ、記憶は曖昧だった。
「正直、あまり覚えてないんだ…ただ、目まいがして、それで気づいたらここにいた。頭にでっかい傷を負ってさ。」
彼はくすくすと笑いながらそう言った。
レオはそっと彼の隣に腰を下ろした。冗談を言えるほど元気な様子に、少し安心したようだった。
「なるほど、そういうことか…」
「うん…」エミは微笑んだ。「早くフィールドに戻りたいな。」
「焦るなよ。」
レオは穏やかだがきっぱりとした口調で答えた。
「ちゃんと治すのが先だ。」
「分かってるけど…全国大会だけは、絶対に逃したくない。」
レオは横目で彼を見ながら、ふっと笑った。
「大丈夫。その日までには、きっと間に合うさ。」
「ありがとう、キャプテン。」
立ち上がろうとするレオが、ふいに立ち止まり、振り返って声を低くした。
「邪魔して悪かったな…さあ、二人きりでどうぞ。」
彼はいたずらっぽい笑みを浮かべて、扉を静かに閉めた。
「…あいつ、ほんとバカだな…」
エミは笑いながら呟いた。
「でも、いい人だよ。」
「なによ、いきなり…」
ウミは顔を赤らめながら目をそらした。
「いや、別に。…ただ、ありがとうって言いたくてさ。バカなことばっかしてる俺を、ずっと支えてくれて。ウミがいなかったら…たぶん、こんな仲間たちとも出会えなかったし。子どもの頃みたいに、つまらない人生を送ってたかもな。でもさ…」
エミは少し視線を落とした。
「…たまには、二人だけの時間が恋しくなるんだ。」
ウミはさらに赤くなり、そっぽを向いた。
「バカなこと言わないでよ…」
「ごめん、ごめん!」
エミは笑って手を振った。
「エミ、私…」
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「やっほー! 調子はどうだい?」
いつものテンションでユエイが入ってきた。
「父さん…珍しいな。」
エミは身を起こしながら驚いた表情を見せた。
「廊下でお前の友だちに会ってな、ついでに連れてきたよ。」
そう言って笑うと、後ろから黒い影のメンバーたちがぞろぞろと顔を出した。
「ちょっと、父さん…“何人か”って、それ全員じゃん。」
エミは大笑いした。
「はは、そうだったか。改めてよろしく。」
ユエイはジャケットを直しながら言った。
「私はユエイ・ニシムラ、エミの父です。よろしく頼む。」
「で、何してるのさ、みんな?」
エミは驚きつつも、嬉しそうに尋ねた。
リョウが手を挙げた。
「全部ユキのせい。病院怖いから一緒に来てって言われてさ。」
「はぁ? 言ったのはお前だろ!」
ユキが反論すると、みんなが笑い出した。
エミはふと横を向き、眉をひそめた。
「ムララ、お前、頭どうした? 血だらけじゃん。」
「試合中の事故だよ。」
ユウジロウは縫ったばかりの眉を触りながら答えた。
「“ムララ”のわりに、意外とやわだな。」
リョウが茶化す。
「黙れ。」
ユウジロウは殺気を放つような目で睨み返した。
部屋の隅で、ユエイは静かにその様子を見つめていた。
その目には、誇り以上のものが宿っていた。
あれが、本当のエミの笑顔だ。あの日以来、見てなかったな…
「じゃあ、俺はこのへんで。また後でな。」
彼は穏やかに手を振って、部屋を出ていった。
「失礼しました、ニシムラさん。」
皆が口をそろえて挨拶した。
しばらくして、ひとり、またひとりと部屋を後にした。
やがて静寂が訪れる。
エミは再び横になり、目を閉じた。
「…どうしても、戻らなきゃな…どんな手を使ってでも。」
部室の空気は、どこか張り詰めていた。
全員が集まり、腕を組んで立っている者もいれば、椅子の端に腰掛け、何が起きるのかを訝しげに見つめていた。
「なんのために呼ばれたんだ?」
ケントが辺りを見回しながら声を上げた。
カイは背もたれに寄りかかり、自信満々に微笑んだ。
「たぶん俺のすごいゴールを見たマドリードがスカウトに来たんだろ。」
部室に笑い声が広がった。
「それはないな。」
タケシが笑いをこらえながら言った。
「そんなレベルのチームが取るなら、レオくらいだろ。」
「うるせえ! 見てろよ、25になったらヨーロッパでプレーしてるからな!」
カイはわざとらしく怒ってみせた。
「はいはい、どうぞご自由に〜」
リコは手をひらひらと振って笑った。
タツヤがカイの肩をぽんと叩いた。
「まあまあ、夢見る権利は誰にでもあるさ。」
「このやろう!」
カイは笑いながらタツヤに飛びかかった。
「やれやれ…落ち着けよ。」
ユウジロウがため息まじりに立ち上がり、ふたりを引き離した。
部屋の隅からユキがじっと様子を見つめていた。
「いつも、こんな感じなのか…?」
ユウジロウはうなずいた。
「ああ。昔からこんな感じだ。だからこそ、お互いを信頼してる。」
その時だった。
静かに、けれど確かな威厳を持った声が響いた。
「…全員、座れ。」
レオの一言に、まるで見えない力が働いたかのように、全員が一斉に着席した。
リョウは内心で思わず呟いた。
(すげえな…キャプテンに対する、この信頼。)
真っ先に口を開いたのはユウジロウだった。
「で? 今日呼んだ理由は何なんだ?」
レオは首を振った。
「俺じゃない。俺は伝達役だ。話があるのは、校長らしい。」
「校長? あの老いぼれが今さら何を…」
ユウジロウが不満げに鼻を鳴らした。
「さあな。」
レオがそう答えた直後、ドアがギィ…と重たく開いた。
いつも通り不機嫌そうな顔をした校長が現れた。
「手短に言うぞ。無駄な時間は嫌いなんでな。サッカー部には新しい監督が就任する。その名はジョゼップ・モウだ。」
レオの目が瞬いた。
その名前を、知らないはずがなかった。
(あの時…校長室の前ですれ違った、あの男…)
無意識に胸に手をやる。
「じゃあ、今の監督はどうなるんですか?」
ようやくレオが口を開いた。
校長は肩をすくめた。
「チームの書記に降格させる。解雇すると高くつくからな。以上だ。」
それだけを言い残し、校長はくるりと背を向けて出て行った。
(…老いぼれめ。)
レオは目でその背中を追った。
そして次の瞬間、力強い足取りでひとりの男が部屋に現れた。
鋭い眼光を持ち、鍛えられた体をしたその男は、何のためらいもなく口を開いた。
「はっきり言おう。お前ら全員、サッカー選手の器じゃない。グラウンドに立つ価値もない。」
その瞬間、空気が一変した。
さっきまでの笑顔は消え、皆の目に驚きと怒りが浮かぶ。
「ミスをした選手は、容赦なく外す。誰であろうと関係ない。命令に従えない者はチームから排除する。俺は全国大会に“参加する”ために来たわけじゃない。“優勝”しに来た。」
重苦しい沈黙が部室を覆った。
「…質問は?」
レオはその男をじっと見据えていた。
心の中では、何千もの思考が渦を巻いていた。
けれど、その瞬間にすべてを理解した。
(この人は…ただの監督じゃない。)
(彼こそが、“特別な者”だ。)




