寝起きに怒られた
毒々しい紫の曇天の下に魔王城は佇んでいる。
城主は人類の敵たる魔族の長――魔王であり、彼が座している玉座の間では一大決戦が行われていた。
国を発ち、人々の願いを背負って魔王に挑む勇者、神官、戦士、魔法使いとの戦いは佳境を迎えている。幾多の試練を乗り越え、強力な魔王の配下も討ち倒し、魔王を倒せば全てが終わる所まで来ていた。
しかし、強大な魔王は大人を握り潰せる大きな片手で長く蓄えた顎髭を撫で、余裕の笑みで玉座に座りながら勇者とその仲間たちを軽くあしらっていた。
「く、何て強さだ」
「人間にしてはよくやったな。だが、所詮配下を倒したところで私に届く道理は無い」
「いいや、僕ら四人の力を合わせれば勝てない敵はいない!」
「…………いやいや」
魔王はちらりと赤い瞳で勇者たちの後方を見る。
そこには一人の戦士がいた。
戦斧を構え、相手を射殺すような眼差しで魔王を睨め上げている。絶大なる敵を前にして恐怖の一切を窺わせない顔つきは敵ながら感心する――やたらと勇者たちと距離が離れているが。
「さっきから貴様ら三人しか戦ってなくね?」
「何を言ってるんだ!僕らは四人でお前に立ち向かってる!」
「いや、肝心の戦士が後方で睨んでるだけだぞ。ヤツだけ無傷なの可怪しくないか?」
「シュヴァッハは何かあった時の為に後ろにいるんだ!そうだろう、シュヴァッハ!?」
「怖い!!」
シュヴァッハと呼ばれた戦士の少年は、厳しい表情と芯のある強い声で弱音を玉座の間に響かせる。
情けない叫びを背中に受けて、勇者の青年が微笑む。
「ああ、お前が後ろにいるから僕らは戦える!!」
「……貴様らの特殊プレイは意味不明だが、何にせよ今までの挑戦者同様に塵芥にしてやる!!」
魔王が掌を打ち合わせると、玉座の間全体に雷が走った。
既にボロボロだった勇者たちを容赦なく薙ぎ払い、シュヴァッハの足下まで吹き飛ばす。魔法使いと神官は即死、勇者は辛うじて息を繋いでいるが腕や手足を焼き切られて満身創痍だった。
シュヴァッハが慌てて勇者を抱え上げる。
「ゆ、勇者様!に、逃げよう!」
「諦めるな、シュヴァッハ。……お前なら、できる」
「お、お、俺……旅の中で兎一羽だって狩れなかった出来損ないの男なんだよ!そんな俺に、どうしてアンタは……!?」
「シュヴァッハは、やれば出来る男だ!僕は、そう信じて……」
腕の中の勇者の体から力が抜ける。
触れている部分から彼の死が伝わって、シュヴァッハの胸の中は絶望に染まりきった。
ゆっくりと勇者を床に寝かせ、戦斧を両手で持ったまま呆然と魔王を見上げる。にやにやと孤独になったシュヴァッハの状況を笑っていた。
「安心しろ、貴様も仲間と同じところに送ってやる!」
「う、うわあああああああああ!!!?」
再び魔王の雷が走る。
今度こそ終わりだと、シュヴァッハは迫る力の本流に目を瞑った。
「……はっ。あ、あれ、夢か?」
小屋で目を覚ましたシュヴァッハは、辺りを見回す。
どうしてここに眠っていたのか分からない。
扉は蹴破られたように壊れて木端が床に産卵している。防犯も何も無い状態で寝ていた自分の無防備さへの呆れと何事もなかった安堵で涙を滲ませつつ昨日の記憶を思い返す。
たしか、街の近くの森で兎を狩ろうとしたら逆に抵抗されて軽い頭突きを食らったのだ。
そこから一切の記憶がない。
「とほほ、体中痛い」
頭突きを受けた腹部がじんじんと痛む。
シャツの裾を捲ると、打たれた部分は痛々しい青痣があった。
誰の物かも分からない小屋で目覚め、それどころか兎に失神させられた経緯の情けなさでもう涙腺は決壊寸前だが、せめて事後処理はちゃんとしようと自身を叱咤して立ち上がる。
壊れた扉を修繕し、小屋の持ち主にしっかりと謝罪してから改めていつからか恋人面して家に住み着いた同居人にも心配をかけた分だけ頭を下げて仕事に出ようという今日一日の計画を立てる。
まずは荒れた小屋の中を掃除すべきと考えたシュヴァッハは、そこら中に散った扉の残骸を拾い上げる。
そうしている内に、小屋に老人が入って来た。
「おい、おまえ誰だ!」
「え、あ、俺は冒険者のシュヴァッハ。小屋を壊してごめんなさい」
「冒険者?」
老人が薪割り用の斧を構えるので、シュヴァッハは慌てて自身の素性を明かす。
そのまま扉を壊した経緯を説明しようとしたが、老人がシュワフの名を聞いた途端に眉を顰めた。
「その汚れた金髪、くすんだ翡翠の瞳と背中の戦斧、そしてその名……おまえ、臆病者のシュヴァッハだな!!」
「うぐはっ」
外見の特徴をあまりにも悪し様に言われた上、極めつけに街で広まっている自分を指した悲しい二つ名にシュヴァッハは血反吐でまた床を汚しそうになる。
何とか言葉の刃に堪えていると、後ろに回り込んだ老人に背中を押された。
「出て行け、この疫病神めが!」
「どぅっわああああああああああああ!!!」
老人の手に打たれて、シュヴァッハの体が宙を舞う。
そのまま小屋の入口を通過し、外の地面を跳ね転がって近くの木の幹に激突した。
あまりの吹き飛び様に背中を押した老人が絶句する。軽く小突いたような力で、どうしてあんなにも飛ぶのだろうか。てっきり自分が老いて凄まじい怪力に目覚めたというだけでは不思議な結果だった。
ずるずると木の根元に崩れ落ちたシュヴァッハが頭から夥しい血を流し始めたので、老人は人殺しは流石にまずいと思い、急いで駆け寄った。
「そそそそそんなつもりは無かったんだ!ワシはまだ人殺しになる気はないぞい!?」
「あ、気にしないで……いつもの事だし。俺って、人の何倍も血があるらしいから、見え方が盛大なだけで別に」
「その分だけ出血量が凄いことになってるけど!?」
「だ、大丈夫。治りだって早……あれ、何かどんどん景色が白くなってきた」
「ほら見たことか!ええい、ちょいと待ってろ!?」
老人は一度小屋へと駆け戻ると、救急箱を持ってシュヴァッハの元に戻るや止血を始める。
その間も薄っすらと彼岸が見え始めたシュヴァッハは、穏やかな笑顔のまま老人による応急処置を受ける。あと少しで意識が向こう側へと渡る直前で頭を包帯で強く締められる感覚で現実に引き戻された。
気が付いたら小屋の中のベッドに横たわっていた。
シュヴァッハはまだ生きていることを実感してまた涙しつつ、部屋を見渡して椅子に座っている老人を見つけた。
「ありがとう、爺さん」
「肝冷やしたわ、戯け者!いくら街で卑怯者、恥知らず、醜いヒモなどと呼ばれるあのシュヴァッハでも殺したら一応は罪に問われるんだぞワシが!?」
「ぐはっ、ごっ、げふっ……!」
「何で言葉だけで頭から血を噴く!?」
「み、見た通り精神的な傷も体に直結する性質で」
老人から追加の止血処置を受けながらシュヴァッハは情けない笑みを浮かべる。
それを見た老人は、ますます顔を顰めた。
「本当に信じられんな」
「え?」
「お前があの魔王を討ち倒した勇者パーティーの一員だったなどと未だに信じられん。噂通り、勇者様や仲間を盾にして戦い生き残ったと」
「……ああ、その通りだよ」
肯定したシュヴァッハに老人の視線は冷たくなる。
街で、いや世界でシュヴァッハを知らない者はいないが、そこに名誉など一切無く、皆口々に彼を謗るほどに悪評が轟いている。下手をすれば、人類を長らく苦しめてきた魔王やその配下たる魔族にすら引けを取らない嫌悪感を抱かれていた。
元勇者パーティーの戦士シュヴァッハ。
優秀な戦士を輩出する村で生まれ、魔王討伐の為に旅をしていた勇者様に見出されて、栄誉ある勇者パーティーに名を連ね、共に戦い続けた。
ここまでなら皆に尊敬され、羨まれて然るべき人物なのだが、伝わっている彼の戦い様が問題だった。
曰く、尋常じゃないほど打たれ弱い。
曰く、魔族すら殺すのを躊躇う。
曰く、個人戦じゃ勝ち知らず。
聞くだけで耳を塞ぎたくなるような醜聞ばかりだ。
結局、魔王と相討ちになった勇者パーティー唯一の生き残りとして帰った後も国王から大した報奨は貰えず、そのまま追い出されたという。
体は鍛えられているし、大きな戦斧を背負って軽く立ち上がれる力の持ち主なので老人の目からも戦士と言われて疑いはないが、それでも本人の雰囲気が小動物みたいで大きな傷のある顔に相手を威圧できるだけの覇気を感じない。
魔王を倒した一人と言われたら絶対に違うと断言できる面構えだ。
これがあの――『臆病者のシュヴァッハ』。
「やっぱり噂通りの腰抜けか。小屋壊したのは鬱憤晴らすためか?」
「いや、兎にド突かれて吹っ飛んだだけ」
「腰抜けっていうか体の中身色々抜けてんじゃないの!?腑抜けだってそこまで大変な事にならないぞ!?」
「いやあ、何か知らないけど昔からあらゆる攻撃に弱いんだぜ俺」
「よくそれで勇者様の勧誘受けたな恥知らず!?ったく、変にも程があるだろ」
概ね噂通りだと確認が取れて、やはり見捨てても良かったかと後悔だけが老人の中で生まれる。
「変なのは爺さんもだろ」
「あ?喧嘩売ってんのか」
「ごめんなしゃい……」
「謝罪は聞いてねえ。何が変だって言ってんだよ」
話しているだけ苛立ちが増すのだが、不思議と会話を続けてしまうのはシュヴァッハからどうしようもなく害意を感じないので自然と力が抜けてしまうからかもしれない。
老人は奇妙な感覚に自分の正気を疑いながら、シュヴァッハが自分を変だと言った理由を追及する。
聞かれたシュワフは、猫のように小首を傾げた。
「え?だって――まだ人殺しになるつもりはないって言ってたじゃん。これから人殺す予定でもあるみたいな言い方して」
あまりに何の緊張感も無く放たれた一言に、老人の顔が凍りついた。