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騒々しい夜を超えて慌ただしい朝を迎え、泊まられた旦那様方を送り出すと、慌てて琴海姉さんに聞いた。でも琴海姉さんは、それに琴海姉さんも全く気にしていなかったようだ。
「初回の男はねぇ、あたしでも部屋には入れてあげないよぉ」
「よかった!」
「よかった?なんでだよ、もしかして真琴が取ろうっていうのか。まあ金のありそうな男だからわかるけど、うちみたいな小見世だって浮気は駄目だよ。御法度だ。浮気しても許されるのは、あの男だけ」
琴海姉さんはそういうけれど、あの男、新之助様は浮気をしない約束を守ってくださっている。
「そうじゃなくて、あの男の人を部屋に通すと死んでしまうって聞いたので」
「あたしだって琴夜だって知ってるよ、噂のことは。女郎は噂好きだからね。ホラ吹きばかりで有る事無い事、話がでかくなるのさ」
「でも、でもあの男の雰囲気が。なんだか怖くて。噂じゃなくて本当のことじゃないか心配なんです」
「まん丸で真っ黒で、魚みたいに何を考えてるかわからない目をしていたねぇ」
やっぱり。塗り笠で隠れていて顔は見れなかったけれど、湯屋で聞いた男で間違いない。
「やっぱりその男です。琴海姉さんの部屋には上げないでください。心中させるんですよ」
「あたしだって、噂の男だってすぐにわかったよぉ。でも、どうしようかねぇ。金払いは良さそうだし。もう一度廻し部屋に通して、それでも会いに来てくれるなら、あたしも部屋にも上げないとねぇ」
大見世になれば初回は背を向けて顔も合わさないこともあるけれど、それでも三度目となれば床に入る。大見世でもないこの見世で、3度通って部屋に通さないのは不義理というもの。
「あれは、いい金づるになりそうだね」
琴海姉さんが言う通り、琴夜姉さんにとってはお金を稼がせてくれる。あの男が逃げないようにするのが当たり前。
「それだけじゃないんだよぉ」
それだけじゃない?
「つまらない男じゃなかったんだよぉ」
いつもの朝よりも上気しているように見えた琴夜姉さんは、もしかして惚れているのだろうか。
まだ女郎になったばかりの私には琴夜姉さんの気持ちを読み取れなかった。
「僕も噂は聞いているよ。でも、よりによって狐踊屋に上がるなんてね」
気まぐれに見世に現れた新之助様を部屋へと通し、魚のような目をした男のことを何か知らないかと思い聞いてみると、あっさりと話してくださった。
「吉原に来る前は品川に通っていたこと、そこで女郎が心中したのも本当だったよ」
「じゃあ、あの男のことを調べられたのですか。あやかしなのですか」
新之助様は陰陽師をしていると話してくれた。江戸のあやかしを見張っている陰陽師であること、そして人魚を食べた私のことを監視していることを。
ただ、狐踊屋に来る他は新之助様が普段何をしているのか私はさっぱり知らない。
「江戸のあやかしが悪さをしないか見張るのが僕の仕事だからね。ただの遊び人じゃない。妙な噂がないか聞いて回って、足を棒にして調べているんだ。こう見えても日頃は仕事しているんだよ」
まるで私が考えていたことを見透かしたかのように新之助様はにっこりと微笑んだ。
「あの男は一度心中したのだけどね、男の方だけ助かった。心中に失敗すると非人頭に身を渡されるんだ。決まりでね。でも、塗物屋の主人は身請けの金を用意して、すぐに塗物屋の番頭に戻った」
「ずいぶん信頼されているのですね」
「そうみたいだね。塗物屋がある小伝馬町で聞いたけれど悪い話なんて全くでてこない。品川の心中も年増の女郎が強引に誘ったんだって言って男の肩を持つばかりだ。品川やここで聞く噂とはだいぶ違う」
「あら、新之助様は南にも顔が利くのですね」
吉原に対し品川の遊郭を南と呼ぶくらいで、品川というところは吉原のように大きなところだという。ただ、吉原を囲うお歯黒溝も塀もないと聞いた。
「嫉妬してるのかい?大丈夫だよ、見世には上がっていないから。行商になってね行くんだ。登楼すれば一人だけど、行商なら沢山の女郎から話が聞けるからね」
どんな行商なのかきっちり確かめたかったけれど、女郎が簡単に嫉妬心を見せるのはよくないと真那鶴姉さんに教えられたことがある。
「その男は以来吉原に来るようになったのですか。その様子だと、ほかの見世でも聞かれたようですね」
私は顔に出ないように平静を装い聞いた。
「まあ聞いてくれ。噂で聞いただろ、女郎が他の男と心中すると。最初は品川だったんだ」
「心中未遂のあとにも品川に通っていたのですか」
「そのようだ。吉原と違って品川は大門もないし、女郎にも客にも厳しくないからね。まず、品川で一件。通っていた女郎が別の男と心中した」
「さすがに品川の女郎には避けられて、吉原に通うようになった。そして、二十日も空けずに三度通った女郎が心中した。そして噂が広まった」
「新之助様のように品川にも吉原にも詳しいお人がいらっしゃるものですね」
「嫉妬かい?言っただろ、誓って浮気はしてないよ」
「嫉妬ではございません。それほどの遊び人がいるもののだと驚いたのです」
「心中ってのは女郎の気を引くものだし、噂になりやすいんだろう」
通った女郎に心中されることが2回続く、それはどれだけ珍しいことなのだろう。
「それでは、男はあやかしではないのでしょうか」
日頃は番頭を務め、周囲からも信頼されている。熱を入れて通った女郎が心中したのは偶然。そんなことはあるのだろうか。
「お菊さんもあやかしには見えないと言っていたよ」
遣り手のお菊さんはあやかしを見抜く力を持っているという。私がただの人間ではないことも一目で見抜いたほどだ。
「じゃあ、偶然ということでしょうか」
「狐踊屋の亡八みたいに人の姿に化けているのかもしれない」
この見世の楼主は狐だけれども、それを知っているのはわずかばかり。琴海姉さんも琴夜姉さんも知らないことだ。
同じように吉原の外にも人にばけたあやかしはいるのだろう。
「僕はね、死魔かもしれないと睨んでいる」
死魔?
「あの、死魔というのは」
「お迎えってやつだよ。あの世へのお迎え役だと思ったらいい」
「じゃあ琴夜姉さんは!?死んじゃうんですか」
「まあ、慌てないでくれ。死魔と決まったわけじゃない。それに」
「それに?」
「死魔ってのは取り憑いた者を殺すものなんだ。普通はね」
「じゃあ、丸い目のその男が死魔ということですか?」
「そうかもしれない。僕にもお菊さんにも見抜けないのは気になるけど」
「祓ってもらうことはできませんか?私ができることならなんだってしますから。どうか新之助様」
しかし、新之助様は黙ってしまった。
「お金なら何年かかっても必ず用意します」
不老不死が本当なら、先に亡くなるのは新之助様だ。それまでに稼いだもの全てを渡せばいい。
「真琴、悪いがそれはできない」
「どうしてですか。新之助様は悪いあやかしのお目付け役ではないのですか。じゃあ、お稲荷様に頼んで」
「真琴、それも無理なんだ」
「どうしてですか?このままじゃ、琴夜姉さんが……」
「それはね、死魔は悪いあやかしじゃないからさ」
「どうしてですか!?死んでしまうのに、悪いあやかしじゃないって」
「生まれれば誰もが死ぬもの。誰にだって死魔はやって来る。特に吉原の女郎にはそれが早い」
苦界十年。十年の年季を最後まで務めて吉原から出られる女郎が少ないことは私でも知っている。真那鶴姉さんもそうなってしまった。
「そんな……」
だからといって納得はできない。病なんかじゃなく、心中してしまうなんてあんまりだ。
「でもね、死魔ってのはひとに姿を見せないものだ。まして、ひとの姿に化けるなんて聞いたことがない」
「じゃあ、死魔じゃない、他の悪いあやかしかもしれないってことですよね」
「そうだね。本当に死魔なのか、もう少し男を調べてみるよ」
よかった。本当によかった。死魔じゃないのなら、新之助様に祓ってもらえる。琴夜姉さんは心中せずにすむ。
「それで今日はお仕事に来られたのですか、行商でございますか。それとも会いに来てくれたのですか?」
「今日はね、約束通り、藤の簪を持ってきたんだ」