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「真琴、掃除はもういいからこっちにきな」
呼んだのは遣り手のお菊さんだった。夜見世の準備をする手を止めて、お菊さんのところへと急ぐ。
「お前さんは今日から女郎だ。真琴、ここがお前さんの部屋だよ」
そう言ってお菊さんが障子戸を開けると、狭い部屋に布団が一揃いと鏡台が一つ。置いてある。それに着物も。
「もちろん、その布団と着物はお前さんへの貸金だからね」
女郎は見世に金を借り、着物や道具を揃える。女郎の食事代だって見世が出すわけじゃない。女郎が使う金は全部見世の貸金だ。遣り手は女郎を働かせるために、着物が古くなったから新しくしろとか季節のしつらえを用意しろだとか、せっせと貸金を作らせる。
大見世なら布団や着物、道中に出る男衆の祝儀まで初見世の時は旦那様が面倒をみてくれるけれど、私にはその旦那様がまだいない。初見世に送り出してくれるはずだった真那鶴姉さんも今はいない。
「いよいよ初見世だね」
後ろから聞こえてきた声は狐の楼主。廓のことはお菊さんに任せっきりで、こうして二階に顔をだすことすらも珍しい。
「借金といっても真琴なら一年もあれば返せるだろう。この見世には売られてきたわけじゃないからね」
狐が化けているせいか楼主らしくはないけれど、金勘定はきちんとしているらしい。
吉原の女郎は売られた時に数十両の貸金が出来る。私は向こうの見世にはそれを残したまま消えたけれど、この狐踊屋にはそれがない。
「食事の他にはその着物と布団以外の借金はないのだから、吉原が嫌になったっていう時は逃してやってもいいんだよ」
普通の女郎は十年の年季をかけて貸金を返すのものだけれども、売られてこの見世に来たわけではない私には、貸金はまだほとんどない。だからといって、この見世を、吉原を出るわけにはいかない。
「いえ、吉原の女郎として真那鶴姉さんの気持ちが理解出来るようになるまで辞めるわけにはいきません。それまではここに置かせてください」
「吉原にいたいなんて、変な娘だね。でも女郎は着物一つじゃ務まらないよ」
どの見世の遣り手も女郎の貸金を増やすのが喜びだ。お菊さんも例外じゃないようだ。
「着物だけじゃありません。布団ももっといいものに変えたいです」
着物だけじゃなく、布団だって真那鶴姉さんと同じくらいの厚いものを使えるようにならなきゃだめだ。
身につけるものは姉さんと同じかそれ以上じゃなきゃ、姉さんがどんなことを考えていたのか、どうして心中したのか、本当に心中なのか、私は知ることが出来ない。
「そうだね。布団は女郎の商売道具だから、いいものを使えるようになっておくれ。その時はうちの見世も景気がよくなるだろうね」
「狐なのに、そんなこと考えるんですね」
あやかしがお金に頓着するのは意外だった。狐ならひとを化かせればそれでいいのかと思っていたから。
「お金がなければこの見世を続けられないからね。狐にだって考えはあるさ。それじゃあお菊さん、初見世の向え方、きっちり仕込んでくんな。何事も最初が肝心だからね、真琴も頑張るんだよ」
そう言い残し、楼主が階段を降りていくとお菊さんが言った。
「昔から、狐は男から精を吸い取るのが仕事だっていうからね」
「だから稲荷ばかり吉原におわすのですか」
「さあね。そんなことより初見世の準備だよ。その着物に着替えちまいな、もうすぐ髪結いも来るんだ、さっさとしな」
用意されていた着物は唐の模様だろうか、金襴手のように赤と金で彩られている。
新造とは違う、女郎らしい引きずるほど長い丈の着物は初めてだった。
着替えると、部屋への向え方から始まり、床入りの後にどうすればいいのか教えてもらった。最後に島田に結ってもらい、これで初店の準備は終わりだ。
「島田も似合うじゃないか。髪飾りは客にねだるんだよ。勝山に結いたいけど簪も櫛もまだないから見栄えがしない、本当はお前さんに一番に見せたいんだけれどね、なんて言えばいいんだ。男なんて皆バカだからね、バカな奴ほど簪持ってやってくるよ」
お菊さんも元は女郎。手練手管にも自信があるのだろう。そうじゃなきゃ、女郎と客の欲が入り乱れる廓を管理する遣り手を務められない。
「勝山みたいな古いのよりもねぇ、真琴には島田の方が似合うよ」
様子を見に来た琴夜姉さんが声をかけてくれた。そう言った琴夜姉さんは勝山に結っている。
勝山に結う女郎は少なくなってきていると聞いたが、琴夜姉さんは古いからこそ好んでいるという。
「勝山でも島田でも兵庫でも、女郎には髪飾りが沢山ないとな。客にねだれば、じゃあ次に来る時には何か用意しておこう、なんて言って向こうだっていい気分になるんだよ。俺は頼られてるんだなんて勘違いしてさ」
誰よりも髪飾りが多い琴海姉さんは、そうやって沢山の簪や櫛を頂いてきたんだ。
「いいかい真琴、女郎をやるには大切なことが一つある。死ぬまで覚えておきな」
お菊さんはじっと私を見据えた。
「恋、ですか?」
「女郎は客に恋をしては駄目だ。稼げないどころか男に金を渡す奴までいる。恋をすれば女郎でいられなくなるんだよ」
「恋をしたら簪一本ねだれなくなるからね。あたしの簪の数は恋をしていない証だよ」
そう言った琴海姉さんは数えるように頭の簪を撫でている。
「向こうはそうとは思ってないけどねぇ」
「真琴、この子達みたいに客には恋をさせるんだよ。うちは小見世だけどね、女郎の出来はいいんだ」
「夢を見せるってことですか」
「そうだね。女郎は客に夢を見せる。お前が客に夢をみちゃいけないよ。わかったかい」
「はい!」
「いい返事だ。今日は清掻はいいから、男衆が連れてくるまで部屋で待ってな」
そう言うとお菊さんは部屋を出ていってしまった。
「頭ではわかっていても、肌を合わせると難しくなる時もあるからねぇ。気をつけるんだよ」
「初見世の相手は遊び人なんだ、心配することないよ。向こうもよくわかってるさ」
「明日聞かせてくれよ」と言って二人の姉さんも行ってしまった。
あれほど女郎になりたいと思っていたのに、これほどあっさりと女郎になる時が来たことに戸惑っていた。
琴海姉さんが言ってくれたように、新之助さんは浮気者だけど遊び慣れているから、私の戸惑いを和らげてくれるだろうか。琴海姉さんが話してくれたような気遣いで。
なにか考え事をしていたような気はするのに、その時が来るのはあっという間だった。
男衆の声が聞こえると障子戸がゆっくりと開く。遣り手に教えられたように、両手を床につき深く頭を下げて挨拶をした。
「本日は私、真琴の部屋にお上がりいただき、ありがとうございます」
一息置いてから頭を上げると思わず「えっ」と声を上げてしまった。目の前に座る遊び人の姿を見て驚いたからだ。
以前に見た時とは、冷やかしのために琴海姉さんの戸を勝手に開けた時とはまるで別人。見事な旦那様の姿に変わられている。
着物も羽織も一目で上等とわかるもの。なによりもボサボサの総髪じゃない。月代を綺麗に剃り上げ、見事な髷を結っている。
「どうだい、僕も見違えただろう。馬子にも衣装ってやつだ」
「新之助様が馬子など、とんでもございません」
馬子は謙遜がすぎるけれど、思わず声が上ずるほどに見違えたのが本心だ。身なりを整えたせいか、顔つきすらも精悍に見える。
「君こそ今日は一段と綺麗だね。昨日までの新造が立派な女郎になっている。まるで大見世の太夫か花魁の座敷に上がったような心地ちだよ」
「もったいないお言葉です」
挨拶も済ませ、運ばれてきた酒に手をつける前に新之助様は改まった。
「本当は道中を出してあげたいのだけど。僕にそんな甲斐性はないものだから、初見世の相手を務めるというのに申し訳ない」
そう言うと深々と頭を下げた。
「そのようなこと気になさらず、どうぞ頭をお上げください」
「道中の代わりというと随分見劣りがするけれど、簪を一つ用意してきたんだ。付けてもらえるかな」
手ぬぐいに包まれたのは銀細工で桜をあしらった簪だった。小さな桜の花がかわいらしい。
「大切に使わせてもらいます」
「よかったよ。もしかしたら見世の姉さんに簪やら櫛をもらって沢山つけていたら、僕のはつけてもらえないんじゃないかと心配でね」
桜の意匠が映えるように、新之助様からもよく見てもらえるように、少し上に傾けて簪を刺す。
「うんうん、よく似合ってる。やっぱり春は桜だね。夏は何が真琴に似合うだろうねぇ」
「夏、ですか?」
「桜は春だ、夏には夏の簪がいるだろ」
「簪を揃えるほどまだ稼ぎがありませんので……」
「なに言ってるんだい。簪も櫛も着物も布団も、客にねだるもんだよ。姉さんも言ってただろ」
そうだった。お菊さんが教えてくれたんだ。
「勝山に結いたいけれど簪がないから見栄えがしないので」
慣れないせいでたどたどしかったのか、それを聞いた新之助様は笑いだした。笑いが収まるまで随分長かった。
「お菊さんだろ、それを教えたのは」
「どうしてわかったのですか」
お菊さんに言われたままを言ったせい?でも、そんな事は知らないのに。
「今じゃ勝山に結っている女郎は少ないからね。島田か兵庫ばかりだよ、新造が憧れるのは。でも勝山にするなら立派な簪が沢山いるね」
「はい。夏だけじゃなく秋の簪も冬の櫛も欲しいので、次に来る時は」
「ああ、もちろんだよ。一年あれば、勝山にしても恥ずかしくないくらいの簪も櫛も僕が用意するよ。でも僕の贈り物なんて埋もれてしまうかな」
「どんなに沢山頂いても、この桜の簪は必ず来年もその次も使わせてもらいます」
こうやって真那鶴姉さんも簪や櫛を一つ一つ頂いたのか。一つ一つに旦那様との思い出があるのに、それを捨てて心中が出来るのだろうか。
酒をぐいと飲み盃を置くと、それまでの新之助様の物腰穏やかな気配からがらりと一変した。姿勢を改め背筋を伸ばし、目に力が入るのを感じた。
いよいよ床入りなのだと思うと、思わず私の体にも力が入ってしまった。
床へと移る機会は女郎から促すものだけれども、私に経験がないことを考えてくだすったのだろう。
行灯の薄明かりの中で新之助様は顔を近づけた。口を吸うものだと思って身構えていた。
しかし違った。
口ではなく頭は襟元に、新之助様の鼻の頭が首筋にぴたりと付いた。
「真琴からは、わずかにあやかしの匂いがするね」
あやかしの匂いがする?どういう意味だろう。真那鶴姉さんの座敷でそんなことを言う旦那様はいなかった。他の女郎だって遣り手も見世の男衆だって。
じゃあ、もしかして、新之助様は知っているのだろうか。でも、どうしてそんなことを。
「あやかしの匂い、ですか。はて、どんな匂いでしょう。まだ子供ということでございましょうか」
「そうじゃないよ。あやかしの匂いを嗅ぎ分ける者は少ないからね。真琴もまだわからないのだろう」
そう言うと新之助様はもう一度首筋に鼻を当て、確認するかのように鼻から大きく息を吸った。
地口のような言葉遊びじゃない。新之助様は確かに知っている。私が人魚を食べたことを。でもどうして。
知られてしまえば、私は真那鶴姉さんを殺したと捕らえられ、見世の男衆になぶり殺されてしまうだろう。
この見世で女郎になることすら叶わない。
「まあ少し聞いてくれ」
私のことを慮ってなのか声音にはいくらか優しさが戻ってきたけれども、その気配はまだ硬くこわばっている。
「僕は遊び人だとか言われるけれど、ただ遊び歩いているだけじゃないんだ。本当は京の陰陽師なんだよ」
「おんみょうじ?」
「御公儀があやかしを使っておかしなことをしないか監視するために江戸にいるんだ」
「あやかしにお詳しい、そういうことでしょうか」
「ごくごく簡単に言えばね。この見世の忘八、楼主が何者なのかも知っているし、彼も僕のことはよく知っている」
「そうでしたか」
「僕はただあやかしに詳しいだけじゃない。あやかしが何かおかしなことをすれば、僕はそれを排除しなきゃいけない」
排除?
「排除というのは、現世から常世へ送る。つまり、この世にいられないようにするってことだね。本来、あやかしは常世にいるべきなんだ」
「……それでは私のことも」
行灯の薄明かりでは新之助様の表情がよく見えない。それでも気配は感じ取れる。
「どうか見逃してもらえないでしょうか」
新之助様の気配は元の柔らかなものには戻らない。真剣だ。私を怖がらせようと冗談を言っているわけではないことが伝わる。
「私は吉原で確かめたいのです」
「確かめたい?」
「姉女郎が、傾城と呼ばれるほどの真那鶴姉さんが、望めば全てが手に入る姉さんが、どうして心中したのかを。そのために私も傾城と呼ばれる女郎にならなければいけないのです。どうかそれまでの間、見逃しては貰えないでしょうか」
「見逃す、か」
「お願いでございます」
「見逃すも何も、人魚の肉を食べた君を僕が排除することは出来ないだろう。いまの君は不老不死なんだからね」
「それでは」
「だからといって放って置くわけにはいかない。君は既にあやかしも同然なんだ」
「それではどうされるお考えでしょうか」
「あやかしには人を化かすものもいる。時には人に害をなす、そんなあやかしを排除することもある。だけど女郎なら話は別だ。女郎は男を化かすものだからね。女郎として男をどう化かすのか、君が傾城と呼ばれるまで僕はしっかりと見届けなければいけないね」
「それでは」
「まずは僕を化かしてくれるかな」
明るい声でそういうと、新之助様は私の肩を抱き力強く体を引き寄せた。
障子戸の向こうからはいつものようにイマさんが後片付けをする音が聞こえてくる。
また出遅れてしまったと一気に目は覚め、咄嗟に起き上がりそうになるけど、隣で眠る新之助様をを見て思い出す。昨日までの朝とは違うことを。
新造には新造の、女郎には女郎の仕事がある。泊まりの旦那様がいる時はイマさんに任せよう。
やがて起き上がろうとする新之助様の腕を引き、ただしなだれる間も時間は過ぎ、すぐに玄関へと出て見送ることとなる。
後朝の別れ、お見送りは次の約束を取り付ける機会でもある。見送りで女郎の差が出るものだと、前の見世の遣り手もここのお菊さんも話していた。
「新之助様が選んでくれる夏の簪、楽しみにしています」
それを聞くと彼は清々しく笑った。
「なに言ってるんだい。次に僕が贈る簪はまだ春のものだ。藤が咲く頃には来るからね」
手練手管には女郎と客の騙し合いもあるだろうけれど、新之助様の言葉が素直に嬉しかった。
でも、素直に嬉しさを伝えるよりも女郎には別のやり方がある。
「藤の次が楽しみです。菖蒲か芍薬か、それとも紫陽花でしょうか。でも紫陽花が咲くのはまだまだ先ですね」
「紫陽花だってすぐだよ。まいったな」
「あと、浮気はいやですよ。浮気してる間に傾城になってしまえば新之助様とお会い出来なくなりますから」
「それもそうだ。ああ、しばらく浮気はやめだ」
「しばらくですか?」
「まいったね、一晩でこうも立派な女郎になるもんだ。ああ、もう浮気はしないよ、真琴だけだ」
もう一度、両手で強く新之助様の手を握ってから見送った。
後朝とは元は衣々と書いて残り香のことを言うのだと、真那鶴姉さんに教えられたことを思い出した。
新造の頃から姉さん方は口々に朝の別れが名残惜しいと話してくれたけれど、ようやく私にもわかったような気になれた。
新之助様との後朝の別れを済ませると、玄関でそれを待っていた二人の姉さんは爛々とした目で初見世の報告を促した。
いつものように琴夜姉さんの部屋へと集まり、座るやいなや、前のめりになり聞いてきたのは琴海姉さんだった。
「どうだった、遊び人は」
「別の旦那様がいらしたのかと思っちゃいました」
「ほんとに見違えたね、あたしだって誰かと思ったよ。顔だって体だってよく知ってるのにさ、あのいい男は誰なんだって琴夜に聞いちゃったよ」
「あたしたちにはあんな立派な格好、一度たりともしたことないっていうのにねぇ」
「ふふ、嫉妬ですか」
欲しがるような琴夜姉さんの声を聞いて、生意気にも思わず本音が声が出てしまう。言ってから嫌味に聞こえやしないかと心配になるが、二人の姉さんにそれは杞憂だった。
「真琴、お前一晩で言うようになったじゃないか」
「それだけじゃないんです。もう浮気はしないと約束してくれました」
琴海姉さんのカラッとした声音に救われ、さらに調子に乗ってしまう。女郎になれた嬉しさで浮かれているのかもしれない。
「本当かい!?」
二人の目がまん丸になった。
「客が一人減っちまったねぇ」
その言葉は、まるで二人が私のことを女郎として認めてくれたようで、誇らしく嬉しくもあった。
「藤が咲く頃には、また来てくれるそうです」
「初見世でこれじゃあ、真琴目当ての客が増えそうだねぇ」
「いいじゃないか、あたしたちもおこぼれに与れそうだ」