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 暖かくなるにつれ日は長くなったが夕闇はまだまだ早い。吉原は既に薄っすらと暗くなり、無数の提灯が灯る。

 暮六つ(現在の午後六時)の鐘を聞くと楼主は神棚に向かって拍子木を鳴らす。吉原一帯に響く甲高い拍子木が夜見世の始まる合図となる。

 拍子木の音を確かめると、張見世の端に座る私は清掻すががきを始める。

 隣の廓、その隣の廓と三味線の音が次第に重なり、調子が合っていく。何を奏でるか、廓どうしで練習どころか打ち合わせすらしないが、三味の音はいつも自然と重なる。

 いよいよ夜見世が始まる。まるで吉原が一つになっていくような、この雰囲気が好きだ。

 三味しゃみの調子が乗ってくると、そろりそろりと姉さん方が二階から降りてくる。

 張見世に並んだ顔つきは、昼に噂話をしていた時とは見違えて、大見世でも通用する色香を漂わせている。

 この日、最初に上がった客は提灯を持った狐踊屋の男衆が先導していた。大門で待っていたのか、引手茶屋ひきてぢゃやで待っていたのだろうか、イマさんの姉女郎、唯一の座敷持ち、琴雪姉さんの旦那様だろう。

 大見世のように道中こそないが、狐踊屋では唯一人の座敷持ちで張見世にも並ばないのだから格は大見世と大きく変わらない。

 まだ挨拶もしていないけれど、きっと素敵な姉さんだろう。

 張見世の中では、姉さん方が思い思いのやり方で自身の魅力を伝えようとしている。

 琴海姉さんは流し目と怪しい笑みで、琴夜姉さんはまがきの向こうに吸いかけの煙管をまわして、それぞれ男を誘っている。

 大男を投げ飛ばした春琴姉さんは、張見世の中央上段で瞬きもせず微動だにせず、高潔であることを示しているかのようだ。

 男を誘うやり方がそれぞれ違うのは、女郎が抱える事情の違いなのかもしれない。張見世には並ばない真那鶴姉さんについた新造の時は、張見世のこの雰囲気を知らなかったせいか、そんな事がふと思い浮かんだ。

 大見世とは違い香木を焚かないから純粋に女郎の魅力に誘われて、籬の向こうから物色する男が一人、二人と足を止めては見世へと上がっていく。

 大見世に上がる旦那様とは違い、狐踊屋へ上がる男の羽織は借りてきたものだろう。普段は着ることのない羽織の似合わない男の顔には期待の色が見て取れる。

 吉原に夢を見ている。

 春琴姉さんが朝言ったように、女郎は夢を見せ、客はその夢に浸る。

「ほらあいつだよ、真琴の初見世の相手」

 耳元で囁いたのは琴夜姉さんだった。

「いま上がる、あのひょろひょろとしたあの男だよ。いかにも遊び人っだてふざけたつらしてるだろ」

 今度は琴海姉さんが視線で示す。

 今しも男衆に下足を預けているのは、確かにひょろひょろとした男だ。

 雑に伸びた総髪を恥ずかしいとも思わないのか笠で隠すこともない。背丈があるせいか、背中の曲がりがやけに目立つ。

 お侍なら威張り散らして胸を張るけれど、商人特有の揉み手のせいで背中を曲げる癖がついたのだろうか。

「気になるだろ、大引けのあと床入り見にきなよ」

 そう言うと、ニヤリと微笑んで琴海姉さんは二階へ上がっていった。

 真那鶴姉さんのもとで初見世を向えていれば、威風堂々とした身なりを整えた立派な旦那様に道中を出してもらえるはずなのに。小見世になれば初見世の相手はあれほどに、身なりを気にする余裕のない男になってしまうのか。

 身なりはまだいい。

 それよりも何よりも、浮気者というのが気になる。

 横顔を見たくらいだけど、緩んだにやけた口元は、いかにも浮気をする男の顔つきだった。

「あいつから声がかかるの久しぶりなんだよぉ、琴海は。だからだろう、やけに喜んでたねぇ」

「浮気者なのに、嬉しいものですか」

「そりゃ浮気されるのは嫌だけどさ。でもあの男はねぇ、不思議と嫌いになれない奴なんだよ」

「真琴だって気になるって顔してるよ」

「それは初見世の相手なので。でも浮気はよくありません」

「それは真琴次第だねぇ。もしかしたら、ピタッと浮気止めちゃうかもしれないよ」

 そんな事を話していると琴夜姉さんも遣り手に呼ばれると、ニヤッと目尻を下げて微笑み「昨日からは客が多くて嬉しいねぇ」と言い残し二階へ上がっていった。

 琴夜姉さんが言った通りいつもより客は多いらしく、遣り手のお菊さんは「男共の頭の中も春になってきたね」と嬉しそうに、しかし厳しく仕事を割り振り見世を切り盛りする。

 私も張見世の中で三味線を弾いている余裕はないくらいの繁盛で、料理や酒を廻し部屋へと運んでは、済んだ皿を下げ、早くも床に入る旦那様には布団を敷いてと、狐踊屋を上を下へと走り回る。

 琴海姉さんは他の客へ廻っているのか、件の浮気者は一人手酌で飲んでいた。

「お前さんが真琴だろう。嬉しいねえ、こんなべっぴんさんの初見世の相手を務めるなんて」

 ジロジロとこちらを見る視線を感じていたが、こちらは気がついていないふりをしていたというのに。

 向こうは酒が入りすっかり出来上がった赤ら顔。総髪は見世に上がった時よりも、掻きむしったのか乱れている。

「そんなに嫌そうな顔するなよ、なぁ」

「嫌だなんて……、そんなことありません」

 姉さん方は見事だ。

 廻し部屋は屏風で仕切ってはいるけれど、その隙間から見える姉さん方の表情は、旦那様に一夜限りの夢を見させようとしている。

 だから、振られてもまた来てくれる。

「じゃあ緊張してるんだな。俺がいい男だから。なあ琴海が戻ってくるまで酌してくれよ」

 姉さんはこの浮気者にも夢を見せている。私にも出来るのだろうか。私はまだまだだ。姉さん方のように愛想がないし、上手くあしらうこともできない。

「初見世の時はよろしくお願いします」

 一言言い残しただけで、廻し部屋を足早に出ていってしまった。


 今日も二階からの物音で目が覚めた。すっかりイマさんに遅れをとっている。慌てて飛び上がり、二階へと上がると今日もイマさんが片付けを始めていた。

 あれだけの客入りだから、昨日に増して廊下は散らかっている。

「おはようございます。ごめんなさい、遅くなっちゃって」

「気にしないで。あたしは姉さんの座敷だから、夜は廻し部屋を手伝えないから片付けくらいは」

 姉さん方が見せてくれた妖艶な笑みとは違う、年相応の清々しい笑みを見せてくれた。

「それより、昨日会ったでしょ。遊び人の新之助さん。どうだった、いい人でしょ?」

 姉さん方は遊び人とか浮気者と呼ぶものだから、名前は知らなかった。新之助か。なんだか役者のような名前。

「いい人、ですか?」

「いい人だよ。姉さんの座敷に上がることは少ないけど、座敷に上がった時はすごく優しいし、姉さんも悪く言わないよ」

「そうなんですか。昨日は一人で飲んでいたせいか、随分悪酔いされていたようで」

「ハハっ、少し変わったところのあるお人だからね」

 少し?少しというより、頭の先から足の先まで変わっていると思うけど。あんなボサボサの総髪で吉原に来るなんて。

 でも大見世と小見世の違いなのかもしれない。

「あたしも新之助さんみたいな方が初見世だといいな。だから真琴さんのこと羨ましくて」

「イマさんなら、もっといい人が面倒みてくれます」

 つまらないお世辞ではなく、本心だ。この見世で唯一座敷を持っている姉さんの新造なんだから、そうじゃなきゃあんまりだ。

「きっと道中を出してもらえるような旦那様ですよ」

「道中か。そうだといいなぁ」

 早くも外八文字で練り歩く姿を想像しているようで、散らかった廊下を片付ける手がとたんに遅くなった。

 吉原の新造なら、誰もが道中を練り歩く練習をこっそりしているだろう。一度でも道中を見れば、いつか自分も、あれほど華やかな女郎になりたいと願ってしまう。

 廻し部屋から振られた男たちが起きてきたと思えば、突然姉さんの部屋の障子戸をあけて「おはよう!」と叫ぶ男が一人。

 例の男。遊び人で浮気者の新之助だ。


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