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二階から聞こえる物音で目が覚めた時、ここがどこなのかわからず驚き、眠い目は一瞬で冴えた。
そうだ、昨日はこの大部屋で寝たんだ。姉女郎、真那鶴姉さんの部屋ではなく、部屋持ちじゃない女郎が使う大部屋で。
見世の前で清搔、三味線を弾き、広い座敷を屏風で区切った大見世にはない不思議な部屋の手伝いをして、その後は遣り手に従いこの大部屋で眠りこけた。
ここの布団は真那鶴姉さんのものよりもずっと薄くて板みたいに硬い。そのせいで体が痛い。大見世の仕置部屋だって、もっとましな布団だ。
それなのに夢も見ずにぐっすりと寝ていた。疲れていたんだ。
姉さんが亡くなったことを忘れたかのように眠れたことに驚くけれど、朝は新造の仕事がある。私も働かなきゃいけない。
昨夜使った皿やら徳利、それに使ったあとの紙が部屋の外へ投げてあるから、後朝の別れの前にこれを片付けておくのは新造や禿の仕事。
二階から聞こえる音を聞くと、それは大見世とかわらないらしい。寝てはいられない。
急いで二階へ上がると片付けてているのはたった一人しかいない。新造だろう、まだ小柄で体は細く、私よりも二つか三つ子供に見える。
階段を登る音が聞こえたのか、こちらにすぐに気が付き軽い足取りでやってきた。
「おはようございます。あたし、イマっていいます」
「おはようございます。昨日からここでお世話になることになった真琴です。よろしくお願いします」
二人で並び、一度止めた手をすぐに動かす。
「昨日、三味線弾いてたよね。あたし、まだあんなに上手くできないからびっくりしちゃった。あたしの姉さん、琴雪姉さんくらいしか、うちの見世じゃ三味線やらないから誰だろうって」
喋ってはいるがしっかり手は動かし、まだ小さいけれど要領がいいのだろう、みるみるうちに片付けていく。
「いつも一人で片付けているんですか」
向こうと比べると狭い廓だけど、それでも一人で全部片付けるのは随分骨が折れる。
「そう。ここは新造があたししかいないからね」
向こうは新造と禿だけで二十人はいたのに、見世が変わればそんなに少なくなるのか。
「すぐに初見世なんでしょ。初見世の相手、どんな人か聞いた?」
「いえ、まだなにも」
「昨日、お菊さんが話してたの聞いちゃった」
「もう決まったんですか」
「たぶんね。遊び人なんだけど、悪い人じゃないよ。琴雪姉さんの座敷に上がることはほとんどないけど、うちの廓にはよく来る人でね」
でも、それはフヘヘとにこやかに笑って言うことじゃない。
「ちょっと待ってください、他の姉さん方に浮気するんですか!?」
廓で遊ぶ場合、一人の女郎とだけで遊ぶのが当たり前。他の見世へ上がろうものなら、廓の男衆から殴られても、縛られても文句は言えない。そんな吉原の不文律があるのに。見世替えどころか、同じ見世で浮気するなんて聞いたことがない。
「そう。もう皆諦めてるの、浮気するのは。だから遊び人って呼ばれててね」
「姉さん方は喧嘩になったりしないんですか」
「お菊さんも諦めてるからね。大見世みたいにうるさく言っても、かえって客が減るだけだって言ってるよ」
大見世は威厳を保つことが大切だと遣り手から何度も聞かされた。だから小さい頃から新造や禿に読み書きを習わせ、漢詩を詠み、三味や踊りを叩き込まれ、座敷での所作を躾られる。
客として大見世へ来る旦那様に見合った格、いや、それ以上の格が求められる。美しさと教養を兼ね備えているからこそ、座敷へ上がっても口も聞かない、床へ入るのも気分次第が許される。それでも通ってくだされば女郎も旦那様と認める。
遣り手だけじゃない、真那鶴姉さんも話していた。憧れられてこそ、吉原の女郎は夢を見せることが出来ると。
だから吉原は浮気を許さない。浮気される程度の女郎だと噂されれば、それが廓の傷に、女郎の傷になるからだ。
廓や女郎にケチがつけば夢を見せることも出来ない。
それなのに浮気を簡単に認めるなんて。
しかも、初見世の相手が浮気者。
私の、真琴の名前に傷がつく。真那鶴姉さんのような傾城と呼ばれるくらいの女郎にならなければ、そうじゃなきゃ姉さんの気持ちなんてわからないのに。
初見世からこんなことになるなんて。大見世じゃなきゃ真那鶴姉さんの気持ちを知れないんじゃないだろうか。
二階の片付けが終わるころ、泊まりの旦那様方が起きてきた。五人、六人と顔を洗いに向かうが、不思議なことに姉さん方は一人も起きてこない。
朝は女郎が手練手管を尽くす腕の見せ所だというのに。
「イマさん、この見世って姉さんは何人いるの」
「真琴姉さんをいれて九人だよ。どうして?」
九人しかいないのか。じゃあ八人の姉さん方はどうしているのだろう。まだ寝ている?
「旦那様方ばかりで姉さん方が一人も起きてこないから」
慌てたそぶりで近づくと、小さい声で教えてくれた。
「いま起ききたお客さんは振られたからだよ」
振られた?どういうことだろう。意味がわからない。
「振られたっていうのは」
「振られたってのは、姉さんと床入りできなかったお客さんのこと」
床入りできなかった?それじゃあ、何をしに見世に上がったの。
屏風で仕切られ、布団が沢山ひかれた広い部屋からのっそりと男が出てきた。昨日の夜見世で酒や料理を運ぶ手伝いをした不思議な部屋からだ。
体は大きく浅黒い。見るからにお侍でも商人でもない。職人か、それとも船頭だろうか。
「どうなってるんだ、ここは!」
とても寝起きとは思えない声量だ。声は野太く力がこもっている。
「いつ来るのかいつ来るのかと寝ねえで待ってたっていうのに、とうとう誰も来ねえでねえか」
向こうでも酔った旦那様が大きな声を出すことはあったけれど、朝になってこんな風に怒りをぶちまけることはなかった。
異変に気がついた男衆が慌てて階段を駆け上がってくる音がする。
しかし男衆が二階に上がるよりも先に、煙管を加えた一人の女郎が大男の前に立っている。
「出ていったきり戻らず、床に入ってこねえでねえか。おめえ、騙しやがったな!」
そう言うと女郎の羽織った着物の襟を掴むけど、大男を前に女郎はまるで怯まない。
「小見世だからって馬鹿な事は言わないで。騙したんじゃなくて夢を見せてあげたのよ。吉原は夜鷹や売比丘尼が集まる場所じゃないんだ。やりたいだけなら他にお行きなさい」
「夢見せただと」
「そうよ、吉原は夢を見るところ。そんな事もわからない野暮天だから誰も床に入ってこないのよ」
「野暮天ってなんだ、お前。おらを馬鹿にしてるか!」
言い終わる前、大男はずんぐりと太い右手で殴りかかったと思ったその瞬間、ドスンと重い音が響いた。
女郎が殴り飛ばされた、と思ったのに、何が起きたのか、床に叩きつけられていたのは殴りかかった大男の方だった。
見世の男衆はその光景がまるで当然だと言わんばかりに、驚く様子も見せずに男の両脇を抱え上げ、淡々と男を連れていってしまった。
「言っておくけど、あの子もあやかしじゃないからね。あやかしなんて、そうそういるもんじゃないよ」
耳元で言ったのは遣り手のお菊さんだった。
「さあ、働きな」
泊まりの旦那様を送り出して一息つくと、今度は昼見世が始まる。
といっても、昼見世はいくら吉原といえど人はまばらで、大見世でも客は数人いるかいないか、そんな程度だ。
大見世でも閑散としているのだから、小見世の狐踊屋の姉さん方に至っては、昼見世はないようなものなのだろう。
夜見世まで寝て体を休めたり、おしゃべりに花を咲かせたりで、客を上げようなんて雰囲気は皆無。
突然、見世に来た私は好奇心の的であり、強制的におしゃべりに付き合うことになった。
「あんただね、昨日の三味。上手いじゃん。こっち来なよ」
腕を引かれて姉さんの部屋へと連れ込まれた。
「あたしは琴海っていうんだ。それで、こいつは琴夜。あたしはいっつもこいつの部屋にいるからさ、いつでも来なよ」
私の手を引いた琴海姉さんはまるで自分の部屋のように、声もかけず遠慮なしに部屋に入ったけれど、ここは琴夜姉さんの部屋らしい。
部屋の主、琴夜姉さんが迷惑そうな様子をまるで見せないところは、言ったようにこの部屋に入り浸りなんだろう。
「今朝さ、振られた田舎者を投げ飛ばしたのがいるだろ。見たんだろ。あいつは春琴。新造のイマの姉さんが琴雪。琴雪さんは、部屋にこもってばっかりだし、張見世に出ることもないから中々顔も見られないけどね、この見世の板頭で唯一の座敷持ちだよ」
こざっぱりと清々しい口調で説明してくれた琴海さんは、どこか町人のようだ。顔が小さく表情が明るく、大見世にはいない雰囲気だけど悪い感じはまるでない。
「新造だってのに見世替えなんてねぇ。あの清搔、あんた大見世だったでしょ。何したの。まだ若いのに間夫でも作っちゃったぁ。それとも客の床に入ったとか。大見世って初見世の旦那のために初めては取っておかないと駄目なんでしょ」
町人のような琴海さんとは真逆で、琴夜さんはゆったりと女郎らしい口調。ただ真那鶴姉さんのような鷹揚な雰囲気ではなく、ねっとりとした独特の雰囲気がある。
「琴夜、そういうことは聞いちゃだめだぜ。事情ってもんがあるんだからさ」
「ふふ、事情ねぇ。羨ましい。あたしには何もないから、そういうの少し憧れる」
「あの、今朝の旦那様、振られたってどういうことですか」
イマさんが教えてくれたけど、よくわからなかった。部屋に上がったのに姉さんと床入りできなかったって。それに、屏風で区切ったあの広い部屋。
「やっぱり大見世から来たんだな。うちみたいな見世にはさ、廻し部屋ってのがあるんだよ。今朝片付けただろ、広い座敷」
「あれが廻し部屋ですか」
「そうそう。あそこに客を上げるんだよ、何人でも。客が来れば来るだけねぇ」
「何人でも?じゃあ、姉さん方は一晩に何度も床に入るんですか」
「それが、そうじゃないんだよ。廻し部屋に上げるだけあげて、あたしたちが廻って酒飲ませて、その気にさせてさ。それでいい時間になったら布団に入れるんだ」
その時、耳たぶに柔らかなものがゆっくりと触れた。見ると真横には琴夜姉さん。顔をさらに寄せ、じいっと見つめている。
「このまま見られるのは恥ずかしいからねぇ、準備してくるので少し待ってて下さいねぇ」
琴夜姉さんは少し目を伏せて物憂げに笑った。それは旦那様にだけ見せる女郎の顔だ。
「こんな風にしてな、琴夜がやってみせたみたいに色っぽく耳元で囁くんだよ」
「でもねぇ、床に入りたくない嫌な客はねぇ、そのまま一晩待たせておくの」
「だからあんな事言ってたんですね。今朝の旦那様は」
「そうそう、一晩寝ずに待ってたなんて馬鹿なこと言ってたな。一晩待とうが来るわけねえのにさ」
琴海姉さんはケラケラと笑った。
「じゃあ姉さん方は床には入らないんですか」
「そうじゃないよ、床には入るけど相手を選ぶんだよ。祝儀を弾むのは誰か、もう一度来てくれるのは誰か。次に来るのは翌年だなんて話しにならないよ。どうせならまたすぐ来てくれる方がいいだろ。あとは浮気しないか、とかかな」
「あたしはねぇ、そんなことより好きな男の床に入るよぉ。好きな男が二人来てれば二度、床に入ったっていいんだからね」
「一度振られても来る奴もいるから、そういう時は寝てやるよ。振られてもまた来る奴はいい金蔓になるからな。覚えておきな。客は上手く使わないと駄目だよ」
「男って一度でも寝ると夢を見るからねぇ、可愛いんだよね」
「それは琴夜の方だろ。好いてるなんて一度でも言われたら熱上げちゃってさ」
「いいでしょぉ。ここじゃそのくらいしか楽しみがないんだからねぇ」
「じゃあ、今朝、あの大男を投げ飛ばした春琴さんが言っていた、夢を見せるっていうのは」
「吉原は夢を見せるってのはその通りだけど。ただ、春琴さんは少し違うからな」
「違うっていうのは」
「あれだよ」
「あれ?あれっていうのは」
「事情があるのよ、春琴さんはねぇ」
「そう、吉原に来た事情がね。女郎によって違うだろ、同じ売られたにしても。真琴なんか見世替えまでしてるんだ、よほどの事情があるんだろ。でも、その事情が特に重いんだよ、あのひとは」
「事情ですか」
「家はお武家様なんだってぇ。一度は嫁いだけど捨てられて、あげく売られてねぇ」
お武家様の家に生まれたから大男を見事に投げ飛ばすなんて事が出来るのか。
「せめて、あと二つか三つ年若ならね、大見世にも入れただろうに。二十を過ぎてたせいで、こんなしみったれた小見世に引き取られてさ」
それでも今朝見た春琴姉さんの顔は堂々としたものだった。優美な真那鶴姉さんとまるで反対の精悍な表情だけど、女郎であることを誇るような顔つきは同じ。
「ああいうのを、塵塚に鶴って言うんだろうねぇ」
「その顔、興味があるみたいだけど、これ以上詮索しすぎるのはよくないよ。あたしらから見ても可愛そうな人なんだ。まあ、言ってるあたしは売られたわけじゃないんだけどな」
「じゃあ、琴海姉さんは吉原の生まれですか?」
廓の男衆に吉原生まれは珍しくないが、吉原生まれの女郎も少なくないと聞いたことがある。
「違う違う。あたしは奴女郎っていって、吉原に流刑にされたようなもんだよ」
「流刑?」
「吉原の外で体を売ってたんだけどよ、運悪くお上に捕まってな。御仕置で吉原に入れられてさ。それでも器量がいいっていうんで、ここが引き取ってくれたんだ。そうじゃなきゃ羅生門河岸で鉄砲女郎やってくたばって、今頃はお歯黒どぶに浮いてただろうね」
「自分で器量がいいなんて、よく言えるねぇ」
「だって、よく言われるよ。お前さんは器量がいい、上物だってな。それこそ塵塚に鶴って言われたこともある。だいたいそんな言葉、客に言われなきゃ知らねえよ」
「それは振られたくない客の世辞だよねぇ」
笑い合う二人の姉女郎の気持ちのいい顔を見て、この見世に来てから続いていた緊張がようやくほぐれるのを感じた。
「そろそろ夜見世の準備するかね」
「昨日みたいにねぇ、今日も三味で客を沢山呼んでおくれよ」