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男は私の体を軽々と担ぎ上げると肩に乗せ、器用に体をくねらせ窓から出ると、まるで獣のように飛び上がり、気がつけば屋根の上にいた。
足音を殺すためなのか、跳ねるような奇妙な走り方で廓の屋根をつたい、灯りの少ない方へと向かった。
大見世の集まる一角から離れたところで男は足を止めた。大見世なら屋根の上だろうが、格子の向こうから揚代もないのに冷やかす声で賑わいを知れるのだろうけれど、ここはひっそりとしたものだ。同じ吉原でも冷やかす男もいない一角があるのか。
まるで結び目を解くように、するすると体を動かし小さい窓から体をねじ入れた。
男の話が本当であれば、ここも遊郭なのだろう。ただ、中が少々薄暗い。
廊下に置かれた行灯の数が少なく、壁を彩る装飾も色褪せている。それに、まだ夜見世を閉める前だというのに活気がない。
おかげで客にも女郎にも見られることなく一階へ降り、神棚のなる小さい部屋へ通された。
女郎屋で神棚の置かれた部屋は、どの見世も楼主の部屋と決まっていると真那鶴姉さんに聞いたことがある。どうやら、この男は本当にこの寂れた見世の主らしい。
「なんだい、この女は。もしかして拐ってきたんじゃないだろうね」
女の声だった。
振り向くと姉さんとそれほど年の変わらない女が立っている。女郎の着物ではなく鹿の子絞り絣を着ているが、肌は白く器量もいい。
見世が始まる前の女郎のようにも見えるけれど、ギラギラとした目つきは女郎のそれじゃない。
「お菊さんだよ。ご覧の通り、この見世の遣り手さ」
見世の一切を取り仕切る遣り手は厳しい人しかいないと聞いたけれど、この人も例外ではないようだ。
「あたしの事はどうだっていいんだよ、この子はなんなんだって聞いてるんだ。しかも、見たところ普通の娘じゃないようだし。やっぱり拐ってきたんだろ」
確かに普通ではないのだろう。まだ新造だけど、吉原の外から来た身なりではない。普通の江戸の女なら、この遣り手のように地味な絣を着るのだろう。
「拐うだなんて、そんな事するわけがないだろ。廓の主をなんだと思っているんだよ」
「どうかね」
「いやね、女郎になりたいって言うんだ。大見世で新造をやっていたんだけど」
「じゃああんた、他の見世から拐ってきたのかい」
男は言葉が足りないと気が付き、さっきまでの出来事をそのまま遣り手に説明した。女は鼻を鳴らした。それがいつもの返事らしい。
「そういうことかい。それで、ただの人間には思えないのかい。見た目は確かに人間だし、化けているわけじゃなく本当の姿みたいなのに妙だと思ったら」
どういうわけか、女の表情は男の説明をすんなりと受け入れた様に見える。人魚の肉を食べて心中したなんて馬鹿げた話を。
「やっぱりお菊さんはわかるんだね」
「わかる?じゃあ、この遣り手も人魚か何かのあやかし?」
「あたしは人間だよ、キツネと一緒にしないでおくれ」
「はは、お菊さんはね人間だけどあやかしが見えるんだよ。あやかしってのは人の姿に化けることもあるけど、お菊さんにはそれが通じない。あやかしの本当の姿が見えるのさ。でも、お菊さんにはわかるってことは、やっぱり君は不老不死になったようだね」
「じゃあキツネって……」
男は大きく笑ってから答えた。
「狐は僕だよ。こんな大切な事も話してなかったね、ごめんよ。吉原には稲荷が五つもあるだろ、その一つは僕の社だ」
「じゃあ、姉さんがお参りしていたあの稲荷は」
「何度もそう言ったじゃないか、君の姉女郎が願ったことだって。人魚ってのは昔から狐と縁があってね。それで時々、心中したい女郎に分けてあげているんだよ。人魚の肉を。生かして吉原から出してあげることは難しいけど、死んで吉原から開放させてあげることは出来るからね」
姉さんがあれほど安らかな優しい顔をしていたのは稲荷の前だけだった。毎日毎日、稲荷の前で手を合わせていたのは今日の日を願ってのことだなんて。
「なるほど、その顔は心中ってのが信じられないってことかい。若い新造にはわかりゃしないだろうね。しかも大見世の女郎なんだろ」
そう言った、お菊さんという遣り手の目は冷たいものだった。
どこの見世でも、見世のやりくりを任されている遣り手は前借金を残して心中する女郎に対して、そうじゃなくても女郎には厳しいものだけれど、冷たいとは少し違う。
どの見世も遣り手は元は女郎だから同情はする。冷たくはない。女郎の心情を誰よりも知っているから。けれども、この遣り手にはそれを感じなかった。
「あやかしに言われたくありません」
思わず口に出したその言葉を聞くと、遣り手だという女はそれまでの勢いが削がれた。寂しそうに、ぼそっと、独り言のように。
「あたしはあやかしじゃない」
「まあまあ、僕はあやかしだけどお菊さんは違うんだ。あやかしの下で仕事をしてくれているけど、そうじゃないんだ。君はまだ新造だから知らないけど、吉原の男も女も色々な事情ってものがあるからね」
「勝手につれてきたんだろ、追っ手は大丈夫なのかい」
そうだ。今頃、倒れた姉さんを見世の男衆が見つけただろう。そうなれば、一人だけ座敷からいなくなった私を探しまわるはずだ。
手引をする旦那様がいなければ大門からはまず出られない。新造には無理だ。吉原の中を探すはず。
「僕が顔を化かすから大丈夫だよ。心配はいならい、少なくとも吉原の中にいる間はね」
「顔を化かすって、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。うちに入った新造が、大見世から逃げた新造と同じ顔じゃまずいだろ。僕が酷い目にあってしまうよ。だけど僕は狐だからね、化かすのは得意中の得意だ。人間が見ても別の顔に見えてしまう。もっともお菊さんには通じないけどね」
化かすなんてとても信じられないけれど、あれだけ心配していた遣り手が何も口を挟まないことを見ると、本当のことに思えてくる。
あやかしの世界がすぐ間近にあるなんて。薄暗い山の中じゃなく夜でも明るい吉原にいるなんて。
「どうするんだい、まだ新造なんだろ。ただ飯喰わせる余裕なんてないよ、この見世は。あんたも見世の中を見たからわかるだろ」
「もうすぐ初見世だったんだ、それに女郎になりたいっていうんだから、もちろん客を取らせるよ」
「それならいいけど。じゃあ今日から見世に出すのかい。見たところ顔はいいし、大見世の新造だけあって躾も出来てそうだ。こちらはありがたいけどね」
「お菊さん、それは流石に可愛そうだ。この見世に慣れてからだ。初見世は少し先になるけど、名前だけは先に変えておこうか。いくら顔は化かせると言っても、三人死んだ座敷から消えた新造と同じ名前ってわけにはいかないからね」
「うちは踊る狐と書いて狐踊屋ことやっていうんだよ。だから、うちの女郎の名前には琴をつけている」
狐踊屋の主の狐を差し置いて、まるで自分が主かのように遣り手が言った。
遣り手は時に主を尻の下に敷く廓の中心だけど、このお菊さんはその自覚があるのだろう。
「お菊さんも前は琴菊だったんだ。そうだね、真琴にしよう。君の姉女郎が心中したのか、真を知るまで女郎をやるって言うんだ。ちょうどいいだろ」
真琴。真那鶴姉さんから一文字頂いたようで、すぐに気に入った。
「ありがとうございます」
「よし、真琴。早速だけど見世の前で三味を弾いておくれ。出来るんだろ」
「真琴、今日は客が少ないんだ。景気よく賑やかにやってくんな」
「はい!」