2
その場に倒れた三人の顔は既に青白くなっている。
姉さんと旦那様は折り重なるように、まるで抱き合うように倒れている。幼い禿のサヨは眠りに落ちたように丸くなっている。
三人が三人、安らかな顔をしている。私だけを残して。
座敷が静かすぎることに気がついた。聞こえるのは油皿の上で燃える灯りのジリジリとした音、あとは私の吐く吐息だけだ。
姉さんの座敷が静かなことなど一度もなかった。三味や鼓、気分をよくして長唄を披露する旦那様もいる。姉さんの優しい声すら聞こえない。
「あれ?」
背後から聞こえたそれはとぼけた声だった。
障子戸を開ける音は確かに全くなかった。まだ新造だけれど、旦那様を直接見ることはせず座敷の様子を知るために常に耳を傾けている。
それにこの静かさだ。座敷の障子戸を開ければ気が付かないわけがない。
それなのに、この男はいつの間にか座敷に入り込んでいる。まるで幽霊のように音もなく座敷にいた。
切れ長の目をした痩せた男は、一見すると商人のように見える。羽織を着ていないのは客じゃないからか。いや、それとも他の座敷で脱いだのか。
ただ目には女郎買い(じょうろかい)の興奮がない。この男は吉原の夢の中にいない。
「君は食べなかったのかい」
青白い顔の三人を前にして、私は涙も流れなかった。それどころか、この男の問に冷静に答えることが出来た。
「食べなかった?」
「ほら、その皿だよ。あっただろ魚の料理が。君は食べなかったのかい」
視線の先の皿は姉さんが持ってきたものだ。魚のすり身と卵を合わせて焼いた、柔らかな姉さんが作ってくれたもの。
「食べましたが。それよりも、あなたは誰ですか。姉さんの座敷に勝手にあがりこんで」
「食べたのか。そうか食べたのに死ななかったんだ。昔、聞いたことはあったけれど、人魚の肉を食べても死なない人間が本当にいるんだね」
「人魚?死ぬ?」
「そうだよ、君が食べたあれは人魚の肉だ。普通、あやかしの肉を食べれば人間なんて死ぬものなんだけどね。ほら、そこの三人は死んじまっただろ。君もそうなるはずなんだけどね」
「じゃあ、お前が姉さんを殺したのか」
「殺しただなんて人聞きの悪い。でも人魚の肉を分けたのは僕だから、否定はできないけどね」
「なんで姉さんを殺した」
「それを願ったのは彼女自身だよ。死にたいと願ったのは。僕はその願いを叶えるために人魚の肉を渡しただけさ」
「姉さんがそんなこと願うはずがない。今日だって、ついさっきまで幸せそうな顔をしていたのに」
「そうだね。今だって幸せそうな顔をしているよ」
その言葉を聞き、改めて倒れ込んだ姉さんの顔を見てみたけれど、やはり安心して眠るように安らかな顔をしている。これが自ら死を望んだ顔のはずがない。
姉さんが死を望むなんて。誰よりも姉さんの側にいたのだ、この男の言葉を信じるわけがない。
「死にたいなんて願うはずがない。吉原で傾城と呼ばれた姉さんが、どうして死にたいなんて願うんだ。身請けが決まっていたのに。姉さんは幸せなのに」
「幸せ?本当にそう思うかい、この吉原に幸せがあるなんて」
「吉原から出られないけど、姉さんが望めば何だって手に入った。野田の旦那様も、駿府の旦那様も姉さんが欲しいものは何でも与えて下さった。お大尽もお大名も。わざわざ京から来てくれる旦那様だっている。それに身請けされて吉原から出ることも叶うんだ」
「まだ気が付かないのかい。その身請けが嫌だったんだよ、彼女は。だから心中したんだ」
「心中?」
「そうさ、これは心中だよ。女郎が男と死んだんだ。心中に決まってるだろ」
「姉さんに間夫なんていない。今日の旦那様だって初会なのに。それなのに心中のはずが」
「この人とは同じ郷里だったみたいだね。彼女は売られて吉原に来て、男の方も奉公に出されて江戸へ出てきたそうだよ。どうして再会したのかまでは知らないけれど、好きでもない男に身請けされるくらいなら、見知った男と心中を選ぶなんて吉原じゃ珍しくないことさね。吉原で育ったのならそんな話、毎月のように聞いただろう」
男の言う通り、吉原の女郎に心中は珍しくない。そのくらいは新造の私だって知っている。でも、心中んさんて安い女郎がするもの。傾城と呼ばれるほどの姉さんだ、望めばなんだって手に入った。絹も金襴手もべっ甲も。
身請け先は屋敷を作っていると遣り手だって話していた。
心中する理由なんて何一つない。
それに……。
「でも、サヨまで巻き込むことないじゃないか。姉さんはそんなことする人じゃない」
優しい姉さんが、まだ小さい禿のサヨを巻き込むなんて考えられない。だから、これは心中なんかじゃない。
「悲観していたんだよ。君の将来も禿のその子の将来も。彼女は吉原で辛い思いばかりだっただろうからね。それなら、いっそ一緒に死んだ方がいいだろうってね」
「吉原のこと、外では何て言われているか知らないわけじゃないだろ。年季が明けるまでは『苦界十年』だ。苦界、つまり地獄だよ。ここは。新造の君はここが地獄だと思うことはなかったのかもしれないけれど、地獄を彼女が受け止めていたからさ。姉女郎に守られていたんだ。彼女が死ねば今度は君が禿を守るため地獄に落とされる。その次は禿のその子が地獄に落ちる」
「そんなことより、君をどうしたもんかね」
「そんなことってなんだ。姉さんが死んだのに、そんなことって」
「人魚の肉を食べたんだ。既に死んだんだ。この三人は今さら助かるわけじゃない。そんなことより、人魚の肉を食べて死ななかった人間は不老不死になると聞いたことはあるけど、本当に死なない人間がいるなんて驚いたよ」
男は一度視線をそらすと、大きくため息をついた。
「終わったことよりも、君自身の心配をした方がいい。三人の死体が転がっているんだ、見世の者が見れば君が殺したって思うだろう。普通なら、布団部屋の柱に縛り付けて死ぬまで棒で叩かれるわけだけど、あいにく君は不老不死だ。いくら殴っても死ねない」
「だからなんだってんだ」
「僕が困るんだよ。死なない人間、化け物が現れたってきっと騒ぎになるだろうよ。しかも三人も殺した化け物だ」
「殺したのはお前だ」
「見世の者はそうは考えない。心中を疑うかもしれないけれどね、君が死なずの化け物だとわかれば、心中じゃなく君が殺したと考えるよ。そういうものだ。だから君、吉原から逃してやろう。三人も殺して、その上抜けようってんだから追っ手も多いだろうけど、なんとか逃がしてあげるよ。一年か二年、いや三年も身を潜めていれば追っ手も諦める。心配しなくていい」
「必要ない」
私の即答に男は怯んだのか、驚いたのか、表情にこそ出さないが思案は必要だったらしい。少し間を開けてから言った。
「必要ないって。そう言われてもね、僕が困るんだよ。不老不死の女の子に、こんなところにいられたら」
「私は女郎になりたいんだ、吉原で女郎に。真那鶴姉さんのような女郎に。それに……」
「それに?」
「姉さんが本当に心中を望んだのか、知りたい」
本当に姉さんが心中を望んだのなら、どうして姉さんが心中を選んだのか知らなくちゃだめだ。
「なるほどね。女郎になってみなくちゃ納得も出来ないってことかい。わかった、いいだろう。君を女郎にしてやる。そんなになりたきゃ、女郎にさせてやるよ」
「でも、どうやって。私はもう、この見世にはいられない」
切れ長の目は感情を読み取りにくいが男はにやりと笑った気がした。
「ああ、話してなかったね。私も亡八、小さいが吉原で見世の主をしている。苦界十年の意味を知らせてやろう」