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「印香をいただきました。これを焚くといつでもすぐに来てくださるそうです」

 小伝馬町の塗物屋の番頭、死んだ魚のような丸い目の男を調べてこられた新之助様が見世に来られたので、先日の安見彦やすみひこ様の件をお話した。

「ああぁ、神様は気楽なもんだね」

「気楽でございますか」

「僕だってさ、そんな芸が出来るならしたいよ」

「それは嫉妬でございますか?印香で急いで現れなくとも、もっと会いに来て下さればいいではありませんか」

「それでね、考えてみたんだ。僕がどうしたらいいのか。僕の出来ることを」

「夏のかんざし、秋の簪、もちろん冬の簪も楽しみにしております」

「浮気を許して欲しい」

 たった一言に、言葉が出なかった。

 遊び人と呼ばれた新之助様ではあるけれど、私に浮気はしないと誓ってくださったのに。

 簪をねだりすぎたから?たったそれだけのことで。

「浮気を許して欲しいんだ。一度だけの浮気だ」

「遊び人の血が騒ぐのかもしれませんが、二度言っても私の返事は変わりません」

 新之助様の顔つきは、遊び人の頃のものではなく、私の初見世の時のように精悍な表情だ。

 だからこそ余計に嫌だった。そんな顔で浮気をするなんて言われたくなかった。せめて冗談だとわかるような顔で言って欲しかった。

「……私に飽きてしまわれたのですか」

「そうじゃないんだよ。琴夜を救うためには、僕の浮気が必要なんだ」

「琴夜姉さんを救う?浮気が、新之助様の浮気が琴夜姉さんを救うだなんて」

「まあ、救うのは僕じゃなくて真琴と安見彦様だ。僕がするのは、そのお膳立てかな」


「琴夜には先客がございます。姉さんには話しを通しておりますので、今夜は私、真琴の部屋へお上がりください」

 男が吉原に向かうのを確かめると新之助様は早籠で先回りをして、琴夜姉さんの部屋に上がる。そして、遅れて見世へやってきた男を私の部屋へ通し、私は印香を使って安見彦様を呼ぶ。

 これが新之助が立ててくだすった策略だった。

 琴夜じゃなきゃダメだとか、浮気はしないだとか言って男が帰ってしまえば失敗だ。ただ新之助が一夜の浮気を楽しむだけで終わってしまう。

 幸いなことに、男はそういったことは何一つ言わず、ただ「そうかい」と一言だけで立ち上がると引付座敷を後にした。

 男を部屋へ通すと、安見彦やすみひこ様に頂いた印香を一つ、煙草盆の炭で焚いた。

 印香からすぐに白い煙が上がる。

 伽羅とも白檀とも違う、不思議な香りは弱いけれど部屋に広がった。

 男は香を邪魔しないように気を使ったのだろうか、煙草は吸わず酒を求めた。

「小伝馬町にある塗物屋の番頭をされているそうですね」

 張り見世のまがき越しに見た時は、他の男とは違う様子だったけれど、こうして部屋に通し酒を注ぐと、その時の不気味さは感じられない。

 むしろ上機嫌で喋りだした。

「吉原も品川も女郎というのは、よく知っているものだね」

「吉原で塗り笠は目立ちますゆえ、琴夜姉さんに教えていただきました。それで小伝馬町とはどのような土地なのでしょう」

 安見彦様が来てくれるまで時間が必要だろうと考え、適当な話題を求めた。

「お前さんは小さい頃から吉原なのかい」

「はい。生まれは違いますが、十の頃から吉原で、江戸のことは何も知りません。吉原の外へは出られませんゆえ、こうして江戸の街はどのようなところか聞かせていただくのが楽しみなのです」

「そうかい。小伝馬町ってのはね何かと牢屋敷が有名だね」

 男はにっこりと笑い盃の酒を飲み干した。酒を注ぐとまたすぐに口をつける。まるで男には牢屋敷が酒の肴になるかのようだ。

「牢屋敷でございますか」

「咎人を詰め込んでおく牢だよ。沢山の牢があるのだけど、まあ酷い場所でね」

「まぁ怖い。でも酷いというのは」

「同じ咎人でも牢には牢名手ろうなぬしってのがいてね、それに袖の下がないと殴られるし蹴られるしだ。あれは大変だったよ」

「大変だったとは、それじゃあまるで牢屋敷にいらしたみたいです」

「実はね、一度入ったことがあるんだよ。牢屋敷にいたのは短かったけれど、おかげで興味深いことを沢山知ることができたよ」

「そうでございましたか。興味深いというのは、どのようなことでございましょう」

「それはね、死だよ」

 男はニヤリと口を緩めた。

「死、でございますか」

 死が興味深いだなんて、この男、やっぱり死魔に違いない。

 それなのに、印香を焚いたのに安見彦様はまだ現れない。てっきり、香の煙の中から現れるものとばかり思っていたのに。

「牢屋敷は沢山の桶が必要なんだろう。荷車に載せられた桶が牢屋敷に入っていったと思うと、桶を載せた荷車がまた出ていく。行きと違い帰りは随分重そうになる」

 処刑した罪人を桶に入れて埋葬するということだろう。

 そんなことに関心を持つなんて、しかも吉原で女郎の部屋に上がってこんな話をするとは、死魔というのは本当に恐ろしい。

「牢屋敷の近くにいるものだからね、こんなふうにいつも気になっていたんだ。するとね、中も気になってくる。咎人が死ぬ様子はどのようなものか、何を考えて死ぬのかとかね。斬首が見たくて見たくて仕方がない。仕事も手につかないくらいだ」


「それで今は女郎が死ぬように仕向けておられるのですね」

 その言葉に、まるで覚悟を決めたかのようにぐっと盃を飲み干した。

 空いた盃に酒を注ぐと、今度はゆっくりと口をつける。

「やっぱり女郎ってのはよく知っているものだね。今日はね、琴夜に渡そうと思って持ってきたんだよ」

 そう言って懐から包を取り出した。

「琴夜は肌が白いだろ、だから血がよく似合うと思ってね」

 包の中は鈍く光る匕首あいくちだ。

「じゃあ、やっぱり琴夜姉さんを心中させようとして」

 まだ安見彦様は現れない。

 お侍でも見世に刀を預ける吉原で刃物を隠し持って登楼したのだ、安見彦様じゃなくても男衆を呼んでしまおう。

 男衆だけじゃない、琴夜姉さんの部屋には新之助様もいる。

「琴夜はもういい。どうだ、これはお前さんにあげよう。これで首筋を切ってみるといい。肌の白さは琴夜だけど、お前さんの柔らかな細い首にもその刃はよく似合うはずだ」

 どうしてだろう、男に差し出された匕首に手を伸ばし受け取ってしまった。

「牢屋敷のことばかり考えていたせいだろうね、死ぬところを見せて欲しいと願うとね、不思議と死んでくれるようになったんだよ」

 じゃあ、あの噂は本当。

「最初は品川の春山という女郎だった。よく覚えているよ。下膨れの愛嬌のある笑った顔が見たくて随分通ったものだ。ふとね、思ったんだよ。こんな女郎が死ぬ時はどんな顔をするんだろうと。愛嬌のある顔だ、咎人とは違うはずだと思いついたら気になって仕方がない」

「不思議な力に気がついたのは、それがきっかけだ。ただね、すぐには死んでくれない。目の前で死ぬわけじゃないんだ。春山が首をくくったのは翌日だった」

「次は山吹だったな。それも登楼した翌日に心中した。だからね、不思議な力に気がつくのには少々時間がかかったよ」

「今ではね、私が願うと目の前で死んでくれるようになったんだよ。今日はね、お前さん見せておくれよ。その刃で死ぬところを」

 その言葉に従うかのように、刃を持った手はひとりでに動き出す。その手を止めたいというのに勝手に動く。助けを呼びたいというのに声が出ない。

 切る場所を確かめるかのように首筋に優しく刃を当てる。

 死んだ魚のような目をしていたのに、男の丸い目は爛々と輝いている。

「よし、やれ」

 まるで私はその言葉を待っていたかのように、手に力がこもり刃は首へ入っていく。

 首筋に血が流れていくのを感じる。

「期待したより、いい顔はしないものだね。やはり琴夜の方がよかったかな」

 刃はさらに深く首へと入っていく。痛いというよりも熱い。まるで火のように熱い。

 血は匕首を伝い、手が赤く染まる。

 でも、何かおかしい。

 手を染めた血からぶくぶくと泡が出てくる。その泡は白い煙となり、血は煙となって消えていく。

 首筋を流れ着物を染めた血も煙となって消えていく。

「どういうことだ!もしやお前、あやかしか!?化かしたのか」

 さっきまで爛々と輝いていた丸い目は、元の死んだ魚のものに戻っている。

 男は腰が抜けたのか、両手をついてガタガタと大きく震えている。

「死魔に取り憑かれた男が真琴をあやかし呼ばわりか」

 その声は背後から聞こえた。安見彦様だ。

「遅くなってすまなかった」

 どうやって部屋に入ってきたのか、やはり印香の煙の中から現れたのだろうか。いや、今はそんなことはいい。安見彦様がようやく助けに来てくれたのだ。

 匕首を持った手を安見彦様に握られると、体の自由が戻る。首から刃を離すことができた。

 刃についていた血はみるみる煙になり消えてなくなる。首から出ていた煙も止まったかと思えば、手を当ててみると傷口すらもなくなっていた。

 これが人魚の力。不老不死の力。

 狐の楼主からも人魚を食べ不老不死になったとは聞かされていいたが、こうして目の当たりにすると恐ろしい力を得たのだと、今になってようやく気がついた。

 現に、腰を抜かした男の驚きようは尋常じゃない。

「安見彦様、死魔に取り憑かれたとは。死魔そのものではないのですか」

「まあ見ておけ」

 そう言うと煙草盆から印香の灰をつまみ、男にそれをフッと吹きかけた。するとガタガタと震えていた男の震えが止まり、口をぽっかりと開けた。

 安見彦様は開いた口に親指と人差し指の二本を入れ、まるで何かを引きずり出すような動きをする。

「真琴には見えぬかもしれぬが、これが死魔だ」

 安見彦様がつまんでいるものは確かに見えない。ただ、男の黒い目がさっきまでより少し小さくなったように思えた。

 籬越しに初めて見た時の死んだ魚のような不気味さが今は感じられない。

 私には見えないとわかったからか、安見彦様は摘んでいるという死魔を放り投げた。

「離してもよろしいのですか!?」

「もとより死魔などどこにでもいるもの。ただ人に憑くのが珍しいというだけだ」

「この方は死魔ではなく取り憑かれていたということでしょうか」

「そうだな。いまはもうただの人だ」

「じゃあ、死を願っても女郎が心中することはもうないのですね」

「この男の望むようにはいかないということだ。もっとも、この男が女郎に心中を持ちかけてそれに乗る者がいないとは言えぬがな」


「さて、この男どうするかな」

「どうするというのは」

「真琴の秘密を知ってしまったのだ。前にも話しただろう。このようなことが広く知られては、我を信じる民が救われぬ」

「じゃあ」

「やはり殺すほかあるまいか」

 神というのは冷酷なのだろうか。

 いや、そうじゃない。安見彦様は信じる者のことを思ってのこと。そのためなら一人殺すことも辞さない。それは神として慕われるゆえの責任だ。

「待ってください」

 それでも殺す以外の方法はないのか探したかった。

「お主が化け物だと言いふらすぞ、この男は」

「でも、琴夜姉さんはこの方を慕っているようでした」

 夏バテだと言った琴夜姉さんはやつれているようにしか見えなかったけれど、この男を慕っているのは間違いない。朝の上気した顔を見ればそれは明らかだ。

「だから殺すなと申すのか」

 安見彦様はその程度のこととおっしゃいたいのだろう。確かにそうだ。安見彦様の背負うものと比べれば、女郎の思いなどくだらないことだろう。

「他に方法はないのでしょうか。たとえば、この方が私の血を見たことを忘れるというようなこと、安見彦様のお力があれば叶うのではないのでしょうか」

「当然、そのようなこと造作もない」

「それでは」

「ただ、どこまで忘れるのかはやってみないとわからぬ」

「今日1日のことを全て忘れるかもしれない、ということでしょうか」

「もっとだ。一月なのか一年なのか十年なのかはわからぬ」

 それじゃあ、一年もの記憶がなくなれば琴夜姉さんのことも忘れることになる。でも、生きていれば。それに、決まったわけじゃない。なくなる記憶は数日で済むかもしれない。

「それでも構わないのであればやってみせよう。ここへ死体を残すわけにもいかぬしな、殺すよりも容易い」

 安見彦様は私の返事を待つことなく、腰を抜かした男の前にしゃがむと右手で頭を鷲掴みにした。

 すると男は眠りに落ちたのか、バタリと横に倒れた。

「陰陽師、そこにいるのだろう。構わぬ、入れ」

 すっと障子戸が開いた。

「新之助様!?琴夜姉さんは」

「寝てもらったからね、心配はいらないよ。この部屋で起きたことは何も知らない。大丈夫だ」

「陰陽師、大門おおもんが閉まらぬうちに、この男を吉原の外へ連れ出せ。日本堤に投げておけば朝には目を覚ますだろう」

「ここに置いとくわけにもいきませんしね。それで、安見彦様はどうなさるので」

「吉原へ来たのだ。どうするもない」

「僕だって吉原に来たんですけどね」

 軽口の新之助様を一瞥すると、安見彦様は私のもとに寄り、肩に手をまわした。

「安心しろ。あれだけ血を流したのだ、真琴に無理はさせぬ。わかったのなら、行け」

 新之助様は男の腕を取ると肩に担ぎ、だいぶ重いのだろう、ゆっくりと部屋を出ていった。

「お主は寝ていればよい。一人で飲む」

「お心遣い、ありがとうございます。それに、私と新之助様だけではどうすることも出来ませんでした。重ね重ねありがとうございます」

「そうであろうか」

「どういうことですか?」

「この顛末、男が死魔に憑かれていただけだ。我を頼らずとも陰陽師にもやりようがあっただろう。記憶を消すことは無理でも、いかようにでもできたはず」

「そうなのですか!?新之助様はむずかしいと話しておりましたが」

「死魔そのものであればな。死魔に見出されれば、死は避けられぬ。陰陽師も我も手は出せない」

 確かに、新之助様も最初にそうおっしゃった。死魔は珍しいものではないとも。

「けれども、違った。死魔に憑かれた男がいたずら心に女郎を死へ導いていただけ。これこそ陰陽師の領分であろう」

「そうなのですね。でも、どうして新之助様は」

「あの男は我を試したのだろう。我を神と知りながら」

 新之助様が試した?安見彦様を試すとはどういうことだろう。まさか、安見彦様をあやかしだと考えているのだろうか。

「まあよい。お主はそのまま寝るがいい」

 安見彦様が私の頭に手を乗せると、体が軽くなり浮くような感覚を覚え、そのまま意識を失ってしまった。

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