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 引付座敷で待っていたのは、私の首筋に唇をつけ魂を吸い出そうとした旦那様だった。

 命を奪おうとしたけれど、この方は神だと楼主が教えてくれた。稲荷に囲まれたここ吉原は神もあやかしも現れることも。

 旦那様が見世へ入るところは見ていない。きっと夜見世の始まりを知らせる拍子木が打たれる前、私が張見世に並ぶ前から来られていたのだろう。

 それとも、神であられるなら見世の表から入らずとも、引付座敷に現れることもできるのだろうか。

 いつからここにいたのかなんて詮のないことだけれども、昨日とはどこか雰囲気が違うことはよくわかる。

 学者のような医者のような凛とした容貌に変わりはないが、仰々しさがないというのか、あるいは肩の力が抜けているというのか。

「廻しではなくお主の部屋へ通してもらいたい」

 やはり、その言葉には昨日感じた威厳のようなものは弱くなっている。ますます神というのが信じられない。

「どうぞこちらへ」

「いいのか?」

「もちろんでございます。お会いに来られたのですから」

 部屋へお通しして、まずは酌をする。

 酒を飲むだけで長く黙ったままの昨日とは違い、盃に口をつけるとすぐに話し始めた。

「我は安見彦やすみひこと呼ばれている。人の呼ぶところの神の一柱。ここの楼主もそのようなものの一つ。神と呼ばれるものにも色々なものがいる。我はお主のようなものを常世とこよへと送る者」

「では、今日こそは私の命を……」

「落ちついたお主のその顔、聞いておるようだな。人魚を食べたのは偶然であることは狐からよく聞かされた。うるさいほどな。何度も繰り返し話を聞かされれば、なるほど、お主が人魚を食べたことに同情できよう」

「それでは見逃していただけるということでございましょうか」

「そうもいかぬ。お主のようなものが現し世にいれば、我を信じる民は恐れるだろう。民が恐れれば信仰が揺らぐ、信仰が揺らげば民は不安をつのらせ、さらに恐れる。すなわち、お主のような者を現し世から排除することは、民を救うことなのだ」

「私は吉原からは出られません。私に会いに来られる旦那様にしか会うことができません。安見彦様を神と慕う民の不安を煽るようなこと、私にできるはずもありません」

「それも狐から聞いておる。吉原から逃してやると言ったのに、吉原に残ると言ったそうだな。それは本当なのか?」

「今もその気持に変わりはございません」

「どうしてだ?吉原はお主ら女郎に吉原は苦界も同然。大門の外へ出たいと思わないのか?好きな男にだけ抱かれたいと思わないのか?なぜ苦界で生きることを選ぶ」

「私は傾城と呼ばれながらも心中を選んだ姉女郎、真那鶴姉さんがどんな気持ちで心中したのかを知りたいのです。真那鶴姉さんの気持ちを心の底から理解するまでは女郎を辞めるわけにはいきません。私も禿かむろも巻き込んで心中した姉女郎を憎みたくはないのです。心中しなくてはならない姉女郎の心持ちを知らなければ、優しかった姉女郎を恨むことになってしまいます」

「男にとってここ吉原は極楽そのもの。しかし女にとって吉原は地獄と同じ。いや、地獄より酷いかもしれん。こんなにも理不尽な場所は他にない。死なば終わるというのに、お主はいつまでも地獄で生きるというのか」

「地獄だといえば簡単でございます。吉原は地獄だから真那鶴は心中したのだと。しかしながら、姉女郎は傾城と呼ばれるほどの女郎でございました。昼夜兼行、美酒に山海の珍味、蓬莱の櫛に錦をまとう姉女郎が地獄にいたとは信じられませぬ」

「だからお主は傾城になろうというのか」

「その通りにございます。真那鶴の、傾城にしか見えない地獄とやらを知りたいのでございます。心中せざるを得ない地獄を」

 私の目から視線を外さぬまま、盃を一息で飲み干した。

「それに、真那鶴姉さんを恨むのは地獄以上の苦しみでございます」

「なるほど面白い。ならば、真琴。お主の地獄を我に伝えよ。お主が知りたい地獄にたどり着くまで見逃すことにしよう」

「それまでは生きてもよいということでございますか」

「そう言っているだろう。お主の魂にはそれまで猶予を与える。傾城になってみよ。傾城の地獄をその身で感じるがいい」

「安見彦様の御慈悲、ありがとうございます。しかしながら、傾城とは一人でなるものにはございませぬ」

「どういうことだ」

「傾城とは、金には替えられぬ泡沫うたかたの夢を与える女郎にございます」

「つまり、我に見世へ通えと申すのか」

かんざしもまだ二本しかございません。これでは傾城にはほど遠い。櫛も着物も布団も必要にございます」

「我が何者かを知りながら、それでもなお面白いことを言う。お主なら傾城に成れるやもしれんな」

「傾城になれるのか、それは安見彦様のお引き立て次第にございます」


「急いでお帰りになるワケでもございますか」

 朝、先に目を覚ましたのは安見彦様の方だった。明けの烏が鳴いている。障子戸を開けなくても、朝日が入り込み部屋は薄明るくなっていた。

 送り出す女郎は先に起きて準備をしておくものだと、お菊さんには教えられている。しかし旦那様の胸に顔を預けたまま寝てしまうと朝日が目に入らないものだから、目も覚めない。

「それに、今は帰り支度の旦那様で外は忙しくしております。もう少し、このままでいいではございませぬか」

 こんな風に言って、優しく首元に手を当てれば旦那様も喜んで寝坊を許してくれる、これは琴海姉さんから教わった。

 安見彦様はじっとりと時間をかけ首筋から唇まで指先を這わせ、そして唇を吸った。

 どうやら教えてもらった手管は上手くいったようだ。荒れた息遣いを肌で感じていると思うと嬉しくなる。

「最初に首筋を吸われた時は、死魔ではないかと思ってしまいましたよ」

「なに?死魔だと」

 安見彦様のような立派な出で立ちを死魔だなんて思ったことはない。愚弄と思われることだろう。でも、これは一つの賭けだ。

 小伝馬町の番頭が死魔なのかを知るために賭けてみよう、昨日の晩は床の中でずっと考えていた。

 布団の中の様子から、挑発に乗ってくる確信はあった。

「魂が抜かれることなど、これまでにはございませぬから」

「我を死魔のようなものと申すのか」

「お気を悪くさせ申し訳ございません。しかしながら、まさか私のようなもの、安見彦様のような立派な神の目に止まるなど思いもよらぬこと。それに……」

「それに、なんだ」

「近頃、吉原に死魔が現れると噂にございます」

「どういうことだ」

「心中させる旦那様がおられると、死魔だと噂になっているのでございます」

「そんなもの噂に過ぎぬ。死魔のような、魂を引きずるだけの下等。女郎に心中させるなど、あるものか」

 新之助様も同じ考えのようだ。やっぱり、小伝馬町の番頭は死魔じゃないということなのだろうか。

「しかし、噂の死魔と呼ばれる旦那様が姉女郎に入れ込んでいるようで、心中してしまわないか心配なのです。近頃はなんだか痩せてまいりましたし。それに、その旦那様が入れ込んだ女郎はこれまでに何人も心中したのは間違いないとかで」

「……それは妙な話に思えるな」

「安見彦様に確かめてもらうことは出来ないでしょうか。死魔なのかどうかを」

「そうだな。真琴がそれほど言うのであれば、確かめよう」

「ありがとうございます!安見彦様のお力があれば安心できます」

「勘違いするなよ。我はそのような狡猾な死魔が本当にいるのか、そこに興味があるだけだ」

 神と呼ばれ祀られるのに、顔を赤らめ照れを隠そうとする姿は人とまるで変わらなりと思うと愛おしくなる。

 安見彦様は上半身を起こすと、布団の脇に投げた脱いだままの着物をまさぐり巾着を取り出した。

「その死魔のような男とやらが登楼した時は、この香を炊くのだ。香を頼りに我は現れるであろう」

 印香だろうか、薄い紙で包まれたものを渡してくださった。

「このようなこと安見彦様の他に頼りにすることもできず、お心遣い本当に安心いたしました」

「だから言っただろう。我の関心は妙な死魔のみだ」

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