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張見世に並んでも名前も顔も知られていないせいか、それとも籬の近くに座れないせいか、声がかかることは少ない。
声のかかった姉さん方には置いていかれ、しまいには張見世に一人になる日ばかり。
一時(2時間)も声がかからなければ張見世にいても意味がないからと、廻し部屋に上がった客の相手を務めることになる。廻し部屋といっても、誰もが姉さん方が目当てだ。
姉さん方を指名するのは三人も四人もいるけれど、その晩にモテるのは一人だけ。
振られることなど考えず、期待に胸を膨らませる廻し部屋の客に酌をして酔わせるのが私の仕事となる。
多くが振られる廻し部屋で酌をして回っていると姉さん方は期待をさせるのが、旦那様を化かすのが上手いことがよくわかる。
「琴海は優しいから馴染みの俺よりも久しぶりに来た方を相手にしたんだろう。俺はまた来るからいいんだよ」
「琴夜は情が深いから心中するなんて言い出す男を心配して話を聞いてやっているんだろう。俺はまた来るから今日はいいんだ」
「春琴はお侍が怖いからそっちの相手をしなくちゃいけなかったんだろう。俺はまた来るよ」
そんなことを言って、振られた朝も誰一人姉さん方に悪いことは言わない。振られても誰もが見世にいる間は夢を見ている。
それは廻し部屋の手練手管。姉さん方は素気なく振る男にも夢をみせている。本気で惚れているのは一人だけだと。
私は姉さんのように、夢を見せることがまだ出来ない。
夢を見せることも出来ずに振れば、怒りだすひとも出てくるだろう。この狐踊屋に来て初めての日に見た、振られて怒り出した大男のようなのが出てこないかと心配になる。
心配をしていたけれど、それは杞憂とか驕りかもしれない。私を指名して見世に上がるひとは誰一人いなかったのだから。
それでもやっと指名された。
初会だけど、お菊さんには直接部屋に通せと言われている。どうやら心付けを弾んだらしい。
廻し部屋に上げれば、振る・振らないがあるけれど、最初から私の部屋に通すなら振るわけにはいかない。
振らなければ、怒りだすことはないから気は楽だけど、部屋で二人だけになるのは心細い。緊張もする。
廻し部屋なら、声をかけてくれる姉さんがいる。どこかで姉さんが見ているような気でいられるけれど、私の部屋に通すならそうはいかない。障子戸を閉めれば旦那様と二人だけになるのだから。
引付座敷で待っている今日の旦那様を迎えに行くと、そこに静かに座るのは姿勢のいい総髪の男性だ。吉原に多い商人には見えない。学者だろうか、医者だろうか。聡明だとすぐにわかる大きく鋭い目つきで私を見た。
どうやら私は総髪に縁があるらしい。ただ、初めて会った時の新之助様とは違い、総髪は鬢付け油で綺麗に整えてあり、身分の高さが伺える。
召している紫がかった青い着物は張りがあり、まるで今日のために下ろしたかのような真新しさだ。
「お主が真琴か」
「真琴でございます。本日はお越しいただきありがとうございます。部屋へご案内いたします。どうぞこちらへ」
そろりと立ち上がるのを確かめてから二階へと向かい、そのまま部屋へと通す。座敷持ちなら一度座敷へ通すのだけれど、この見世には座敷持ちは一人しかいない。
部屋へ入ってからは終始無言で、ただ酒を口にするだけだ。
どうして私を指名して下さったのか話しを聞かせて欲しいけれど、真那鶴姉さんは馴染みばかりで初会の客はほとんどいなかったから、こんな時は理由を聞いていいものかわからない。
琴海姉さんなら気軽に聞けるのだろう。琴夜姉さんは理由なんて気にせず甘えるだろう。
間をもたせようと酌をすると、まるで値踏みでもするかのようにじっと私の顔を見つめる。
鯨飲とはこの人のことを呼ぶのだろう。半時なにも喋らず、肴には手を付けず、ただ私を見つめるだけで酒をどんどんと飲んでいく。
しかし顔が赤くなるわけでもなく、目つきも引付座敷で見た時と変わらぬ鋭いもの。しゃきっと伸ばした背筋が丸くなることもない。つまり、まるで酔った様子が伺えない。
姉さん方には慣れるまでは会話や仕草、駆け引き、それに床よりも、まずは酔わせるように言われている。まずは上手く酔わせれば十分だと。
けれど、これだけ飲んでも酔わなければ、酒の力を借りずに私が夢を見せなければいけない。
「酒がお好きなのですね。うちの見世の酒はいかがですか」
「御神酒上がらぬ神はなし、というだろう」
酒飲みが言い訳にする言葉だ。お酒が随分好きなことを知れただけでも嬉しかった。
「お酒がお好きなのですね。沢山飲んで下さい」
ようやく口を開いてくれたと思ったが、そこから四半時、また黙ったまま飲み続けた。
私の方から何度も話しかけたけれど、それにはまるで答えてもらえない。ようやく話してくれたが、それも私の言葉とは無関係のものだった。
「お主、手を出してみよ」
「手、でございますか」
「そうだ、手の甲をここへ」
この方なりの床へ誘うやりかたかもしれない。差し出した旦那様の手の上に右手を載せて、左手で下から包みこんだ。
指の長い旦那様の手は男の人とは思えないほどに滑らかだけれどゴツゴツとした骨の太さを感じる。
その瞬間、旦那様が右手をぎゅっと握り、頭が下がったと思うと手の甲を手首までペロッと舐められた。
新之助様にもされたことはない。手の甲を舐められることなど初めてのことで、思わず体がこわばる。まだ床に慣れないこともあるのかもしれない。
「どうしてお主から人魚の味がするのだ。お主、食べたな」
人魚を知っている!?
旦那様の言葉に体はすっかり固まってしまう。まるで息をしていないかのように胸が詰まり苦しい。
でも、どうして食べたことまで。
お菊さんは、あやかしを見ることが出来ると話していたけれど、この方もそれと同じ力を持っている?それとも新之助様と同じ陰陽師?
「に、人魚など知りません」
わずか一言を絞り出すのが精一杯だった。
本当にあやかしなら、どうしたらいい。助けだ、お菊さんと狐の楼主に助けを求めよう。
徳利が空になったと装い立とうとするが、左手を引かれ、勢いで徳利を皿の上に落として割れ、体は旦那様の胸の中に倒れ込む。
優しく受け止めてくれたけれど、表情はまるで真逆。
「我を騙せるかと思うたか」
まるで口を吸うかのように顔を近づける。
「……お戯れを」
瞬きもせず一瞬たりとも視線を外さないのだから、それが戯れではないことはわかっている。けれど、そう言うしか他ない。
この方は確かに知っている、私が人魚を食べたことを。偶然に出てくる言葉ではない。
今度はうなじのあたりに手が伸びて抑えられると、首筋に唇がぴたりとつき、その中で舌が動く。
「これほど人魚の味をさせておき、我を欺けると思うたか」
まさに蛇に見込まれた蛙。一瞬たりと反らすことのない鋭い目つきの前に、体はすくみ、声すらも出すことはできず助けも呼べない。
「人魚を喰うたのならば、殺すしかない」
人魚を食べたことを見抜くのなら、人魚を食べ不老不死になっていることも知っているはず。不老不死と知り、それでも殺すというの。そんなことができるのか、この方は。
恐怖の中で必死にもがき、なんとか胸の中から脱しようとするけれど、長い手が絡みつきそれも叶わない。
私はこのまま殺されるのか。
嫌だ。
真那鶴姉さんのような立派な女郎になるまでは死ねない。真那鶴姉さんの気持ちを知るまでは死ねない。
それに私は不老不死になったはずじゃないのか。簡単に死ぬはずがない。
気持ちを奮い立たせ必死に体を動かそうとするけれど、それでも力ではまるで敵わない。学者のような見た目からは想像できないほどに強い力で、抱き寄せるように私の動きを封じる。
首筋を吸う唇は徐々に動いて、その唇がぴたりと私の唇につくと、どういうわけか頭がぼんやりとしてくる。
次第に視界が白んでいく。体に力が抜けていき、絡み付く長い手に抵抗もできない。
どうして?唇から何か、生気のような何かを吸い出されているんだ。唇から私の命を吸い取っている。
痛くはない。むしろ体が軽くなるような、浮くような心持ちがする。
これが死ぬということなのか。
私はまだ死ねない。真那鶴姉さんが心中を選んだ気持ちを知りたいのに。
それなのに体はまるで動かない。もう目を開け続けるのが精一杯だ。
一瞬、すっと風を感じた。風の吹く方を見ると障子戸が開いているのだろうか。
「お前を見かけたから、どういうことかと思えば。何をしている!」
初めて聞いた野太い声で唇が離れた。
体にはうまく力が入らないけれど、白んだ視界はゆっくりと色を取り戻す。
どうやら助かったらしい。
部屋を仕切る障子戸を開けて身を乗り出してきた男が言った。はだけた襟元から大きく硬い胸が見える。
浅黒い肌に肉付きは職人のようだけれど、まるで公家のような細面。
「お前には関係なかろう」
名前こそ呼ばないが、話しぶりからどうやら二人は既知らしい。
「関係ないわけがあるか。見たところその女、あやかしだろう。あやかしであれば俺の領分となる。勝手はさせぬぞ」
あやかし、領分?一体、どういうこと。
「……あやかし、か。我の見立てでは、まだまだあやかしとは言えぬ」
「では人間というのだな。お前の立場で、人間を手に掛けるというのか」
その声に、ぐったりとする私をきつく抱く手が緩んだ。
「あやかしのくせに全く面倒なこと言う……、興が削がれたわ」
そう言うと、私を優しくその場に寝かせ、すくと立ち上がり、部屋を出ていってしまった。
「面倒な奴に見つかってしまったな。お菊さんには俺から言っておこう。魂を吸い出されかけたんだ、今日はこのまま休めばいい」
あの感覚は、私の魂が体から離れていく感覚だったのか。そんなことが出来るのは、やはりあの方はあやかしなのだろうか。
「あの、ありがとうございます」
体を起こすことも出来ず、横になったまま言うしかなかった。
聞きたいことはあるのに、「ここにいるところを見られたら春琴に殺されちまう」と笑いながら体の大きな方は出ていってしまった。
廻し部屋にも出ず、言われたように一人部屋でぼんやりと、まとまることのない考え事をしていた。
いや違う。頭が混乱して、廻し部屋に出ることもできなかった。
助けてくださった方はあやかしと呼ばれていた。じゃあ、私を指名してくださり、でも魂を吸い出し殺そうとした方は何者なんだろうか。
人魚のことを知っていて、人魚を食べたことを見抜いた。人魚を食べたから殺すと言っていた。
やはり、あの方もあやかしだろうか。
でも、話しぶりからは二人が異なる立場のようだった。あやかしと対をなすもの、ということなのだろうか。
「いるんだろ、入るよ」
返事も待たずに障子戸を開けて入ってきたのは遣り手のお菊さんと狐の楼主。忙しいのか遣り手として身についた習慣か、座る前から話しだした。
「まさか殺すために来たなんてね、思ってなかったんだよ。部屋に通させて悪かったよ」
お菊さんの話しぶりからは、帰られたあの方が何者なのかを知っているように聞こえる。
「まったくね、人魚を食べても死なない人間なんていなかったから、僕も考えてもいなかったんだ。まさか殺しに来るなんて。まったく真琴には悪いことをしてしまったね」
「いえ、助けてもらいましたので。それよりも、あの方は一体……」
「人間が言うところの神だよ」
楼主は事もなげに言った。
「神!?神様ですか」
「そんなに驚くことかい。僕だって社に祀られる神なんだからね。この見世に来てから真琴には拝まれたことはないけど、まさか忘れたわけじゃないだろ」
「でも、神様がなんで吉原に。それに、どうして私を殺そうと」
「吉原ってのはね、四方を稲荷が取り囲んでいるだろ。そのせいで神だとかあやかしみたいなのもよく出るのさ。吉原なら出てきやすいって言えばわかるかね」
お菊さんの顔は、まるで当たり前のことだと言わんばかり。あやかしを見ることが出来るお菊さんにとって、あやかしの客は珍しくないのかもしれない。
「真琴を殺そうとしたのは、人魚を捕まえて食べたと思っているからみたいだ。神にとっちゃ、自らあやかしになろうとする人間が許せないんだろうね」
「そんな……」
それじゃあ私はあの方に、神様にいつまでも命を狙われるということになる。今日は助けてもらったけれど、でも次からはどうしたら。
「どうする、次に来た時は断るかい」
客を見世に上げるかどうか、どの女郎を当てるのか、それは遣り手であるお菊さんの仕事。
あの方が見世に来たところで、断ってもらえば直接会うことはない。あの方の唇が触れなければ魂は吸い出されない。
真那鶴姉さんならどうするだろう。
新造の私は真那鶴姉さんが抱えていた面倒事など一つも知らなかった。けれど、女郎なら面倒事の一つや二つ、あったはず。それも傾城と呼ばれるほどの女郎なら。
「いえ、大丈夫です。また来られた時は私の部屋に通してください」
真那鶴姉さんのようになるために、面倒事から逃げるわけにはいかない。
「ほう、肝が据わってるね」
狐の楼主には私の言葉が意外だったのか、目を丸くした。
「初見世のために仕立てたその着物と布団の借金は残っているんだからね。こっちは借金を返す前に殺されちゃあ困るんだ」
「お菊さん、いいじゃないか。稼ごうっていうんだから。でも、殺されそうな時は助けを呼ぶんだよ、いいね」
私には何も出来ないけれど、神様同士ならなんとかなるというのだろう。
「もう一人の、私を助けて下さった、春琴姉さんの旦那様は」
「あれかい。向こうが神ならあれは鬼だね」
やはりお菊さんは平然とした顔で言う。神にも驚いたけれど、驚きは鬼の方が上回る。
大きな体に太い腕は確かに鬼のようではあるけれど、鬼と呼ぶには似つかわしくない優しそうな細面をしていた。
「鬼?本当に鬼に助けられたのですか」
神に殺されそうになり、鬼に助けられるなんてあべこべだ。
「鬼と言うけれどね、まあ僕にしてみれば神との違いなんてないんだよ。神だと祀るからといって人を助けるわけじゃない。鬼だと恐れられるからといって害をなすわけじゃない。怖がることはないよ、現に真琴を助けただろ」
目の前にいる狐の楼主は真那鶴姉さんを心中させるため、人魚の肉を分けたという。なれば、殺したも同然。稲荷として、神として祀られているというのに。
そして私は鬼に助けられた。
しかも神に殺されそうになっていたところを。
「どうして助けてくださったのですか」
「僕にもわからないけれど、あの二人は仲が悪いからねえ。邪魔したかったんじゃないのかね」
「あれは春琴の客だからね。手を出すようなことはしないでおくれよ。ただでさえ春琴は面倒な女郎なんだから、お前さんが春琴の客に手を出したなんてことになったら、神だとか鬼だとかより、そっちの方がよっぽど面倒になるよ」
稲荷に囲まれた吉原にはあやかしが出やすいとは言うけれど、お菊さんの慣れた様子はそれが嘘や誇張ではなく、本当であることを知らせる。
「今日はいいから、また明日から稼いでおくれ。大丈夫だね」
狐の主は一方的にそう言うと、お菊さんを連れて部屋から出ていってしまった。
わからないことばかりで、もっと聞きたいことはあるけれど、聞いたところで神だとか鬼だとか途方もない話になってしまうのだろう。
吉原に神や鬼やあやかしが来るのであれば、夢を見せればいい。
きっと真那鶴姉さんはそうやって面倒事も乗り越えたはずだから。