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 真那鶴まなづる姉さんが稲荷にお詣りするようになったのは初雪の頃だった。

 あれから三月ほど経つだろうか。梅は咲いたらしい。日は長くなり暖かい日が増えてきた。桜ももうすぐだろう。

 塀と堀に囲まれた吉原の中には稲荷だけが四つもある。さらに大門おおもんにも一つ。それだけあるのに、姉さんがお詣りへ行くのはいつも同じ。

 大門を背に左へ曲がった角にある明石稲荷。見世から近いのは他にあるし、女郎に人気のある九郎助稲荷くろすけいなりでもない。縁起の良さそうな開運稲荷でもない。少し歩いてもここがいいらしい。いや、明石稲荷に決めているんだ、ここじゃなきゃ嫌なんだろう。

 見世と比べると色に乏しい鄙びた稲荷に一体どんな願をかけているのか、姉さんに何度か聞いたけどいつも教えてはくれない。

 ただ「幸せのため」だと答えるばかりだ。

 稲荷の前で優しく両の手を合わせ、薄っすらと目を閉じる姉さんの横顔は、決まって安らかな顔になる。

 傾城と呼ばれる真那鶴姉さんは見世でも鷹揚に優雅に振る舞うけれど、この稲荷の前ではそこに優しさが加わる。

 今日は特別に安らかで美しい。

 どんなお大尽でも、姉さんのこの横顔を見ることはない。私だけが見ることが出来る。それが嬉しかった。

「イト、ちょっとこっちに来な」

 寄り道もせず見世へ戻ると低い声をかけたのは遣り手だった。姉さんや他の姉女郎と違って声の調子から機嫌を推し量れない。いつも怒っているようで、急いでいるように思える。それなのに、同じ声で褒めたかと思えば菓子までくれることもある。

 本人が話すには、遣り手というのは何につけてもケチでなければ務まらないそうだが、そのケチな遣り手が菓子をくれる時も、なじられ布団部屋へ押し込められる時も同じ声音だから、声をかけられればまず恐怖しかない。

「おまえさんの初見世が決まったよ。真那鶴の身請けの前にしてやらなきゃいけないって焦ったけど、安心しな。悪い客じゃないよ。おまえさんも知ってるだろ、野田の旦那様だよ」

 身請け、姉さんが身請けされる。聞いていない。

「ないだい、その顔は。嬉しくないのかい。一年も二年も前から初見世が楽しみだって言ってただろ。野田の旦那様なら道中も出してもらえるだろうよ。真那鶴がいなくなったら、おまえさんにたっぷり働いて貰わなきゃいけないんだからね。そんな景気の悪い顔するんじゃないよ。野田の旦那様に見世替えしたいなんて言われちまうよ」

「身請けって、姉さんが身請けって、いつ」

「なんだい、聞いてなかったのかい。あいつも薄情だね」

 じゃあ、毎日稲荷に通っていたのは願掛けじゃなくてお礼参りだったのか。身請けが決まったお礼に。

「それで、それで身請けはいつなの」

「ああ、そうだったね。向こうの準備が整えばすぐにでもって話だけど、あと二月くらいかかるみたいだね。真那鶴の寝所を作っているとか言ってたね。豪気なもんだよ。今どき女郎上がりの妾に。おかげで、おまえさんの初見世に間に合ったんだけどね。でも、これで真那鶴も安心だろうさね。一度は断ったんだよ、あのこ。おまえさんの初見世が気になってたんだろうよ。初見世までは姉女郎の責任だからね。真那鶴のためにも、初見世をしっかり務めて安心させてやるんだよ」

 郭の中では新造にとって姉女郎は姉であり母。姉さんにとって新造の私は子も同然。私の初見世を待つため、独り立ちするまで身請けを断ってくれていたんだ。

 じゃあ、今日の特段の安らかなあの顔は私の初見世が決まったから。そうだったんだ。

 それなら姉さんもそう言ってくれればいいのに。そんなに私は姉さんを不安にさせていたのか。

 傾城と呼ばれる姉さんみたいに、私も傾城と呼ばれるくらいの女郎にならなくちゃいけない。吉原一の女郎に。私は真那鶴姉さんになりたい。


 その日、夜見世の客は初会だった。

 向かえの男衆に連れられて旦那様が部屋へ入る一瞬に、真那鶴姉さんにはしたないとしかられない程度、ちらりとだけ今日の旦那様の顔を見た。

 真新しい羽織はまだ体に馴染んでいない。今日のために新調したのだろう。

 この見世に来るにはまだ若すぎる気もするけれど、初会だというのに舞い上がることもなく顔つきは落ち着き払って堂々としている。

 真那鶴姉さんの格なら初会の客には口を聞かないどころか、背を向けたままのこともあるけれど、今日は最初から隣に席を用意させた。

 姉さんは私には聞かせないけれど、恐らくは他の旦那様の紹介で信用に足るのだろう。

 男の落ち着いた表情とは反対に、まだ若いせいか紬はどこか浮ついていて、着せられた印象が強く似合っていない。まだ遊び慣れていない初心な若旦那様を大旦那様から任されることは珍しくない。きっとそうなのだろう。

 姉さんも旦那様が遊び慣れていないことを知っていたのか、私も見たことのない質素な簪かんざしを一つしかつけていない。

 ここは旦那様と女郎が色恋を演じる吉原だ。真那鶴姉さんは旦那様の好みに合わせたのだ。

「イトもサヨも今日は三味も踊りも結構でありんすによって、一緒にお上がりなんし」

 それを聞いた旦那様はにこやかな表情で私と禿を見て黙ってゆっくりと頷いてくれた。

 三味も踊りも好きだけど、姉さんと一緒に食べられることは家族だと感じられて何よりも嬉しい。

 今日は私の好きな蛸とアサリのぬたもある。

 姉さんはまるで本当の夫婦のように酌をしては見つめ合い微笑んでいる。

 もちろん、それは姉さんの手練手管で旦那様もそれを知っているはずだけど、それでも二人は幸せそうだ。

 どうせ大金をばら撒くならと、浮世離れした華やかな狂乱を求める旦那様にも姉さんはしっかり夢を見せる。今日の旦那様のように、素朴な幸せを求められれば姉さんは相応以上の夢を見させる。

 どんな旦那様にもありとあらゆる夢を見せる。だから姉さんは傾城と呼ばれる。

 初見世では出来ないかもしれないけれど、私もいつかは姉さんのようになりたい。姉さんのように旦那様に夢を見せられる女郎になりたい。

 ゆっくりと膳を楽しんだ後、床に入るかと思った頃合いに姉さんはおもむろに立ち上がった。

「今から料理するからによって少々お待ちなんし」

 旦那様は話していなかったけれど今日の旦那様は所帯を夢見ているのだろう。姉さんはそれを見抜いたようだ。

 女郎が手料理を振る舞うのは手練手管の一つ。女郎と世帯を持ちたいと願う旦那様は、普段は針仕事はもちろん料理もしない女郎が自分のために作ってくれたとたいそう喜んでくれる。

 けれど姉さんが初会の旦那様に料理を振る舞うのは初めてだ。それだけ気に入ってもらえたと、旦那様は余計に嬉しいことだろう。

 ちらりとだけ見ると、まるで姉さんが明石稲荷でお参りする時のように安らかな顔をしている。

 でも旦那様は身請けのことは知らないのだろう。知れば悲しむだろうけれど、吉原は夢の中。

 戻ってきた姉さんが盆に載せて持ってきたのは、梅小鉢に入った白身の魚と卵を合わせて焼いたもの。

 旦那様に振る舞う女郎の得意料理といえば炒り卵だけど、姉さんの格ともなれば、ただ卵を炒るだけでは喜んでもらえない。

 だから姉さんは工夫した。卵の白身に練った魚を加え、それを揚げるようにたっぷりの油を使って焼いたのだろう。

 一口頬張ると柔らかい。まるで雲を口にしたかのような感触。鯛や海老の真丈よりも柔らかい。それに風味があって味は濃い。

 魚は何を使ったのだろう。鯛でも穴子でも鰻でもない。もちろん鯉じゃない。鮎も太刀魚はまだ早い。初めて食べる味だ。

 姉さんくらいの女郎になると、魚にも詳しくなければ務まらないのだろう。身請けまでに作り方や魚を教えてくれるだろうか。

「美味しいねえ」

 旦那様は優しい声で言うと姉さんを見つめ、その後に私と禿を見た。

「懐かしい味だよ、変わらないね」

 懐かしい味?旦那様の思い出の味なのか、それとも郷里の味なのだろうか。

「ほんにね」

 ほんにね?姉さんが旦那様の前で廓言葉を使わないなんて初めてのこと。旦那様の郷の言葉を姉さんは知っているの?

 でも、どうして。初会の旦那様なのに。

 その時だ、姉さんも旦那様も禿も一斉に倒れたのは。


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