異能殺し
鋭い爪が眼前をかすめ、ヘルガは直近の棚へと後退する。調理用具を置いておく棚だったのか、キッチンナイフを手に取り、ヘルガは応戦の構えを取った。しかしヘルガがナイフを死体に向けるよりも早く驚異的な速度で死体、否ゾンビは彼のふところに潜り込んでいた。
予期せぬ位置からアッパーが顎を的確に射抜き、ヘルガはキッチンナイフを持ったまま床に倒れ伏した。ゾンビはここぞとばかりに彼にまたがり、鋭い爪を彼に突き立てる。抵抗しようとヘルガはキッチンナイフを振り上げようとするが直後彼の瞳に痛みが走った。
目の奥でマグマでも煮えたぎっているのではと錯覚するほどの激痛にヘルガはひるみ、片手で両目を覆った。視界を自ら覆ったヘルガにゾンビは執拗に攻撃を続ける。爪で引っ掻かれても死ぬことはないが傷はできる。攻撃の一つ一つは小さくとも馬乗りの体勢から何度も続けられては痛いだけでは済まなくなる。
レアリティが遠くで止めようとする姿が目の端に映るが、アルバが何かを言っただけで彼女は引き下がった。絶えず与え続けられる痛みは徐々に洒落にならない裂傷を腕に刻んでいき、次第に身体全体が熱くなっていくのを感じた。それはヘルガの双眼に走った痛みと酷似しており、はらわたを食い破って何か邪悪なものが現れてくる気配にすら思えた。
このままでは死ぬ、とヘルガはキッチンナイフを握りしめ、ゾンビの首の付け根へと突き刺した。ぶしゅりと異臭をまとった生暖かい血が吹き出し、彼の顔面に浴びせられる。常人ならば死んでもおかしくない致命傷、しかしゾンビは止まることを知らず鋭い歯をヘルガの肩口へ突き立てた。
トラバサミに挟まれたかのような激痛が電流のごとくヘルガの脳に直撃する。引き離そうと自然と両手が突き出るが止まる気配は一切見せない。何度もナイフを頭に突き刺してもいっこうに噛む力は衰えない。
「クソ、クソ!」
肩からはおびただしい量の血が流れ、徐々に左腕部の感覚がなくなっていく。筋肉と骨がひしゃげていく音が間近で聞こえ、なんとか離さなければとヘルガはゾンビの顎にナイフを突き立てた。顎の筋肉を削ぎ落とすと途端にゾンビの噛む力が衰えた。
しめたとばかりにヘルガはゾンビを蹴り飛ばし、距離を取ろうとする。だが左肩の痛みが彼の想像以上だったのか、あるいは失血からか、まともにその場を動くだけの力が出なかった。足に力が入らず、せっかくゾンビを引き剥がせたのにまったく動けない。
ズキンズキンと両目が痛み続ける中、右手のナイフをゾンビの顔面に突き立てる。それで止まることなどなくゾンビは全身を続ける。恐怖を通り越し、絶望すら感じる光景だ。頭をいくら潰しても動き続けるなんてホラーを通り越して悪夢だ。心臓の鼓動は激しさを増し、同時にヘルガの両目はかつてにほど開かれ、赤熱を続けた。
「あ、あああ」
刹那、眼球が消し飛んだかのような痛みがヘルガを襲い、彼は無造作にナイフを横一文字に振り切った。視界が一瞬ブラックアウトし次の瞬間映った世界は平常なものだが少し違って見えた。
彼が今まで対峙していたゾンビがまず視界に入る。どういうわけか頭部の上半分が削ぎ落とされていた。しかも」なぜか黒い斑点がドット絵のようにその体を覆い、徐々に面積を広げていった。さながら白紙にインクを垂らすがごとく、波紋を描いて身体中が真っ黒に染まるゾンビを見てヘルガは嫌悪感のままにその体をナイフで切った。
スポンジケーキを等分するよりもたやすく、表皮、筋肉、骨と一切の抵抗なくあっさりと切られ、ゾンビの肉片が宙を舞う。なめらかな断面を残し、血の一滴すら余さず断面から落ちることなどありはしない。さながらそうあれ、と世界に規定されたかのように。
ナイフの軌道などお構いなし、ナイフが走っていない軌道のままにゾンビの体は亀裂のままに崩れていく。一瞬にして細切れにされたゾンビの体は雲散霧消し、それはまるでこの世に存在してはいけないものだと言われているかのようだった。
「カルネアデス、か」
かなり遠くでアルバの声が聞こえた気がした。なんで古代ギリシアっぽい名前が出てくるのだろうか。なぜか視界は泡立っていてアルバの隣に影法師が見える。なぜかレアリティの姿だけが見えず、きっと意識が遠のきそうな自分を支えているのだろうとヘルガは妄想したまま、床に倒れ伏した。
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