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愛しています、死んでください。  作者: 賀田 希道
悠久ナルキッソス
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欧州縦断鉄道

 駅、そう駅である。土日ということもあり人がごった返している、駅。むせかえるような芳香と加齢臭、汗臭さと酒気に満たされた最悪の場所だ。おおよそ未成年が立っていたら吐きそうなほど人が多く、雑多に無駄に移動を繰り返しているさながらアリの巣の交差点を彷彿とさせる汚らしい空間だ。


 紙ゴミやチップスの空袋とかはよく見かけるし、緑色の粘着物が靴底にこびりついたこともある。壁には落書きがされ、あるいは嘔吐の跡が散見された。行き交う人間だって多用的だしかしそこにいい意味はない。激臭と悪臭をただよわせた浮浪者などはまだ優しい方で、口臭スプレーの代わりに工場排水でも飲んだのか、と嗅ぎ間違えるほどの腐臭を吐きながら二人組のマダムが歩いた時などは思わず吐きかけたほどだ。


 なにかの番組で男性は女性にニオイでしか判別されない、とか体臭が原因で職場で煙たがられる男性がいる、と聞いたことがあるが女性だって大概だ。胸焼けするような腐臭と悪臭と漂わせてそれが花畑のフレグランスかなにかだと勘違いしてやがる。まだ老婆の脇に尾骨を埋めた方が生産的なように思えた。


 別段人混みが苦手、閉鎖空間が苦手ということはなかったが、この腐臭漂う駅内に長時間いると色々と苦手になってしまう。体はすでに早くここから出ていきたいとむかむかとしていた。


 その只中、より具体的には電子掲示板の真下で居心地が悪そうにヘルガはラスカーを待っていた。首都を経由してドレスデン、より正確にはドレスデン郊外の駅に行く、と言ってラスカーは切符を買いにどこか行ってしまった。この駅から首都までは約10時間、それからドレスデンまでは約2時間らしい。今は10時だから目的地に着く頃にはもう深夜だ。


 コンパートメントが用意されている、とラスカーは言ったがその居心地だって怪しいものだ。これだけの悪臭ただよう駅、そんなところから出発する電車がまともであるはずがない。ゴミ箱の中から黄金を見つけることができないように、悪臭の中で育ったものは悪臭しか帯びることはない。育ちは重要、そしてそれは容易に砕かれることはない。


 「ああ、待たせたな。行くぞ」


 本当だよ、と悪態をつきながらヘルガはラスカーの後を追った。左足にヒビが入っているヘルガを他所にずいずいとラスカーは先を歩いていく。仕方なく片足飛びでラスカーについていくが、その彼はぐんぐんと突き離されていく。


 結局ヘルガがラスカーに追いついた時、彼は左足の痛みを我慢して走っていた。おかげでべろりとめくったズボンからは膨れ上がったアザが露出していた。


 「痛々しいね」

 「いや、誰のせいだよ」

 「どれ、ちょっと傷口を見せたまえ。治すことはできないが、補強することは私にもできる」


 そう言ってラスカーはヘルガの返答を待たずに無理やり彼の肌に触れ、そして黒いもやを流し込んだ。ぎょっとしてラスカーから距離を取ろうとヘルガは大きく後ろへ後退した。その時、さっきまでは走っていた左足の痛みは走らなかった。


 左足の痛みが消えたことに瞳孔を大きく開くヘルガを見て、ラスカーはしたり顔でうなずいた。そのあからさますぎるほどのしたり顔になぜか無性に苛立ちを覚えた。


 「『陰』を使って骨格を補強した。ヒビそのものは治らないが、溝を埋めることはできるんでな。とはいえ無理な稼働をすると陰の癒着が剥がれて痛みが増す」


 「陰でどうやって痛みが消えてるんだ?」

 「消えてるんじゃない。ごまかしているんだ。暗い場所にあるものは見えにくいだろ?それと同じように脳が危険信号を受けないように神経系を陰で覆っているんだ。まぁそれはさておきだ。そろそろ電車が入ってくるぞ?」


 ラスカーに指さされて振り返ると車輪と線路が起こす摩擦音を奏で、十二両編成の鉄の棺桶がホームに入ってきた。欧州連合の旗を模した独特なカラーリングで、二階建ての巨大な列車、それは三年前に開通したばかりの欧州縦断鉄道の象徴だ。


 従来は先々の駅で乗り換えなければならないところが、この電車の登場によりイベリア半島からスカンジナビア半島までの長大な路線をこれ一本で網羅することができる、という破格の車両だ。欧州連合の議長が開通式で欧州統合の象徴だ、とブリテン島へ向かって演説したとかが有名な話で、実際に輸送用にも旅行用にも多く用いられている、とヘルガは聞いている。


 チケット一つを取るにしても難しいと聞いていたが、開通から三年もすればある程度入手は容易なのだろう。兎にも角にも一度は乗ってみたいと心の片隅で思っていたヘルガにとってはまたとない体験で、心をおどらせた。もちろん乗り合わせる人間がラスカーでなければの話だが。


 コンパートメントは旧来の機関車を思わせるレトロな雰囲気を漂わせ、二人から三人が座れる広さのシートが向かい合わせで備え付けられていた。寝る時はこれが変形して三人から四人用のベッドになるらしい。一応左右の天井近くに折り畳み式のベッドが付いているが、そちらは起きあがろうとしたら頭をぶつける恐れがあった。


 「もっとも我々には関係のないことだがな」


 開いた折り畳み式ベッドを元の位置に戻してぽつりとラスカーがつぶやいた。スーツケースをシーツの傍に転がし、どかりと彼は座り込んだ。ヘルガもバッグをシーツの上に置いて座り込む。やがてピューというホイッスルの音と共に車体がぐらりと揺れ窓の向こうの景色がゆっくりと後退し始めた。次々と人や物がこちらから遠ざかっていき、直後駅のドームを潜り抜け、都の景色がヘルガの瞳に飛び込んできた。


 改めて見ると雑多な街だ。芸術の都と嘯いているが、しかしその実際はゴミとヘドロと悪臭で煮詰まった都市でしかない。市街の合間を縫うように走行する間、眼に入ってくるのは窓辺に洗濯を干している主婦や昼間から酒を煽っている馳夫、あるいはベランダからゴミ袋を落としている太った男性などだ。一皮剥ければこの程度のもの。ひと月も過ぎればどんな街だって飽きてしまう。


 それなのに観光客が絶えないのはある種の錬金術だろう。おおよそに置いてヘドロから財貨をひり出すなど荒唐無稽だ。とどのつまり、観光業とは錬金術だ。ない価値をあるとしている。人が作った有形のすべてにがんらい価値などないのだから。


 材料費がせいぜいだが、それだって人が決めた価値でしかない。かの有名なモナリザや神の審判、ヴィーナスの誕生だってせいぜいが材料費程度の価値しかない。どうしてあれに何百万、何千万ユーロと値段がつくのか皆目見当もつかない。


 カードゲームなどはその最たる例だ。あれこそにまさにカルト的信仰のたまものだ。原価数ユーロにもならない大量印刷の紙切れをさもありがたそうに三千ユーロとか一万ユーロとかで平気で売買するのだ。正気の沙汰ではない。


 とどのつまり、皆が見ている価値とは付加価値の短縮形だ。それ以上でもそれ以下でもない。黄金信仰と同じように価値があると夢想する。供給と需要の差が大きいということもあるのだろうが、それこそくだらない。カードなんて紙幣と違って偽証は用意で、絵画もやろうと思えば偽証できるのだ。嘘、虚構、アートフィシャル、なんだっていいじゃないか。本物だと専門家が断言したものが偽物であったことなどいくらでもあるのだから。


 「随分と睨むな。そんなにあの街が嫌いかい?」

 「嫌いじゃないよ。汚いなって思ってるだけ」


 「観光客は満足しているようだが?」

 「漫画を読んでるようなもんでしょ。ほら漫画のキャラクターが白熱した展開を演じている瞬間って胸が熱くなるるじゃん?」


 「わからんでもないな。実際に漫画雑誌などで使われている紙はすべて再生紙、だれかのけつを拭いた紙に触っているかもしれない。知り合いに漫画雑誌を読むのは嫌だ、と言っている人間がいたが彼の気持ちが今ようやく理解できた気がするな」


 納得がいったようにラスカーは顎をさすった。彼が口にしたような意図はなかったが、確かに言われてみれば的を射ている部分もある。まっさらな紙ならばともかく、誰かが拭ったかもしれない紙を使うなんて不衛生極まりない。たとえ問題ないと言われてもやはり忌避感を覚えてしまう。


 それからしばらく沈黙が流れた。窓の向こうの景色は気がつけば緑が主体となり、赤屋根の街々が青々とした大地に点在している風景が散見された。郊外まで来た、というささやかな感傷を感じふと思い出したかのようにヘルガは書物に目を落としていたラスカーに話しかけた。


 「そういえばこれから僕らが出向く街っていうのはどういうことろなんだ?」


 「ん?言っていなかったか?私達がこれから出向くのはドレスデン近郊、エルベ川流域にある小都市だ。名前はリッドヴィーム。人口は一万ににも満たず、街そのものも大して大きくはない。エルベ川をまたぐように位置していて、東西南北を山林で囲われているためアクセスは電車と車に限られるな。電車だってそこまでの本数があるわけでもないせいぜい一時間に三本かそこらだ」


 「過疎化が進んでるってこと?そんなとこに魔術師の根城があるっていうのはらしいっちゃらしいけど」


 「主だった観光資源が街外れの古城だけだからな。私も一度彼女を連れ去るために訪れたが、見るものはほとんどなかったな。思えばなぜあんな街に拠点を置いたのやら」


 理解に苦しむ、とラスカーは肩をすくめた。そんな彼にヘルガは矢継ぎ早に質問する。


 「ドロシーを連れ去ったってことはラスカーはどこにその魔術師のアジトがあるかわかってるってこと?」

 「いや?私がそれをする前に彼女が目の前に現れたからな。これ幸いと、まぁ、パクったな」


 童女誘拐を平然とした表情で語るラスカーにヘルガは疑義の視線を向けるしかなかった。多分他の魔術師も似たようなことをするんだろうが、日常のルールから乖離しすぎている。世の誘拐犯よ、君らはまだ紳士だった、と言ってしまいたくなる。少なくとも彼らは自分が悪いことをしている自覚はあるはずだ。しかし目の前のラスカーを初め一部の人間はそうは思っていない。すなわち猟奇犯と言える。


 「じゃぁ街についたらすぐに聞き込み?」

 「言っただろ、街につくのは夜の10時とかだと。明日になるさ、探すのはな」


 だるいな、とヘルガはため息をついた。その後も両者はことあるごとに会話をかわした。それはさながら互いのことをよく知ろうとしているように。そして夕暮れ時から夜時へと時間は移ろい、二人の乗る電車はゲルマン人の国に入った。


✳︎

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