終局治療
「大丈夫か?」
倒れそうなヘルガの右肩へ手を回すが、そのあまりの冷たさにアルバの表情は漂白した。まるで死体でも触っているかのような冷たさでありながらゆったりと流れる血液は静かに肌を伝ってくる。自分の体温すら奪われるかもと錯覚するほどに凍結した手足でどうして立っていられるのか、アルバには不思議でならなかった。
近づいてよく見てみれば肩口を中心に流血がひどく、浅黒く傷口は無理矢理こじ開けたように肉がめくれていた。毒々しいまでに筋肉が外気によって収縮し、鳥肌が立ったように筋肉の裏側の細胞が膨らみ、シバリングを繰り返していく。ベくれたような跡が発疹のように左手を覆い、それはさながら死神が腕に抱きついたかのようだった。
止血のために包帯を巻くが、それも気休めに過ぎない。血を失いすぎていた。どういう戦い方をすれば肩口が壊死しかけるような傷を負うのだろうか。頭を悩ませるが、確固たる答えなんてそうそう浮かぶわけもない。アルバはヘルガの左手首をつかみ、体内のあらゆる器官の活動を活性化させる。少ない血を急激に体内で循環させ、少しでも熱を起こそうという魂胆だ。
だがそんなことを死にかけの人間にすればどうなるか。過剰に巡り始めた血液がさらに体力を奪い、ヘルガの体はどんどん冷たくなっていった。それでもまだしっかりと開眼し、右手に握ったナイフを手放さないのは彼の異常な精神力ゆえだ。ここで気絶すれば本当に死ぬ、と本能が理解し、彼の意識を繋ぎ止めていた。
「やべぇ、まじでやべぇ。まだ光柱を消してねぇのに死ぬなよ。死ぬならアレ消してから死ねよ」
おおよそ怪我人にかける言葉ではなかったが、意識を繋ぎ止めるためにアルバは必死だった。それこそヘルガを光柱に放り込めよという話だったが、それできちんと「異能殺し」が作動するのかは未知数だ。あるいはヘルガの死と同時に異能殺しが暴走する可能性もある。多くの魔術師が知る異能を無効化する能力の原点である異能殺しが巻き起こす災害など想像したくもない。
一ヶ月半前、異能殺しがあの街を解放した時、まさに天地がひっくり返ったような気分をアルバは覚えた。乱流逆巻く滅びゆく世界、暗雲がたちこめ、赤、青、緑、黄色と極彩色の雷が降り注いでいた終末の空が一瞬にしてかき消され、晴天が頭上に広がったのだ。浮遊し、地割れを起こしていた大地は糸が切れたように落下し、周囲を囲んでいた白い巨兵らもどこかへ消えた。文字通り世界一つが消滅したのだ。
どうやってそんな現象が起こせたのか、アルバにはわからない。しかしその現象を起こしたのがヘルガの持つ異能殺しであることは理解していた。今は宿主がいるからおとなしくはしているが、もし宿主が消えればどうなるのだろうか?最悪なのは世界が消えてしまうことだ。あの街のように存在するものすべてが異物を残してすべて消えてしまう、それは想像できる限り最悪のシナリオだ。
だがそれは映画や漫画のようにその場に居合わせた人間が爆弾の解体を押し付けられるようなもので、うまくいくわけもなかった。何がいけなかったと言えば単純に血がなかった。南無三と仏教徒でも医者でもないのにぶつぶつと唱える中、アルバの頭上から銀髪の少女が白い布に包まれた何かを抱えて降りてきた。
「ハキか!おい、お前って医療魔術って使えるか?」
「矢継ぎ早ですね。その答えは決まってます。ノーです。というか医療魔術ってそこの素人に効くんですか?彼の異能殺しが打ち消すんじゃないんですか?」
冷たくハキはアルバをあしらう。冷静に現状を認識したうえで彼女はヘルガを見捨てると言外に口にした。だがそれはアルバにとって頭を抱えたくなるくらいの大問題だった。
「だークソ!じゃぁどーすんだよぉ!オレらの目的はまだ果たされてねぇんだぞ!」
ギャンギャンとアルバはわめき、それをハキは嘲笑するが如く周囲を見回した。視界に入ってくるのは胸を強打したと思わしき跡が衣服に残っている少女と後頭部が綺麗に抉り取られた黒い粘性の何か。彼女が瓦礫の山頂から中庭を見下ろした時に刃を打ち合っていたのはどちらかだろう。それと戦い、重度の傷を負った。名誉の負傷というわけだ。
それを救うというのは人間的に正しい。しかし二つの理由でハキにはヘルガを救うことができなかった。一つは単純に医療魔術が使えないからだ。錬金術や薬学に精通している魔術師でもない限り医療魔術なんていう無駄の結晶を会得している術師はそうそういない。よしんば自分が使えたとしても多くの医療魔術が被術者の全体を術の対象とするようにきっと異能殺しで弾かれる。
一般的に魔術師の間で知られている医療魔術とは体を活性化させ、再生力を底上げするものだ。そのためにも儀式的な魔法陣を描き、被術者をその中に入れなくてはならない。術師の中にはそういった手間をかけずタコやカニのように手足を再生させる人間もいるが、それの対象は自身に限定しているからだ。自分の体のことを知り尽くした魔術師の極地とも呼べる秘技であり、ハキが知る中でも可能な術師は限られる。
もう一つの理由は単純に狼狽する老神父の言いなりになりたくない、という極めて個人的な理由だ。人間一人の生命がかかっているのに何を言っているんだという話ではあるが、感情的にハキはアルバが嫌いであり、ヘルガもまた嫌いな部類の人間だ。アルバは口が汚いしヤニ臭いし酒臭いという三重苦があるから嫌い。ヘルガは日常に寄生して自分は無関係であるように装っている姿が嫌いだった。
力があるならその責任を果たすべきだ。果たさないならとっとと次代に席を譲れ。それがハキの思想の原点であり、彼女が無駄な凌辱を重ねる自分の一族を皆殺しにした理由でもある。
さてどうしたものか、とハキは思案し始めるが、その矢先に彼女の抱えていた白い布の中からか細い声がした。視線を向けるとどこか物憂げな表情を浮かべたイシュカ・ランジョーが首だけをヘルガに向けようと頑張っていた。聞こえてきたか細い声は彼が唸る声だった。
「どうしたの?自分の計画を頓挫させるかもしれない危険因子が死ぬ瞬間でも見たいの?」
嘲りとも挑発とも取れる辛辣な言葉をハキは浴びせる。イシュカはキッと彼女を睨む。手足をもがれた男が何をできるのかと興味深げに彼女はイシュカを見つめる。
「どうした?どうしただって?僕の教え子が傷ついて倒れているんだぞ?だったら助けようとするのは当たり前だろう!?」
額に汗を滲ませ、イシュカは吠える。怒りが灯った瞳でハキを睨んではいるが、それは彼女の言葉が図星だったからではない。本質が違っていた。まるで教師のようにイシュカは本気でヘルガが傷ついている姿を見て憤っていた。軽薄さは一切合切感じられず、ただひたすらに生徒であることを心配するイシュカはハキの手から逃れ、ヘルガを治療しようと四肢のない体でもがいた。
「助ける?どうやって?言っておくけど医療魔術なんてそこの素人には通じないよ?血だって足りない。貴方に何ができるの?」
「私が扱うのは赤の式だ。風水において赤は火と生命力の象徴!医療魔術など頼らずとも傷口を塞ぐなんて私には容易い。だから早く僕を僕の教え子のところへ連れて行け。失血などいくらでも回復させてみせる!」
嘘は言っていない。少なくともそう直感できた。だがどうしてヘルガを助けようとするのか、ハキには理解できなかった。助けを乞うようにアルバに視線を送るが、肩をすくめてみせた。使えねぇ、とハキは顔をしかめた。
少し考えようかと彼女はヘルガへ視線を移す。あからさまな満身創痍、体の傷の深さからいつ死んでもおかしくない。熟考している余裕はなく、呼吸の合間もだんだんと長くなっていた。
「ダメで元々か。失敗してもいいからやってくれる?」
「失敗などしないさ。僕は教師だぞ?教師が生徒を救う時、失敗するなんて許されない」
ズイっとハキはイシュカをヘルガへ近づけた。イシュカが魔術を使うにあたって彼女は刀剣を大地から出現させ彼の首筋に当てた。少しでも妙な真似をすれば鮮血が舞う。それを言外に訴えるが、イシュカの意識はすでにすべてがヘルガただ一人に向けられていた。
「体が熱を欲している。失血、なるほど。ここをこうすればいいか。しかしやはり異能殺しは邪魔だな。術の範囲を絞る、か」
風水とは元来土地に対して行使する魔術だ。起源は東洋にあり、建物の配置、方位などを五行(水金地火木)と陰陽の七属性に当て嵌め、土地が持ちうる力を最大限に発揮することができる。長い歴史の中で風水は土地に流れる霊脈の力を引き出す巒頭派と方位を重視する理気派に分かれ、独自の体系を築き上げていった。
極東の島国では陰陽道などとも呼ばれ、呪術師らとの融合を果たしたりもした。そんな中、乱城家が扱うのは赤の式や黒の式を利用した理気派の風水魔術だ。性質としては西洋の精霊魔術に近く、実体を持たない赤や黒といった概念を使役し術者の解釈と理解次第で無限の拡張性を秘めている。
イシュカが得意とする赤の式は五行において火を象徴し、付随する属性として生命力や情熱などがある。さながら道教において陰陽のまぐわいが活力を与え生命の営みを活性化させるがごとく、イシュカの魔術は対象の生命力、より具体的には肉体のスペックを数段階上げることを可能としている。
魔術を行使されると同時にそれまで流れっぱなしだったヘルガの血が止まっていく。傷口に集まった血はめくれた肌を戻そうと動き出し、骨髄へ渡っていくエネルギーが飛躍的に上昇していった。血は命の源泉だ。失えば死に、増えれば死なない。
血が増えていくに連れ、ヘルガの肌の色が赤みを取り戻していく。体が熱を発生させるだけの血液を取り戻し、それまで死人のようだった彼の肌が熱く、熱くたぎり出した。呼吸はだんだんと荒くなり、喉を通る酸素が増えるに連れて胸筋が膨らむ起伏が大きく、大きく盛り上がり始めた。衣服越しでもわかる明らかな変化、それはヘルガの体が回復していることを意味し、落ち窪んでいた両目に生気が戻ってきていた。
「大丈夫か、ヘルガ?」
左手に熱が戻ったことを確認し、アルバが耳元で問いかける。まだ声が出せるほどまでは回復していないのか、こくりと首を上下に降り、ヘルガはうなずいた。そうか、と柔和な笑みを浮かべアルバはイシュカへと向き直った。
「礼は一応言おう。このバカを救ってくれたこと、感謝する。だがてめぇがこれまでいろんな国でやらかしてきあことは明らかにオレらの世界の秩序に反する行為だ。きちんと本部に収監してやるよ」
「それは……。まぁそうだろうな。私がやったことはとどのつまり記者が預言者の顔を新聞に載せることと大差ない。自由の範疇を超えた逸脱行為、自由を額面通りに受け取ったバカどもの行動と大差はない。どのみち四肢ももがれてしまった。もう逃げることすらままならんよ」
すんなりとイシュカが敗北を認めたことにハキとアルバは驚いて顔を見合わせた。これまでさんざん逃げ回ってきた人間がたかが四肢をもがれた程度でまさか敗北を認めるなんて、猫とネズミのどたばた喜劇ぐらいちゃんちゃら笑える話だ。
だがどうあれ優先目標が敗北を認めた以上アルバとハキは、もはや置物同然と化したイシュカを持って帰るだけで仕事は終了だ。あと残っているとすれば「ヘカーテの棺」の回収、そして光柱の消滅くらいだろうか。後者はヘルガの体力が戻ってから済ませれば良く、前者はその後にゆっくりと済ませればいい。校舎がペシャンコという大惨事のせいで秘密裏に棺を持ち出すのは難しいが、最悪棺は壊してしまってもいい。
長い夜だったな、と西に傾いた月を見上げてアルバはタバコをふかす。夜空に舞う紫煙から心地よい香りが漂い、鼻腔をくすぐった時、感無量の吐息がこぼれた。まさに喫煙とは至福だ。大人にのみ許された贅沢だ。近頃はガキでもタバコを吸っている人間がいると聞いたが、タバコが似合うのは自分のようなダンディな老人だけだ、とアルバは一人で気持ち悪い持論を心の中で展開した。
そんなことを知らないハキは臭い、臭いと空をかく。ただよう和やかな雰囲気、それは今日の一件が終わったことへの褒賞だった。
——ゆえに。
——光柱を眺めているアルバですら気が付かなかった。
——光柱の最奥で黒い何かが蠢いたことに。
次話投稿は10月10日19時を予定しています。




