変わる日常
11月17日月曜日、ヘルガはいつものように学校へ登校した。いつものように授業を受け、昼休みを迎えた。普段だったらトーマスあたりと会話をしている頃合いだったが、あいにくと彼は今日休んでいた。いや、トーマスだけではない。クラスの大体三分の一以上が示し合わせたかのように欠席していた。
その日、普段よりも早く学校へ到着し、まばらに座っているクラスメイトを見た時のヘルガは特に何も思わなかった。極方の雪原にも似た閑散とし、冷えた雰囲気が漂う教室はいつもの賑やかで会話が絶えない教室と比べて非常に心地良く、瞳の痛みが薄れていくきらいすらあった。星座関連で借りてきた神話の本を読みつつその静寂にヘルガは身をゆだね、ひとときの安寧を貪った。
だが15分も過ぎたころくらいに異変に気がついた。待てども待てども教室内の喧騒が大きくならない。会話はまばらで希薄、いつものような騒がしさもなければバカ話もない。人は細々と隅で固まり、二人か三人の小さなグループで会話をしている集団がほとんどだ。
教室を端から端まで見渡すと、すぐに理由はわかった。もうすぐ8時20分になるというのに人が少なかった。三十人しかいないクラスだったがそれがどれだけ数えても二十人かそこらしかいなかった。常ならばちょっとうるさいクラスのムードメーカーがいなかったり、ちょっと声が大きいスポーツ男子がいなかったり、女子グループのお局様がいなかったりとクラスの中心人物と呼べる人間がいなかった。その中にトーマスとシルヴィアも含まれていた。ヘルガの席の前と後ろに座っていた男女もおらず、会話の相手は完全に消えてしまっていた。そんな立場のクラスメイトが数人できれば人の少なさも相まって一層会話は希薄になる。
だがたかが数人の欠席者だったら教室の閑散っぷりはそこまでではなかった。授業を重ねていくにつれ、一人、また一人と相次いで生徒が体調不良を訴えて保健室へ走り、その後早退というケースが何度も何度も起こった。多い時には一つの授業中に四人もの生徒が席を立ち、保健室へ走った。
休み時間、珍しく教室の外へ出てみればさらに異常なことに気がついた。廊下を行き来する生徒の数が明らかに少なかったのだ。いつもの廊下ならばわらわらと生徒が歩いているはずなのだが、隙間が空くくらいには生徒がいなかった。普段ならば並んでいるはずの冷水機には一人も並んでいない。トイレも、廊下のロッカーの周辺にも人だかりができていなかった。
それは昼食の時も同じだ。一階のカフェテリアもいつもは長蛇の列を成しているというのに今日に限っては列こそあるが、どこか物寂しさを感じさせる。丸テーブルに座っている生徒の数もまばら、ゴミ箱もいつもは汚いくらい溢れているのに今日に限っては綺麗なものだ。
目に見える異常、明らかな異変、しかし気にする素振りを見せる生徒は一人としていなかった。まるで平常運転、いつも通りに教師は授業を進め、生徒は授業を受けていく。いつも通りに予鈴は鳴り、白板をすべるマーカーの音がキュッキュッと鳴る。
食事中もかすかにだが会話が聞こえる。会話をしている生徒達は、配膳する職員達は笑っている。笑顔の只中に彼らはいる。ああこのステーキサンドイッチは美味しい、今日の野菜スープはちょっと豆が多いとか、そんなありきたりな会話が飛び交っていった。
それを外から見ている時、この上ない異物感がヘルガを襲った。自覚はしつつも認めきれていなかった日常との乖離がくっきりと浮き彫りになり、ヘルガ・ブッフォという人間が決定的にこの場にいるべきではないことがまざまざと見せつけられているようだった。
だって彼らの行動や会話は普通なことだ。生徒が授業を受ける、食事の味、中身に感想を言うことなんて学校生活はいつでもどこでも見る光景のはずだ。なんで疑問を抱いてしまうのだろうか。
そう思うとわずかにだが両眼が傷んだ。別に黒いものを見たわけではないのに両眼が熱を帯び、同時に異様な吐き気が喉奥から込み上げてきた。何もない空間を睨みながらヘルガはその吐き気を抑え、カフェテリアから離席した。
人気のない階段まで登り、息を荒げながらゆっくりとヘルガは両眼から左手を離した。痛みはどんどん増していっているように感じられた。血管が何度も正体不明の脈動を繰り返し、それは鼓動するごとに大きさを増していった。金曜日までは何もなかったのに、月曜日になってこれだ。
「ヤマグラ」という言葉が脳内を反響する。明らかな異常の陰にあるとすればその言葉が一番しっくりときた。分散した意識の統一を成す信仰の文句。でもその言葉はヘルガが知るよりも前から生徒達の間では流行っていた言葉だ。アルバから教えてもらうまでヘルガが知らなかっただけで、トーマスやシルヴィアは当たり前のように知っていた。
だから直接的な瞳の痛み、生徒の欠席、日常の異変の正体は「ヤマグラ」ではない。それ以外の何かだ。いよいよ考え方が日常から乖離してきたな、とオカルトじみた考えにヘルガはため息をついた。余計な知識、使い物にならない知識をアルバに植え付けられたせいだ。
そんなアルバへの悪態をついていた時、ふと彼が言っていた「へカーテの棺」について思い出した。それが盗まれたのは金曜日の深夜ないし土曜日の深夜のことだったらしい。時系列としては符号する。もし「へカーテの棺」が持ち込まれたのだとすれば、この眼痛も異変の元凶かもしれない。
「へカーテの棺」についてはアルバやその隣に座っていた少女も詳しいことはわからない様子だった。よくわからないから例の炎上美術館に収蔵した、とあの老神父は言っていた。今日の異変のすべてを起こせる能力が「へカーテの棺」に備わっていたとしても決しておかしなことはない。
安易で情弱な考え方だ。たまたま時間が合うからというとても浅はかなフラッシュアイディアに寄った、自分にとって都合が良すぎる考えだ。どうやって棺を校舎に入れたのだとかただの偶然なんじゃないのかとかツッコミどころなんていくらでも沸いてくる。
だけど考えれば考えるほど「へカーテの棺」という安易で万能なお助けアイテムにすがってしまう。さながらパズルゲームの凹凸をハサミで切って勝手に符号するピースを作っているようだ。考えはどん詰まりで、それ以上は前進も後退もできない。一度そうと考えてしまったことを人間は捨てることができなかった。捨てようという気概すら起きなかった。
深呼吸と共にヘルガは二階へと走った。休み時間は13時30分まで、校舎をひとまわりするには十分すぎる時間がまだ余っていた。順繰りに回っていき、どこかで黒いもやが見えたらそこに棺がある可能性が高い。そんなあやふやな探し方でヘルガは階段を上に上に登っていった。
二階、何もない。三階、何もない。そして四階。
すでに時間は13時15分を回っていた。外見以上に広いことで定評があるヘルガの学校はワンフロアを見て回るだけでかなりの時間が必要になる。このまま五階まで回るのは無理だな、と首筋を伝う汗を拭いながらヘルガは一歩踏み出した。
四階に来るのは久方ぶりだ。金曜日振りだろうか。トーマスに案内されたばかりだったので比較的フロアの構造は憶えているつもりだった。しかし現実は彼が思っていたよりも非情だった。普段は入らないフロア、ただでさえ迷いやすい学内の部屋割り、このダブルコンボのせいでヘルガは少し道を外れて早々迷ってしまった。
右へ行っても左に行っても楽器室だったり、理科室だったり図工室だったりとよくわからない部屋に入っては別の部屋へ移っていくというよくわからない作業を何度となく繰り返した。その挙句帰り方を忘れてしまった。
四階と五階は教室の数が異様に多いことは知っていたが、まさかここまで色々と乱雑だとは思っても見なかった。方々を駆け回った挙句、通り過ぎた教室の時計を見ると13時25分を回っていた。
やばいやばいとヘルガは駆け足になるが、足の速さで時間の問題が解決できるわけもない。
「おや、どうしたのかな。もうすぐチャイムが鳴ってしまうよ?」
——その矢先、ピリリと目端が傷んだ。声のした方角を振り返り、とたんに眉間に皺が寄った。いつの間にか背後に立っていたそのアジア系の教師は柔和な笑みを浮かべ、ヘルガへ右手を差し伸べた。
しかし彼の体、首から下にずっと求めていた黒いもやが視えた。
次話投稿は8月20日19時を予定しています。




