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ヤマグラ・カグラ・アクラ

 11月14日、ヘルガ・ブッフォは意を決した酒屋の店主のようなやつれた表情で登校した。いつ以上の表情の暗さに彼が教室に入ると、クラスメイトの何人かが振り向いて目を丸くして彼を見つめていた。ヘーゼルグレーの澄んだ瞳が充血しているせいで赤黒く見え、さながら幽鬼のように見えたことだろう。自分のことを見てあからさまに距離を取った級友に気づき、盛大なため息をヘルガはついた。


 頭の中で何度も昨日アルバが口にした「ヤマグラ」という言葉を反芻し、咀嚼する。ヤマグラ、ヤマグラ、ヤマグラ。何度反芻しようとやぼったい発音だ。なぜこんなエスカルゴを上顎に這わせるような発音をアルバは言えるのだろうか。東洋の言語によく似ているが、それにしては柔らかい発音だ。


 発音もさることながらあまり聞いたことのないイントネーションが混ざっている。東洋の言葉はいつだってそうだ。妙に角張り、妙な筋肉を使わせる。ヤマグラにしたって、そうだ。上顎に舌を這わせたかと思えば下顎に力を入れるという変な言葉だ。これを日常的に「使っているとしたらそれはもう下顎モンスターになるのではないだろうか。


 このたった一言がヘルガを悩ませていた。アルバが、あのアルバが言うくらいには重要な言葉なんだろう。ネットでも調べてみた。だが該当する言葉はでてこなかった。つまりは造語、ないしアルバみたいな魔術師が使ってる言語かなんかなんだろう。おお、だったらどうしてアルバは、あのクソッタレな老神父は学校で聞いてまわってみろよ、と言ったのだろうか。


 誰かに聞こうかな、とヘルガはあたりに視線を向けるが、誰もいない。ヘルガを見ている級友は何人もいるが、近づこうとはしなかった。これは昨日ぐっすり眠れなかったからだな、とヘルガは眼球をまぶた越しに触った。まぶた越しに伝わる熱が絶えず痛み続ける眼球にじわりと広がっていく。それで何がどうなるわけではないが、少しだけ心が落ち着く気がした。


 目を閉じていると穏やかな気持ちになるからかもしれない。人間は情報の八割を視覚から得ると言うし、目を閉じることで心の安定を図る瞑想というやつはあながち間違いではなかったのだろう、と一人で納得しているとバンと唐突に背中を叩かれ、ヘルガは開眼した。


 「よぉ、ヘルガ。ひっどい目だな」

 「ああ、うん。ちょっと寝不足でね。……いやそれは嘘か」


 「へぇ?嘘って認めるなんてヘルガらしかねーなぁ。アリンコでも潰すくらいあっさり嘘ついて誤魔化して壁をつくるのがヘルガだったろ?」


 意地悪な級友は笑う。ひょっこりと視界の外から顔を現し、からからと朝から元気に、朝だからこそ元気に彼は笑った。さながら親しい友人の成長を喜んでいるかのように、頼られることを喜んでいるかのように。同義ドーギーというやつだ。


 トーマスに笑われて、ヘルガは瞳を薄めた。それまでは充血していたはず、痛くて仕方なかったはずの瞳からすとんと何かが消えた気がした。


 「実はちょっとトーマスに聞きたいことがあるんだよ」


 意を決してそう言ったヘルガに対し、トーマスは一瞬だけ瞑目し静かに頷いた。それが彼の中で何かの皮切りになったのかもしれない。開眼した時のトーマスの表情はいつもよりも輝いて見えた。それがヘルガ自身の心境の変化から来る幻覚的なものなのか、トーマスの素の表情なのかはわからないが。


 「何を聞きたいんだ?」

 「やm ……」


 「ほーい。席に座んなさーい。ホームルームをはーじめまーすよぉ」


 ヤマグラ、と言おうとした矢先、その声は入室してきた担任の教師の声に遮られた。ヘルガやトーマス、シルヴィアのクラスを担任している初老で恰幅のよい老教師で、社会科を担当している。ノリが軽く親しみやすいが、ルールには厳しい教師の典型例のような人だ。


 「ほら、そこのお二人さん。早く自分の席にお座りなさい。お話はホームルームの後になさい」


 ただし厳しいという話もどこか艶かしくもねっとりとした彼の声や口調を聞いてしまえば氷解する。融解する。後悔する。とかくがっかりする。トーマスが毒気にやられ、自分の席に戻ると老教師は笑顔を取り戻し何事もなかったかのようにホームルームを始めた。


 「えーそれと明日からぼくは有給とって極東に行きますんで、代わりの先生が来ますよ。ランジョー先生って人です。まー大体一週間くらいいないんで泣かないでね?」


 特にメソメソと泣く人間は誰も現れなかった。


 「じゃ。朝のホームルームは終わりね。アディオスアミーゴ?」


 耳馴染みのない別れの言葉を口にして老教師が出ていくと、待ってましたとばかりにトーマスがヘルガの近くまで椅子を持って颯爽とかけてきた。シルヴィアがそれを見て眉間にしわをよせる姿をヘルガはちらりと視界の端で捉えたが、彼女が何かを言う気配もなかったので無視することにした。


 「それでなんだよ、聞きたいことって」

 「あーうん。トーマスはさ、ヤマグラって知ってる?」


 特に情緒もなく、間も置かず、一呼吸を置くことすらなくヘルガは率直にトーマスに疑問を口にした。これで何もわからなかったらアルバに直接聞こう。だが意外にもトーマスはその言葉に心あたりがあったようで、きょとんとした表情を浮かべてみせた。


 「ヤマグラって、そりゃ知ってるけどさ。なんだってヘルガがそんなもんについて聞きたがるんだ?お前ってそんなオカルト趣味だっけ?」


 「オカルト?悪いけど僕にそんな趣味ないよ。ていうかそもそもヤマグラがなんなのかも僕は知らないんだ」


 なるほどね、とトーマスは何かを思案するように口元に手を添えた。顔の彫りが深いせいか、何かを思案している姿がとても絵になる。トーマスの返答を待つわずかの間、ヘルガの瞳は口元に微笑を浮かべる彼だけを見ていた。


 改めて見てみれば黙っているトーマスはとても絵になる。彼女という絶対の美の象徴を知っているヘルガの目線から見れば十段階評価中五といったところだろうか。ちなみにヘルガ自身が下した自分の容姿への評価は三だ。とかく黙っていればイケメンには違いない。だが喋ると残念だ。残念にすぎる。まるでアルバみたいだなぁ、と強面の老神父を思い浮かべながらヘルガは薄い笑みをこぼした。


 「そうだな。うん。ヤマグラってのはさ、最近流行ってるまじないだよ、まじない」


 そんな人間観察もどきをしているとトーマスが口を開いた。彼の口からもたらされた言葉にヘルガは目を丸くしてみせた。


 「つってもこれを唱えりゃ願いが叶うなんて代物じゃないぞ?なんでもこれを唱えるとちょっとだけ記憶力が上がる、とか脳が整理しやすくなるって奴さ」


 「うっそくせぇ」

 「わかる。わかるよ?でも実際に効果があるってさ」


 うさんくさい話だ。トーマスは大真面目に言うが、ちょっと信じがたい。そんな簡単なまじないで記憶力とか整頓力が上がるのならこの世に浪人生はいないし、記憶力がアップしますといううさんくさいサプリは存在しない。言うなればトーマスの話は詐欺師の伝聞だ。


 「ヤマグラ、ヤマグラって唱えてるとなんか脳が研ぎ澄まされるんだってさ。俺も一応試してみたけどそこそこ効果はあったかな」


 「それってプラシボー効果じゃない?」


 「プラシーボ効果な。普通に考えておかしいよな。こんなまじないで頭が冴えるなんてさ。それで出どころはなんだろうかって調べてみたんだよ」


 「何か成果はあった?」


 一応な、としたり顔でトーマスは答えた。


 「今日の放課後にオカルト研究会ってとこに行ってみようぜ?そこの部長さんがヤマグラについて知ってんだってさ」


 「うさんくせぇ」


 しかしせっかくのチャンスだ。棒に振るなんてできなかった。その日の午後のホームルームが終わると二人はオカルト研究会の部室がある四階を訪れた。

次話投稿は8月30日19時を予定しております。

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