日常は崩れ去る
「紅茶なんぞ飲むな、飲むな。頭が麻薬に犯されるぞ」——アルバ・カスター《魔術師》
唐突に、颯爽と現れたアルバは侮蔑的な眼差しでヘルガを見ていた。さながらガラス玉のように無機質で透明、本当にヘルガのことを見ているのかさえわからなかった。ある種の諦めがそこにはあり、ある種の落胆がそこにはあった。タバコをかじる歯並びはズレ、耐えず落ちる灰が溶解した鉄を彷彿とさせた。
感じる感情は多数、その中でも秀でていたのは怒りだ。並んだ歯の奥では舌が波打つ音が聞こえ、無言の圧力をアルバはかけてくる。彼が近づくにつれ、心臓が早鳴り、瞳孔が収縮と拡大を続けた。呼吸の感覚が狭まり、開いた口が閉じる前にまた広がるといった意味不明、理解不能な行動を繰り返した。
「ヘルガ、ちょっとおめぇ鈍くなったんじゃねぇか?」
見下すようにあるいは咎めるような口調だった。歯の裏側にすいよせた頬の内側が弾けたような音と共にアルバはヘルガの目の前にまで移動した。威風堂々、微塵もヘルガ・ブッフォというちんけな殺し屋を恐れてなどいない。むしろヘルガの方が彼に恐れを抱くほどだった。
威圧するアルバをヘルガは睨もうと眉間に皺を寄せた。右手を強く握りしめ、両足に力を込めた。体躯は圧倒的に劣っている。ならばヘルガの勝ち筋は不意打ちからの一撃離脱しかなかった。相手がなぜ尋ねてきたのか、ヘルガは知らないが彼の来訪が日常を破壊することは確実だ。
たとえ自分が日常という名の見目麗しい犯し難い概念を犯していた、強姦していたとしても、それを同じ世界の住民に咎められる謂れはない。同じ土壌に立ち、同じ水を吸った人間がヘルガの実在を咎めるのならば、それはもはや嫉妬と言わざるをえない。嫉妬から来る怒りに身を震わせ、あまつさえ襲撃をかけてくるなどちゃんちゃらおかしいではないか。
あからさまな敵意にあからさまな叛意で返すヘルガをどう思ったのか、再びアルバは口を開いた。文言はさっきと変わらない。「鈍くなったんじゃねぇか」だ。
鈍くなったなんて同じ世界の人間には言われたくない。同じ世界の人間に関わってほしくない。すべからくそれは同族嫌悪だ。すべからくそれは自己否定だ。自分の領域に入るな、と高らかに宣言し殴りかかるか否かをヘルガは頭の中で協議し始めた。そして集まったヘルガの脳細胞達は満場一致で彼に死を与えよ、と叫んだ。
だがその前に。そう、殺す前に話そうじゃぁないか。
「どうして今更僕の前に現れるんだ」
それは当たり前の疑問だった。むしろこの疑問なくして話は進まない。本来現れることがない人物が現れてはいけない場所に現れた。それは異常で意外で異質な出来事だ。男が女子トイレに入る、女性が小便と脱糞をする時に便座に座らない、スーパーヒーローが無関係な人間を巻き込まず殺さない、の三つに並ぶくらいには異常で意外で異質な出来事だ。すべからく全ての死者は地獄でミノスの判決を待つのと同義で、魔術師は魔術の世界に引きこもっていればいい。
憤るヘルガの反応は当然だ。蓋然性なんて1000を超えて万や億にまで見積もっても構わない。ヘルガという染みに引き寄せられてもう一つ染みが増えた、と言ったところでそれはチンケな言葉遊びにすぎない。ヘルガはヘルガの領域でヘルガの領分でヘルガの管轄でヘルガの視界で魔術師なんてものは存在して欲しくなかった。だから蓋然性は常に天元突破している。
「なんで僕の前に現れたんだ。僕の周りには僕以外に悪性の腫瘍はない。その僕という腫瘍すら肥大することができずに腐っているんだ。なんで今更、アルバが」
ヘルガの言葉に嘘はない。彼はいつだって異質だ。トーマスやシルヴィア、数多の同級生達とは根本的に生きている世界が違う。それは決して自意識過剰だとか思春期特有の病だとか自己否定の類では決してない。ありえないはずの異物が、言ってしまえば毒を吐くヒュドラがどうして都市の市民と暮らせるだろうか。ああ、例えなんてなんだって構わない。兎にも角にもいてはいけないのにいるはずのヘルガは自己を正しく認識していた。にもかかわらず図々しく日常にとどまる。厚顔無恥極まれりだ。
それはアルバに咎められずともわかっている。わかっていることだ。瞳を細めるヘルガ、それをアルバは心底失望したかのような盛大なため息で迎えた。
「なにクソめんどくせぇ拗らせ方してんだ、クソガキ。オレが、このオレ様がなんだってテメェの自己嫌悪に付き合わなきゃいけねぇんだよ。根本的にテメェはズレてんだよ。ああ、ズレまくってる。バケモンが人間の中に混ざってることの何が悪だ?誰が悪だなんて決めたよ。神か?悪魔以上に聖書ん中で人を殺しまくった神様ってやつか?あんな自分ルールの権化、ルール破りの権化、自堕落にして無知蒙昧な紙屑の束しかわたさねぇ鼻くそほじくった手でスコーンをはむような野郎のルールなんざ知るか、クソボケ茄子が。
テメェの欲望はテメェのもんだろうが、他の誰が文句を言う?言えんのは被害者だけだ。加害者だけだ。いやはやここまで拗らせるか、普通。やっぱアレか。レアリティロスか。ホームシックみてぇなもんか?笑って登校して結局これか。あークソ。こりゃクソだわ。なんだよ、なんだよ。なんのためにはるばるこんな自分のケツの拭き方忘れてケツ丸出しにしながら拭き方ググるような国にまで来たんだ、オレは。失望、呆れ?そりゃすんだろ、ダボが。オレはまだテメェが鈍ったなぁしか言ってねぇのに敵意丸出しで睨んできやがるとか、おいおいこの国の奴らはみんなこんなクズか、えぇ?」
ああ最悪、ああ最悪とアルバは緊張を崩してうなだれた。その様子はさながら空気がもれた風船のようだった。爆発しそうだったアルバの怒りの栓があっさりと抜かれ、堰を切ったような罵詈雑言が神に、国家に、ヘルガへと雪崩れ込んだ。そのあまりの言葉遣いに悪口を言われているはずのヘルガが萎えてしまうほどだ。
「最初にオレぁ言ったよなぁ?てめぇ鈍くなったんじゃねぇかってよぉ。つーか、そうとしか考えられねぇんだわ」
どういうことだ、とヘルガは眉間にしわを寄せた。アルバの言っていることは全く意味がわからない。何が鈍くなった、何が衰えた?うるせぇ引っ込んでろ!
「睨むなよ。バカがバレるぞ。というか、ああ。まぁテメェじゃぁ気づかなくても当たり前か。存外テメェの眼はあくまで異能と人外を見分けるくらいにしか使えねぇもんなぁ」
それを言われてヘルガもうこれ以上ないほどに口元を歪めた。貶されていることは伝わる。最初からアルバのお口は罵詈雑言しか口にしていない。口元を歪め、何が言いたいんだ、と返すヘルガにアルバは冷涼な笑みを浮かべて、彼の後ろを指さした。何があるんだ、とヘルガは振り向くが、何も見えない。いや、何かあるはずもない。あるのは群衆だけだ。大通りで棒立ちのままでいるヘルガとアルバの方がよっぽど邪魔で、行き交う通行人の何人かは眦を決していた。
振り返るヘルガは何が見えると言うのか、とアルバに聞き返した。アルバは冷えた笑みを浮かべたままただ指差し続けた。そして一言、見えないのか、とだけ言った。見えない。何も見えない。何か見えていいはずがない。見えるのは群衆、見えるのは帰宅の帰路についた奉公人、あるいは路上で惰眠を食い潰す浮浪者達だ。
「見えないお前に一ついいことを教えてやろう。ヤマグラには気をつけろ」
「ヤマグラ?」
「そうだな。明日学校に行ったら誰かに尋ねてみろ。尋ねていい返事が返ってきたらここに来い。今と同じ時間帯にオレはいる。オレは確実にここにいる」
それだけを言い残し、いまだに脳内で疑問符の舞踏会を催すヘルガを置いてアルバは群衆の中に消えていった。180センチを超える長躯が群衆の中に消え、ヘルガはひとりぼっちになった。
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次話投稿は8月28日19時を予定しています。




