崩壊を告げる死神
どうして。どうして。どうして。
ヘルガの脳内を疑問符が駆け巡り、動揺はそれを超える速度で疾走する。自室のドア、窓の鍵を締め、カーテンをかけベッドの中にうずくまりながらヘルガは自分に声をかけてきた赤髪の女のことを思い返す。
今朝の夢が今になって鮮明に思い返されてきた。深夜、月明かりもか細い住宅街でヘルガは赤髪の女を廿一の肉片えと切り飛ばした。無抵抗にして非暴力、ただ声をかけようとした罪もない女性を有無も言わさず残忍に冒涜的に殺した。
夢ならばいい。そういう夢もあるさと割り切れる。所詮は夢の中の話だ。罪に問われることもない。だが現実に夢の中で殺した女が出てきてヘルガはかつてない焦りと動揺を覚えた。
正夢、偶然だなどと言われて信じられるほど今のヘルガは冷静ではない。心臓の鼓動はかつてない速度で早まり、汗は眉間に、手の平に、背中に滲み出る。息はどんどん荒くなり、瞳は乾燥したせいかひどく痛い。地獄の四重苦を精神的に味わっているかのような錯覚すら覚え、喉奥から酸味を帯びた何かすら込み上げてきそうだった。
確かにほのかな肉の感触を覚えたかもしれない、とヘルガは汗でベタベタになった手の平を見て思い始めた。夢の中で彼女を殺した時、全能感に満たされていた。自分が世界の支配者にでもなったかのような圧倒的な高揚感を覚え、笑顔のまま彼女を殺した気がする。
彼女を切りつけ、驚くほどあっさりと美麗な体が醜い肉片へと変わった時、中身の美しさに衝撃を受けた。体が流麗である人間は血の色、内臓の並び、血管の伸び筋まできめ細やかで、見ていて不快な気分は一切覚えない。血の匂いも決して不快なものではなく、簡単にトリップできるほど高純度な麻薬にさえ思えたほどだ。
体そのものがありとあらゆる側面で至高と言えた。それを夢の中いや確実に自分は現実に夜の内に殺害した。徐々に彼女を殺したことが現実であると考え始めたヘルガは再度夜の出来事を思い出そうと深く赤髪の女をイメージし始めた。
あの夜、唐突に出会った彼女は何かを言おうとしていた。道を聞こうとしたのかヘルガ本人に用があったのか彼にはわからない。なぜかは知らないが殺してしまえとナイフを持っていた時に感じ、気がついたら女の体はバラバラになっていた。
そこからどうやって彼女が五体満足で復活したのか、ヘルガは頭を悩ませた。死者が生き返るなど荒唐無稽な話だ。ギリシア神話じゃあるまいし、一度死ねば人間はそれまでだ。
「ひょっとしておばけ?」
あまりに突飛な発想が思い浮かび、ヘルガの口から乾いた笑みがこぼれた。自分でもどうにかしていると思い、ヘルガは顔を上げる。
ヘルガが枕から顔を上げると、かぶっていたシーツがほろりと落ちた。目の前の鏡に自分の顔が映る。ひどい顔だ。日頃から暗い暗いと言われた瞳は目が充血しているせいで暗いを通り越して狂気性すら感じさせ、髪の毛の色と妙にマッチしているせいで悪魔か何かのようにすら思えた。鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていることも相まってとても人様にお見せできる容姿ではなかった。
だがそんな容姿のことをヘルガが考える間もなく、部屋の扉がガンガンと鳴った。ビクリと肩が揺れ、シーツへと手が伸びる。ドアノブを何度も回す荒っぽい音が聞こえ、その都度乱暴にノックする音が聞こえた。昔父親が見ていたホラー映画のワンシーンを連想させ、いつあの赤髪の女の顔が扉の隙間から出てくるのかビクビクしたままヘルガは万が一を考えて窓へと走った。
だが一向に女が入ってくる気配はない。何度も扉を叩いたり、ドアノブを回す音は聞こえるのに。不思議だなと思い一歩だけヘルガは前進した。近づくと「開けろ、開けろ」と繰り言のように赤髪の女が吠えていることがわかる。どうして自分に干渉するんだとヘルガは心の底から己の運命を憐れんだ。ほっといてほしかった。殺したことに恨みがあるならせめて寝ている時に首をしめて殺せばいいじゃないか。なんで目の前に現れて殺すんだ。どれだけ殺されたことが悔しかったんだ!
確かに殺した時の感触はかつてないほど素晴らしかった。絶世の美女との蜜月などこの世の男性にとって丹下位すべからざるほどの幸福であることだろう。それに酔っていた。そう、酔っていた。
「僕は酔っていたのか?」
酔っていたかもしれない。情熱的に酔っていた。なんで殺そうと思ったのか、不意にヘルガは理解した。宇宙創世の秘密を解き明かした賢人かのように驕り高ぶり、彼は瞳を輝かせ天井を仰ぎ見た。
「ああ、僕は恋に酔っていたんだ」
殺した時、確かに感じ入るものがあった。アリやカエル、その他の動物を殺した時、星を眺め甘露に浸っていた時とは全く別の無邪気ながらも可憐で荘厳で凛々しくて優美な感情の正体はまさしく「愛」だ。
誰かの息の根を止めた時、長年保存されていたワインを飲み干したかのような多幸感に満たされたのだからそれは愛に違いない。自分の中で飛躍的な論理展開ならぬ論理崩壊を疑うことなくヘルガは笑顔をたたえて瞳を輝かせた。じわりと熱くなる瞳こそ何よりの証、人は恋をした時、恋慕を抱いた対象を見れなくなるものだ。それはあまりに尊すぎるから、俺意外の誰かが汚す姿が見たくないからだ。
いつだって恋はふとした瞬間に訪れる。叶わぬ恋を前にして絶望する中、ふと舞い降りた自分を必要としてくる誰かへの愛情が移ろうのはよくあることだ。その人物があまりに眩しすぎて人は目が潰れる。今、その感覚を味わっているのだからまごうことなく抱いている感情は愛に他ならない。
ドアノブをひねるヘルガにもう迷いはない。扉を開け、その前に立っていた赤髪の女を招き入れることに躊躇はなかった。
「ようやく入れてくれたんだ」
赤髪の女はゆったりとした仕草でヘルガの部屋の中に入ってきた。ヘルガを警戒しているのか、彼女と彼の距離はち縮まらない。ヘルガ自身も恋愛感情を抱いているとはいえ自分から距離を詰めようとはしなかった。警戒しながらも美しい赤髪の女の容姿に見惚れていたからだ。
「それで幽霊が僕になんの用だ?」
「幽霊?この私が?」
「だってそうだろ?僕は昨日、多分あんたを殺したはずだ。ナイフでバラバラにした」
そう言われて女は何かが腑に落ちたのか、小ぶりのアーミーナイフを取り出した。その辺の雑貨店に行けば簡単に入手できる極めてスタンダードなタイプだ。
「君の言っているナイフってこれのこと?」
彼女の問いにヘルガはほくそ笑み、深く頷いた。ナイフを彼女が持っているということはつまり昨日の夢が現実の話だったということだ。それはヘルガが抱いた恋慕の肯定に他ならない。
「不思議ないのよね。どうしてこんなナイフで私が死んだのかが、ね!』
言うが早いか女はナイフの切先を立て、左手に叩きつけた。あまりの突飛な行動にヘルガは目を見張る。だが本来流れるべき赤い血が女の手から流れないのを確認し、さらなる動揺が生じた。
「私が市販品のおもちゃで傷つくわけないじゃない。だって私は死神なんだから」