日常
「私は私の教え子を傷つけることは断じてない」
一時の日常、一時の友情、一時の愛情に包まれし平穏な世界は人間を包み込む。この世の悪意なき悪性から眼をそむけさせ、自らの平穏をどうして享受できるのだろうか。
ヘルガ・ブッフォは平穏な日常を取り戻した。ありふれた学校生活、気の良い友人、どこからどう見ても彼の日常に曇りはない。曇らせる要素しかなかった。おおよそ一月半の休暇期間、その果てに老魔術師は現れ彼に話しかけた。
「ヘルガ、ちょっとおめぇ鈍くなったんじゃないか?」
11月13日の木曜日、アルバ・カスターは彼の前に唐突に現れた。休暇期間は終わりだ、働け、と言外に言う彼にヘルガは……。
ここは分水嶺。ここは天王山。ここはルビコン。すべてにおける境界線にして最後の一線。ここより先は死地にして脱出不可能の領域なり。
——自らの罪禍を洗い流すため黄昏時の神々は鳴動する。これはその序章なり。
小鳥のさえずりが少年の目を覚ました。
目を覚ましたからといってすぐには起き上がらなかった。しかし窓から差す日光が顔を照らし、それがわずらわしくてしょうがなくなってヘルガ・ブッフォはたまらずベッドから跳ね起きた。勢いよく起き上がったせいでしばらく頭が痛かったが、その痛みが引きはじめると思考が明朗なものへとなっていった。
ぼやけていた視界がはっきりとしはじめ、血流の流れがスムーズになっていった。鏡越しに見るとひどい寝癖と顔だ。よだれが頬までかかっていた。その証拠に朝の日差しに照らされて頬がテカテカしていた。
朝の寝起きの時独特の詰まっていた空気が抜けていく感覚を堪能しつつベッドから降り、ヘルガはロッカーへと手を伸ばした。私服と呼べるものはほとんどなく、異様に整えられた制服が一式ハンガーにかけてある以外にめぼしいものはない。もちろん下着や靴下は別だが。
指定の制服に袖を通し、めやになど取っていると自然とヘルガの左手は右目へと伸びていった。優しい手つきでまぶた越しに瞳を触るとかすかに脈動していることがわかった。瞳の周り筋肉が熱く、ドクドクと鼓動を奏でているかのようだった。
それは決して比喩表現ではなかった。
発熱し、鼓動をうつヘルガの瞳はまさに生きていた。じんわりと伝わる熱で視神経が湯立ち、寝覚めだというのに顔が熱い。鏡越しに見ると赤、青、緑の三色の螺旋を描いているように見えた。黒目を中心に螺旋を描き続ける瞳はさながらドリルのように奥へ奥へ、あるいは外へ外へと回転しつづける。
なぜドリルと称したかは本当に直接的表現だ。さながらドリルを眼球に刺されたかのような痛みが常にヘルガの視神経を圧迫しているからだ。眼を閉じていれば多少はマシだが、痛みが消えることはない。四六時中耐え難い痛みが走り続けるのだ。日常生活に支障をきたすことは言うまでもなく、ここ一ヶ月の間スプーンやフォーク、ペンを唐突におとずれる激痛によって落としたこと、突然顔をしかめてしまったことは枚挙にいとまがない
そんな瞳を愛おしそうにヘルガはなでる。眼が乾燥した時とは比較にならない痛みが走り続けるが、それは彼にとってなくてはならない痛みだ。
——痛みがなくなったら自分の価値を見出せなくなるから。
「ヘルガー?そろそろ起きてきたら?」
「ちょっと待っててください。すぐに行きまーす」
鏡の前に置かれた小机からコンタクトレンズを取り出し、ヘルガは階下へと降りていった。本来のヘーゼルグレーの瞳を思わせるカラーコンタクトを付け、一階のリビングへ降りるとそこには二人の初老の男女がいた。
老人の方は仏頂面でデイリー新聞を読み耽っている。朝の挨拶をしたヘルガを一瞥すると、おお、とだけ返した。コーヒーではなくココアを飲んでいるあたり甘党なのだろう。腹が出ていた。老婆の方は似合いすぎるエプロン姿でフライパンにのっていたホットケーキを皿の上にのっけていた。降りてきたヘルガを朗らかな笑みで迎え、彼が座る定位置に円形の皿を置いた。
彼らはヘルガの里親だ。あの街での一件で唯一生還したヘルガを引き取ってからもう二週間になる。新しい生活、新しい日常、新しい学校生活。それらはすべてヘルガにとっては新鮮な体験であり、失い難いものだ。
「ちょっと!食事中に新聞を読まないでって何度言ったらわかるんですか?」
「ん?んーうん」
老母にドヤされて老父は手にしていた新聞を机の上に置いた。すると老母は手早く新聞を回収し、テレビの前の小机に放り投げた。一度読むのを止めてもまた読み出すことを理解している者のやり方だ。残念そうに指を加えて新聞を見る老父に老母は睨みをきかせた。
背筋を震わせ、老父はココアが入ったカップへ手を伸ばした。背筋を丸めて肩を小刻みに震わせるその姿は完全に嫁の尻にしかれる夫そのままだった。だが仲睦まじいとは思う。老父と老母の関係は互いに心がおけない関係だからこそ気にせずに色々と言えるのだ。
老母がホットケーキを3枚乗せで老父の皿に乗せると、ことさら嬉しそうに老父はナイフとフォークを立てた。バターやジャム、ハニーをたっぷりりとかけてヘルガもそれに倣う。
「おお、ヘルガ。そういえば学校はどうなの?」
「楽しくやらせてもらっています。友達は……一応一人できましたね」
「それはいいことよ。一人作れば二人目、三人目を作るなんて簡単よ。初めの一人が大事。これ重要よ」
老母はヘルガにウィンクをする。彼女のそんな茶目っ気のある一面が見られて内心ヘルガはほっこりとしていた。もちろん老母が厳しい人物だとか、ヘルガに特別いじわるだとかいうことは断じて無かった。ただいつも忙しそうに家事をしていてテレビを見ているヘルガと老父をどやすのだ。
だからヘルガの老母へのイメージは世話焼きお婆さんだ。もちろんいい意味で。老父は逆に自堕落お爺さんだ。もちろんこれもいい意味で。老父が散歩で出かけることもあるのでその付き添いとしてヘルガが随行することもあった。その時に老父はなるべく老後は楽をしろ、と言っていた。なぜか、と聞くといい嫁を見つけると男ってのはみんな堕落するもんだ、と答えになっていない答えを答えた。
首を傾げるヘルガに老父は笑いかけた。「まぁこの先長い間生きてりゃ意味もわかるよ」と老父は言ったが、わかる未来はないだろうな、とヘルガは片目をさすりながらその時はアンニュイな感情を覚えた。
「それじゃそろそろ学校に行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい。ああ、それとほっぺにジャムがついているわよ」
言われてヘルガが触ろうとするより早く老母がナップキンをほおにあててジャムを拭った。ぐしぐしと力任せにやるものだからちょっとだけ痛かった。
「さ。行ってらっしゃい。お昼は……確か購買で買えるのよね?」
「はい。大丈夫です」
「それじゃぁ学校生活楽しんでらっしゃい!」
老母に見送られ、ヘルガは学校へ続く道を歩き始めた。
次話投稿は8月24日19時を予定しています。




