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愛しています、死んでください。  作者: 賀田 希道
停滞トランジット
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殺し屋の戦い

 途切れかけていたヘルガの意識は石レンガに打ち付けられた衝撃で再び張りなおされた。すくりと立ち上がり、周囲へ手早く視線を移すとついさっきまでいた水面と水平線は消え失せ、代わりに目覚めた時に仰いだ黒い天井が、いや石レンガの天井が目に入った。自分のことを囲んでいた檻はなく、障害物は何もない。目の前の階段を駆け上がり赤い扉へ手を伸ばそうとヘルガは足を踏み出した。


 なんで水面が消えたのか、ヘルガにはわからない。だが消えてくれたのならありがたい。幸いザンニと呼ばれていた黒い巨兵は水面と共に消えてしまったようであの無骨なデザインの巨兵は一体たりとて彼の視界には入ってこなかった。その証拠に両目はわずかに熱こそ帯びていたが痛みは一切感じられなかった。


 そんな喜び勇んで走るヘルガの前には当然と言えば当然だがへクスが立ち塞がった。彼女との距離はわずか3メートル。数歩で近づける距離だ。


 「だめだよ?ヘルガ君はずっと私と一緒にここにいなくちゃいけないんだから」


 ああ、まただ。また足が先に進まない。さながら超スロー再生でもしているかのように足を踏み込んで進む距離があまりに短い。なんらかの能力であることはわかっている。だがヘルガの双眸は異能の影を落とさない。水面で足に触れた時は確かに黒かったというのに、今は普通の制服のズボンしか見えない。


 「ヘルガ君はどれだけ急ごうと私には届かないよ。だからわかって。このままここにいよ?」

 「それは出来ない相談だってわかるだろ。へクスは頭がいいんだからさ」


 「頭の良さなんて意味ないよ。イルカは頭がいいらしいけどシャチに殺されるでしょ?イカやタコは脳が発達しているけど時にはクジラに食べられるでしょ?知能なんていうのは状況に応じて知識を頭の中の引き出しから引っ張り出すためのプログラムに過ぎないんだよ。だったら状況が符合してなきゃ理解はできない。私はヘルガ君が言ったように頭がいいかもしれないけど、それはあくまで符合するからの結果。現に私はヘルガ君がどうしてそこまであの女に固執するのかわからない。符合しないから」


 わずかに悲しそうに彼女は瞳を細めた。潤んだ赫い瞳がスピネルのような深く煌めいて見えた。その瞳の色には少なからずヘルガは覚えがあった。これは他者を理解できないことを悲しむ時の瞳の色だ。多分レアリティのことがわからなかった時の自分はこの瞳の色を浮かべていた。だがへクスの色は深すぎるほどに深い。赫い瞳が充血して濃さを増しているかのようだった。


 ——だけどそれって僕は関係ないよな。


 ペチンと左頬を叩き、ヘルガは彼女に近づこうと再び走り始めた。悲しい顔をしたから溜飲を下げるなんてそんなことがあるわけがない。相手の気持ちなんて知らないし、興味もない。へクスのことは理解できるが、しかしてそれが彼女への同情や憐憫にはつながらない。顔面が潰れるくらい殴ってでもレアリティを取り戻し、最後の起点を壊してこの街を出る。それを邪魔するなら彼女は敵だ。


 そのためにもまずは目の前のよくわからない異能を解決する必要があった。一見すると全く前進していないように見えるが、わずかにだが前進はしている。本当に微々たるものだが。


 「何か考えているみたいだけど、それを私が許すと思ってる?ちょっと痛いけど許してね」


 足を止め考えようとした直後、へクスがヘルガの肩口めがけて赤黒い弾丸を放った。それは着弾と同時にヘルガに激痛を与え、膝をつかせた。赤黒い弾丸が現れる直前にへクスが右手をピストルのように構えていた時にとっさに体を動かしていればと舌打ちをするヘルガを、へクスは冷笑を称えて見つめていた。


 「魔術弾(オラリオ)って言ってね。色々と用途はある魔術なんだけど今はただただ痛みを与えたの。あと何発打ち込めばヘルガ君は気絶してくれるかな?」


 再び赤黒い弾丸が彼女の指先に現れた。今度はすぐにヘルガは下がり、タイミングを見計らって弾丸を避けた。必然ではなく偶然だ。たまたま弾丸を眼の端で追えたから回避できた。たまたま体が思っていた方向へ動いたから回避できた。次できるかと言われればわからない。ひりひりと痛む左肩口を抑えながら慎重にヘルガは距離を取ろうと後ろへ下がった。


 ヘルガが一歩足を後ろへ下げると同時にへクスは弾丸を放った。しかも今度は二発だ。わずかに時間差をつけ、微妙に射線を変え狭い室内でヘルガの逃げそうな場所を予測して弾丸を放った。一発目は避けられたが、二発目は避けられない。ダメージ覚悟で左手に弾丸を食らったとき、彼の左腕に激痛が走り痛みに耐えかねたのかわずかに肌が裂けた。そればかりかだらんと力なく左手が下がり、持ち上げようにも持ち上げられなかった。わずか二発受けただけで左手が使い物にならなくなった事実にヘルガは焦りを覚え、ゆっくりと後退する。


 逃げに徹した直後はわからなかったが、進行方向がへクスでなければ行動が阻害されることはない。逆に彼女に向かって歩こうとすれば足がなめくじにでも化けたのかと思うくらい全く前進しなくなる。だけどまずいな、と自分が壁際まで追い詰められている事実に彼の頬を汗が伝った。へクスの魔術弾は受けれてあと二発。いや初めに二発受けたときだけでもう意識が飛びそうなくらい痛かった。あれをもう二発も食らうとか勘弁してほしかった。


 しかもへクスはヘルガが接近しないように常に彼の真正面に移動している。一般的な教室よりも狭い部屋の中だ。例え赤ん坊とオリンピック選手でも時間差なく追いかけっこができてしまう。ヘルガが逆Lの字状に階段を目指そうともへクスはすぐに彼の目の前に立ち塞がるだろう。


 「でも進んではいるんだよなぁ」


 そう、足は前に進んではいる。つまり完全に体がおかしくなっているわけではない。おかしくなっているのは距離、でもない。距離は正常だ。足の速度も目に見えている限りは正常だ。つまりおかしいのは……。何かに気づいたと思った矢先、彼の頭蓋があった位置を赤黒い弾丸が射抜いた。


 こうして考え事をしながらへクスの銃弾を避けられるのはヘルガが距離を取っていること、彼女の射撃の腕が下手くそなことが原因だ。距離なんて5メートルかそこらしか離れていないのにへクスはかなりの数の弾丸を外しているし、ヘルガは同じ数の弾丸を避けている。


 だが体力のアドヴァンテージは向こうが上だ。避けるだけで体力ばっかり消費するヘルガ、見かけ上は指をピストルの反動のように上下移動させているだけのへクスでは体力勝負にならない。息切れを起こし始め、ついに鳩尾に赤黒い弾丸が命中した。牡蠣を食べた時のような絶望的な腹痛が鈍痛へと代わり絶え間なく押し寄せた。動きが止まりへクスの猛攻がヘルガに襲いかかった。たまらずヘルガは左へ飛んだ。


 「よく避けるね。でもそろそろ終わりじゃない?」


 もはやしのごの言っている暇はなかった。さながら蟻を痛ぶる近所の悪ガキのような好奇心からくる気持ち悪い表情を浮かべるへクスは十本の指すべてに赤黒い弾丸を灯した。痛みを食らうこと覚悟でヘルガは一歩前へ踏み出した。その行動が予想外だったのかへクスは目を丸くする。わずかな躊躇、その間にヘルガはさらに一歩ゆっくりと前進した。


 彼の一歩はとてもゆったりとしていた。さながらパントマイムのスローモーション劇のような長時間をかけて一つの芸だった。とても銃弾を前にしている人間の行動ではなく、事実弾丸を構えていたへクスも一瞬呆けてしまっていた。それは仕方のないことだった。ヘルガの手が彼女に届く距離についた時、ようやくへクスは平静を取り戻し苦笑を浮かべた。


 「反比例してるんでしょ?」

 「ふぅん。よくわかったね」


 両者の距離は1メートルに満たない。ヘルガの拳は振ればへクスを捉えられた。


 「進む距離は一定、歩く速度も見る限りは変わらなかった。ただし歩く時間は変わる。足早に動こうとすればそれだけ時間がかさむ。水面でもここでもそうだった。そこで発想したのが速ければ速いほど歩く時間が長くなるなら、逆に遅くしたらどうなるんだろうかってこと。結果はビンゴだったよ」


 「でもそれで私の銃弾はどうしようもないよね?」


 「あ、ほんとだ」


 「バカなの?」


 ズドンと十発の赤黒い銃弾すべてがヘルガの腹部に命中し、彼は意識を失った。


✳︎


次話投稿は8月8日19時をを予定しています。

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