デイルアート市の日常Ⅱ
「おはよ、ヘルガ君」
「ああ、おはようヘクス」
マックスがいなくなりやることもなかったので教科書に目を落としていると彼に挨拶をしてきた人物がいた。顔を挙げ挨拶を返すとその人物は優しい笑顔を口元にたたえた。
「いつも一緒にいるマックス君は?」
「お腹が痛くてトイレだって」
「ふーん、そりゃ大変だ」
可愛げに人差し指を顎に当て、ヘクスは口元をつぐんだ。所作の一つ一つが可愛らしくあどけなさを感じさせる。異性を惹きつける白いプラチナブロンドの髪をたなびかせ、赫い瞳が朝の日差しに照らされて怪しく光る。目を疑うほど肌は白く薄く、白いミニドレスとの相性は抜群で彼女ために仕立てられたと言っても過言ではなかった。
異性から見ても同性から見ても魅力的に写り、それでいて人当たりのよい彼女がクラスで人気者でないわけがない。クラスで一人はいる誰とも付き合える才能の持ち主こそへクスだ。
そんな彼女をヘルガが異性として意識してしまうことは自明と言えた。それが単なる横恋慕であり決して叶わない恋だとしても想わずにはいられなかった。自分の今の立ち位置がもどかしく思うことも多々ある。どうして自分は彼女らの輪の中に入れないのだろうか、と休み時間の教室で楽しげに会話しているへクスらを見て何度も思った。
だが彼ら彼女らへ密やかな優越感も持っていた。それはヘルガが長年見てきた中で自分とへクスは全く同種の人間だということだ。誰とでも仲良くなれるへクス、誰とでも距離を置くヘルガは一見して真反対の人間のように見えるが、どちらも一線を決して踏まないという意味で共通している。相手の触れてほしくない領分に決して入ろうとはせず、話していてどこか壁を感じてしまう。
自分と相手の間に壁を作ってしまえば無駄に口喧嘩をすることも仲違いをすることもない。それがヘルガが五年間へクスを見てきて出した彼女と自分の共通点だ。とどのつまりは自己陶酔、自己保存のための体のいい言葉狩りでしかない。
結局その日もへクスと話せたのは朝のホームルーム前と帰りのホームルームの二回だけだった。マックスも腹をくだして早退してしまい、他の生徒が友達らと下校する中、一人寂しくヘルガは帰宅の道を歩いていた。
まだ3時だからか空は澄み渡り、太陽が輝いているせいでいつもよりも世界が明るく感じられる。向いの道路を歩いている生徒達はそんな世界にふさわしく笑っていられる。同じ陽光が照らしているのになぜか自分が歩いている歩道は踏むごとに嫌な音が聞こえてくる。ひどく単調で淡白な音だ。逆に彼らは花園を歩いているかのような華やかささえ感じる。
マックスがいないと世界はとても惨めに感じられる。周りに人がいない世界は嫌いではないけど、明るいものを見ると途端に惨めになる。
近場の公園のベンチに座り空を見上げているとより一層惨めに感じられた。家に帰ってもやることがなく、親もいない。自分から親とあまり関わってこなかった自覚はある。出来のいい息子を演じていれば何も言われなくて、夜に星を見ていても早く寝ろとか言われなかったから5歳からずっと壁をつくっていた。
手のかからない子供とご近所さんに親が自慢していたのを8歳の頃に聞いたときは嬉しかった。万能感が脳髄から鼻骨にかけて駆け巡った。その時のままだったらよかったのかもしれない。ズルズルと歳を重ねるごとにつらくなっていった。こんな風に感じ始めたのは10歳の頃、ちょうど入学してすぐのことだ。
「帰るか」
いくら現実逃避をしても仕方なかった。家に帰っても両親がいるなんてことはない。悩んでも今更クラスメートとの間につくった溝は埋まらない。どうせ大学に進学する頃にはデイルアート市を出るさだめだ。それまであと四年近く待てばいいだけなのだから。
我ながら情けないと思いながらヘルガは帰路へついた。公園の時計を見てみると5時を超えており、一時間以上もだべっていたことにヘルガは驚いた。しかしどうせ家に親はいないからと彼は焦ることなく軽やかな足取りで家の前に到着した。
—あら、随分と愉快ね。何か楽しいことでもあった?
そして鍵穴に鍵を入れればすべて丸く収まっていた。何事もなく何かを思い出すこともなく日常に戻れていた。
耳元で囁かれたような甘露な響きは抗い難く、ヘルガの体を反転させる。抵抗など無意味とばかりに彼を彼女と対面させた。
夕焼けをそのまま縫いつけたかのような赤髪と瞳、目鼻立ちは驚くほど均整が取られ、感性された黄金比と言わざるをえない。赤いロングドレスから露出する肩や腕にはシミ一つなく、むしろ西日に照らされることで一層真珠の光沢を持つ肌が映えるというものだ。決して蠱惑的だとか淫靡だとか感じさせず、ただ一言美しいとだけ言わせる美の化身と断じても良い。
そんな彼女を間近で見てヘルガは嗚咽を感じ、急いで自室へと走り込んだ。