魔女と殺し屋
「一緒に溶け合いましょう?」——へクス・カーシャ《魔女》
起き上がりだというのに体は軽かった。全身のプロテクターを脱ぎ去ったかのような軽快感に酔いしれ、ナイフを握った時の万能感に支配され、ヘルガはへクスの首筋にナイフを突き立てようとした。
近づく。近づく。近づく。一歩ずつ踏んでいくごとに彼女と距離が縮まっていく。彼女の首は今この手中にある。怒りをぶつけるには最適な距離にいて、位置にいる。これを野離しにできるほどヘルガの心は寛容ではなかった。激情にかられた彼の心を止められるものなど存在はしない。無防備な少女のことを殺すことに何の疑問を抱くこともない。とっとと死ねとしか思えなかった。
「どうしたの?どうして早く私を殺しにこないの?」
足を動かしている。足を前に突き出している。それならば前に進むことは自明だ。まさか大地そのものが進行方向と逆に動いているわけでもないのだ。いや地球の自転を例にあげれば例え大地が進行方向と逆に動いていても人は全身できる。人の足はそこまで非力ではない。大いなる運命の荒波に対してだって踏み超えていけるくらいには強力だ。
彼女が、へクスが言った通りヘルガは早く彼女を殺したかった。そのために前進しているのに全くと言っていいほど距離は縮まらない。わずか5メートルの差が三千里の旅路を歩いているかのように長々と感じられ、進んでいる自覚はあるのに全く距離が変わらない。
水平線と水面のx軸とy軸に縫いとめられたかのように、あるいは幼少期に虹を追いかけて町内を一周したかのように、どこまでも行っても追いつけない。おかしいと思わずにはいられなかった。いや、よくよく考えてみれば周囲の空間すべてがおかしかった。
地球は広い。それはかつての大航海時代にコロンブスが新大陸を見つけたこと、クック船長が南極へ至り南方大陸の存在を否定したこと、人類が月の土を踏んだことからも明らかだ。まだこの世界には未知があり、既知は少ない。だが見渡す限りの水平線と人が乗っても沈まない水面なんてものがあるものか。ましてここは大陸の只中だ。しかもさっきまで檻の中にいたんだぞ?ありえるわけないだろ。
歩みを止め、ヘルガは足元を凝視した。普段ならばこうして不可思議な現象を見ていると両目に電流が走ったような痛みを覚え、熱を覚える。だが今はコンセントが抜けた家電のようにうんともすんとも言わない。恐る恐る水面を触ってみてもいつものガラスが割れたような音は響かず、薄い波紋が手を貼り付けた時に生じたにとどまった。
どうして、とヘルガは疑問に思わずにはいられなかった。これまで散々機能していた双眸は何も写さず、右手は何も壊さない。まるでただの一般人に戻ってしまったかのようだ。いや、ようだではなく実際ただの一般人となってしまった。これまで幽霊だとか刃物人間だとか怪力ドワーフなんかと戦えてきたのは右手ありき、両目ありきだ。それが失われ、相手のトリックも見抜けないままここで死ぬ。
——それは不条理だ。理不尽だ。さながら上演中に監督が出張ってきて主演を蹴り落とし、お気に入りを主演に立てるくらいには不条理で理不尽だ。なにかした、なにかされた。ナイフを構えヘルガは瞳を血走らせた。
「何をした?僕が寝ている間に何をした?」
「ヘルガ君が寝ている間は何もしていないよ。何かしたと言うのならそれはもう気が遠くなるくらい昔のことだよ」
霊銀を思わせる涼やかな笑みをたたえ、へクスはヘルガの質問には答えなかった。答えろ、とヘルガは憤る。義憤に駆られた彼はナイフを彼女めがけて投げつけた。すると全く前進しなかった持ち主とは対照的にナイフは速度を増してへクスに迫った。
「ザンニ」
しめた、とヘルガは笑みを浮かべるが刹那、白い巨腕が何もない空間から現れ、投げつけたナイフを薙ぎ払った。カーンと耳心地の良い音を奏で、ナイフは水面に波紋を呼んだ。
白い巨腕が現れると同時にヘルガにも変化が起きた。出現した巨腕をその双眸に収めた時、思い出したかのように唐突に眼球に痛みと熱が同時に走った。視神経を直接伝い、手近な血管内の血液が茹ったんじゃないかと錯覚するほどの熱だ。濁点のように視界が暗やむかと思いきや、唯一白い巨兵だけが黒く染まった。だが今はそんなことはどうでもよかった。
さっきまでは全く感じられなかった感覚の復活に、痛みを感じつつもヘルガは笑みをこぼした。恐る恐る右手で両足を触ると、ガラスが割れた音が響いた。アルバが言っていた「異能殺し」が復活したことに実感を覚え、目の前に立つ黒い巨兵にヘルガは拳を構えた。
「あー失敗だったなぁ。でも出しちゃったものは仕方ないし、とりあえずヘルガ君を押さえつけてね、ザンニ」
ザンニと呼ばれた巨兵はへクスに命じられるがまま頷き、ヘルガめがけて両腕を広げた。左右の指の先まで数えれば5メートルはゆうに超え、さながら闇が覆い被さってくるような光景だった。だが黒いものである以上ヘルガの敵ではなかった。ヘルガが右拳を伸ばすとザンニは対応するように同じ手を突き出した。両者の拳が交錯し、直後破裂音と共にザンニの右腕部が肩まで裂けた。
「あっちゃー!」
へクスは困ったように顔を覆った。だが次いで彼女は笑顔を浮かべた。その笑顔が気になったがヘルガはとりあえず目の前のザンニの頭蓋を砕いた。仰向けにザンニの体が倒れ込み、その先により一層笑顔を艶やかなものへと変えたへクスが口元に人差し指を添えて立っていた。それは余裕からくる笑みだ。まだ何か手を隠している人間の笑みだとヘルガは直感した。
「あーあ。まさか自分でチャンスを不意にするなんてね。おっとこれは言わぬが花って奴だったかな?」
「何言って……?あ……」
嫌な予感と共にヘルガは自分の瞳からすぅっと痛みが消えたことに気がついた。異能の産物であるザンニが消えてしまえばそれに反応する眼もまた機能を失う。どいういうわけかこの不可思議な空間を異能の産物と認定しない腐った瞳は今やただの視覚としての機能しか果たさなくなった。機能しなくなったのは右手も同じだ。水面を触っても何も起きない。そしてヘルガに自分のミスを自覚し、悔い改めようとする時間をへクスは与えなかった。
「じゃぁヘルガ君。ささやかな自由はもう謳歌したよね?そろそろ檻に戻る時間だよ」
へクスはパンと両手を鳴らした。その音を皮切りに無数の白い巨兵が何もない空間から現れた。すべてがすべてつい今さっき倒したザンニと外見的差はない。形状は元より色艶や色合いにすらわずかな機微は見られず、等しくヘルガの双眸を痛撃と高熱で射抜いた。
「あはははははは。いくらでも壊していいよ?いくらでもなぶってくれて構わないよ!材料はいくらでもある。時間はいくらでもあった。私の素晴らしく使えない従僕を全員倒せるまでヘルガ君の体力は保つかなぁ?」
水面でワルツを踊るへクスのステップは幻想的だった。まさしく湖畔の月、雪原の残月と評するにふさわしく彼女は幻想的なまでに残酷にすぎた。無限無数にして無量大数のザンニを何もない空間から排出し続け容赦無くヘルガを襲う。
ヘルガは復活した右手を振るい、迫ってくるザンニを片っ端から倒していった。右手が触れるたびにザンニの体が破壊されていく。だがザンニは途絶えない。ザンニの数はむしろ増していくばかりだ。数の暴力でヘルガの左手を掴み、彼を引き寄せたかと思えば別の個体が拳を振るった。ヘルガは右手でその拳を破壊するが、今度はさらに別の個体が、さらにさらに別の個体が、さらにさらにさらに別の個体が、さらにさらにさらにさらに……。際限なく押し寄せてくるザンニはヘルガの体力を奪い、彼の判断力を奪った。
数にして40体目を破壊したあたりだろうか。ヘルガのみぞおちをザンニのブローが穿った。意識が遠のいていく感覚が生で感じられた。手放そうとはしなかった。少なくとも心の中では諦めていないつもりだった。だが体はどんどん遠ざかっていった。
畜生。クソ。嗚呼。
色々と毒が込み上げてきた。痛みが遠のていくことすら今は腹立たしかった。意識が消え薄れる中、ヘルガは右手を前に、前に突き出した。右手の先にはへクスが投げ捨てたレアリティの耳が浮かんでいた。それに手を伸ばし触れたと同時に左耳は消え失せた。そして彼の手は空を切り、水面に触れた。
——直後、水面が弾けた。
次話投稿は8月6日21時を予定しています。




