今日と明日の境界に立つ天使
校舎の外れにその教会はあった。かつてアテルラナ学園がまだ兵舎だった頃、従軍牧師のために作られた仄かに夕焼け色に染まったこじんまりとした教会だ。革命の後は信心がどうのという理由でそのまま残され、今にいたるまで牧師が初等教育で「神様は偉大です」と説教をする場として使われていた。
かく言うヘルガ自身も何度か足を運んだことがある。熾天使の石像が十字架の真下に飾られ、ステンドグラスがとても綺麗だったことだけは鮮明に憶えている。牧師が何を話していたかは完全に忘れた。きっと「神様は偉大です。主を讃えましょう」と連呼していたのだろう。戯言だな、と今では思う。本当に神様なんてものがいるのならそいつはきっと怠惰にすぎる。
まぁそういう意味ではその使いもまた怠惰か。
黒ずんだ天使像を見て、ヘルガは制服の内ポケットに隠していたナイフを取り出した。途端に一切の迷いが払拭され、頭の中がすっきりとしてきた。ナイフを握る右手に力が入り、助走もなくヘルガは天使像に斬りかかった。そして彼のナイフが接触する刹那、微動だにしなかった天使像が揺らぎ、その手に持っていた錫杖が彼の右脇腹を強打した。
勢いのままヘルガは吹き飛び、教会の壁に叩きつけられた。すぐに起き上がりナイフを構え直すと同時に瞳の激痛が増した。それまではただの黒い塊だった天使像がさなぎが蝶に羽化するがごとく、外皮を破壊してより黒さを増した六対の翼を持った天使の姿へと転化した。
押し寄せる嫌悪感は幽霊や巨兵とは比較にならず、むしろ昨日の夜に殺されかけたハガシネオンに近い。興味本位で仕掛けていい相手ではないと自覚したときにはもう手遅れで、現れた天使は錫杖をヘルガめがけて振っていた。
咄嗟にナイフを一文字に切るとガラスの破砕音と共に衝撃波が崩れ去った。なんかの異能で衝撃波を起こしていると知り、ヘルガは口元に笑みを浮かべた。見ているだけで瞳は痛むが攻撃は見えないわけではない。むしろ形のない攻撃はヘルガの瞳が黒く写し、彼にどうすれば対応できるかを教えていた。
意気揚々とヘルガは突貫する。まだ相手が本気を出していないうちにと迫り来る衝撃波をナイフで突破する。瞬く間に両者の距離は縮まり、あと一歩のところまで接近した。遠距離主体なら近接戦闘には弱い、とヘルガはほくそ笑みナイフを振りかぶった。
とれる、と思った。だが彼が振ったナイフは空を切った。何の前触れもなく、天使が動いたとか言うわけでもなく、ただあるがままに空を切った。
まるで空間が延長したかのように、一気に天使とヘルガの間の距離が離れたように見えた。だが現実としてヘルガのナイフはわずか数ミリ届くに足らなかったにすぎない。踏み込みが甘かったと舌打ちをこぼし、再びヘルガはナイフを振りかぶった。そして振る。今度こそ完璧なタイミングだ。避けられる要素なんて一つもない。勝利を確信してヘルガはほくそ笑んだ。
——しかし外れた。完璧なタイミング、距離、速度、その他もろもろだった。だが現実としてナイフはあと数ミリで届くか届かないかの距離でナイフは空を切った。なんでとしか言えない。なんでとしか考えられない。視野狭窄に陥ったんじゃないか、と自分の両目を疑いたくなるくらいありえない光景だ。二度の偶然はまだ偶然、しかし三度目は必然なんていう話はボンクラの常套句に過ぎず、偶然二つを重ねた時点ですでに必然とヘルガは断定した。
そしてその必然を起こす天使の存在はヘルガを少なからず恐怖させた。当たらないことが必然、その事実に愕然とした。しかも異能であるなら黒く瞳に写る。しかし写らない。まるで世界そのものに欺かれたようなおかしな話だ。
ここは離脱一択だな、とヘルガはくるりと180度回転して教会の出口に向かった。執拗に天使は錫杖を奮ってくるが、仕掛けてくる方向は後ろを向いていてもゾワリとくる両目の痛みでわかる。左が顕著に痛めば左から、両目が痛めば中央から、右目が顕著に痛めば右からの攻撃だ。
攻撃を回避し、教会の扉に右手が触れた瞬間どこからともなくガラスが割れた音がした。なんだろうとヘルガが不思議に思うも束の間、錫杖が彼の真横を通り過ぎた。考えることをなんてすぐに放棄した。逃げるしかできなかった。
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次話投稿は26日を予定しています。




