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愛しています、死んでください。  作者: 賀田 希道
停滞トランジット
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彼方より愛を

 9月29日、ヘルガは登校していた。そう、登校していた。どこにと問われれば言うまでもなくアテルラナ学園にだ。なぜか、と問われれば言うまでもなく敵情視察だ。どうして彼がと問われれば言うまでなくヘルガが唯一レアリティ、アルバを含めた三人の中で学校に通っていても違和感がなく、何より怪しまれない。


 黒い巨兵というタチの悪い借金回収業者を見た後、四日も学校を休んでいたヘルガからすれば「おいこらふざけんな」とか「冗談じゃねぇ」と文句の一言、二言くらいは垂れてもおかしくなかったし、学校の門をくぐった瞬間また巨兵が現れるのでは、とどぎまぎしていたが、今の今までその気配はなかった。


 いや、それどころか驚くほどに学校は平和そのものだった。立て続けに街の重要文化財が壊されたというのに、平常授業、平常運転、そうあれかしと設定されたかのようにいつも通りの授業をやっていた。


 生徒は生徒の義務を果たすかのように勉強に取り組み、休み時間はガヤガヤとうるさくしているし、教師は職責のままに授業をして、生徒の質問に答えている。誰一人欠けることなく、ワイワイガヤガヤと動いている。とりとめなく、間断なく、永久機関さながらに流動性を保っていた。


 ただ唯一、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()すべてがすべてまともな学校のありふれた日常だ。学校に入った瞬間、いやそれよりもずっと前、登校している間からずっとヘルガの眼球は赤熱していた。


 瞳の中にハムスターでも飼っているんじゃないか、と疑いたくなるくらいには、両眼が乱回転を繰り返しているような感覚を覚え頭痛がひどい。瞳のまわりの筋肉が眼を動かすだけでズキズキと痛み、いざ閉じようとすれば今度はまぶたの裏側に熱が籠る。ひどい三重苦だ、と顔をしかめ必死に昼休みまでヘルガはその痛みに耐えていた。


 四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り教師が退室すると同時にヘルガは痛みに耐えきれず、教室から駆け出した。そのまま人気のない階段まで走り、痛みが徐々に消えていく感覚に安堵の息をこぼした。


 苦しかった。怖かった。だって周りに人は一人だっていなかったから。


 視界に入るものすべてが黒、黒、黒で染まり、会話と呼ぶには口が汚れそうな雑音が耳を犯し、漂う腐臭は言わずもがな鼻がもげそうになった。生温かさと冷たさが入り混じった熱が近くにいると伝わってきて、それは背筋をミミズかネズミが貼っているかのような薄気味悪さを覚えさせた。


 四日前まであんな中で授業を受けていた、生活していた、会話していた、ご飯を食べていた、遊んでいた、肌を触れ合ってきた、笑ってきたと考えると吐き気を覚えた。下水道でガスマスクなしで毒ガスを撒き、あまつさえネズミがかじった肉を食うようなものだ。


 とても正気でいられることなどできない、狂気の坩堝だ。笑いすらこみ上げてくる。もちろん吐瀉物付きで。笑いながら吐くのだ。これほど愉快なことはないだろう。


 「大丈夫?」


 事実吐きそうだった。だがこみ上げてきた酸味の強い固形物がその声ひとつで喉奥に戻っていった。気持ち悪い感覚だった。口元を押さえながらヘルガは声をした方向を見た。そして階段の上に立つ彼女を目にした時、わずかに救われた気がした。


 「ヘルガ君、大丈夫?とても顔色が悪いよ?」


 へクス・カーシャは覗き込むようにヘルガを見る。赭い二重瞼の瞳を潤ませ、とても心配していると思わせる表情でヘルガの顔色の悪さを指摘した。なんでもない、とヘルガは答えたが、彼女は嘘でしょ、と柔和だが厳しい口調でヘルガの嘘をあっさりと看破した。


 いつものアテルラナ学園の制服姿、変わったところは一切ない。へクスはへクスのままだ。だが浮かべている笑みは静謐すぎるくらいに静謐で、さながら湖畔の月のようだ。一切の揺らぎがなく、まるで人が浮かべている表情とは思えない。ただわずかな微笑を浮かべているだけなのに、それほど異常に妖しく見えた。


 「だってヘルガ君、朝からとっても苦しそうにしてたもん。どうしたの?体調が悪いの?」

 「いや、うん。大丈夫。ちょっと朝から腹を壊していてね」


 「ちゃんと食べてる?確か今ヘルガ君って家にご両親がいないんでしょ?マックス君が言ってたよ。なんだったら今日の夜にヘルガ君の家に行こうか?」


 私がごはんを作ってあげるよ、とへクスは言った。きっと四日前のレアリティと会うまでのヘルガだったらその言葉の甘美さに惹かれていた。好きな女子の作ってくれる料理なんて思春期真っ只中の男子にとっては例え吐瀉物のような代物であっても嬉しいことこのうえない。


 だが今のヘルガは二重の理由でへクスを家に入れたくなかった。ひとつはもちろん彼女を巻き込みたくないから。平穏な生活、自覚のない偽りの日常にいる彼女をたかが体調不良でどうして巻き込める?答えは否だ。そしてもうひとつが今のヘルガはレアリティをこそ愛しているからだ。それは愛というよりも崇敬に近かった。具体的には犯しがたい存在を犯すという背徳行為が心を躍らせていた。


 人格という意味では破綻し、人間性という意味では破局している。レアリティに対して抱いている感情が愛ではなくただの性的欲求であることなどとうに理解しているが、それを強引に愛だとこじつけてかろうじてヘルガは自己否定を回避していた。


 「とても嬉しいけど僕は遠慮しておくよ。それにほら。最近じゃ連続殺人鬼が出てるって話でしょ?あんまり夜の外出は、さ」


 「うーん。それもそうだよね。だったらヘルガ君の家に泊まりにって。いやいやそれを知られたら明日から色々言われるだろうしなー」


 年相応のかわいらしさを見せるが、どうも胡散臭い。案の定彼女はにやりと笑みを浮かべ、怪訝そうに自分を見るヘルガの前で人差し指を立てた。


 「まぁ。()()()()()()()()()()詮索はしないようにするね。ヘルガ君にだって秘密はあるでしょうし、それをわざわざ聞くことほど野暮ってものはないしね。でもあんまり無理はしないでね。()()()()()()いつでも私に相談して。相談するだけで人って楽になるものだよ」


 「ああ、そうするよ」


 へクスの朗らかかつ頼りたくなる美声と異なり、ヘルガの声に覇気はなかった。最初から頼るつもりはなく、巻き込もうとも考えてはいない。献身的なまでに献身的すぎる訴えをしりぞけるというひどいことをしてもなお、へクスは柔和な表情を崩さず、凪いだ水面のごとき涼やかな雰囲気を漂わせていた。


 階段を上がっていく彼女、その背中には寂しさはなく、失望もない。憤りなんて初めからない。あるがままの平行移動、そうあれかしと言われ成長したような硬質さがある背中だった。寂しさはないが、主観で見れば息苦しいように見えた。八方美人、クラスの人気者、みんなの友達、そんなレッテルを気付かぬうちに貼られ、窮屈さを感じているように見えた。


 「ねぇへクス。へクスはさ、もしふとした瞬間に日常が終わるとしたらどうする?」


 意地悪でひどい質問がポロリとこぼれた。凝り固まった窮屈さを感じさせる背中に感化されたのか、意図せずこぼれた質問にヘルガ自身も困惑していた。だが彼が落ち着きを取り戻すよりも前にへクスが振り向き際に口を開いた。


 「私は私のままなんでしょ?だったらいつも通りだよ。誰かが泣いていたら助けるし、困っていたら助けるよ。でもそうだね。私は今、とても充実しているから失ったとしたら結構悲しいかな」


 窓ガラスで反射した光のせいで彼女の表情は読めなかった。声は平坦で、感情は混じっていない。しかしかすかに映った口元をへクスはキュッと唇を結んでいた。何かを決意した、決心したかのように。そのまま彼女は階段を上り切り、左折して行ってしまった。


 失敗したなぁとヘルガは今の発言を後悔した。言ってはいけない言葉だったわけではない。今言うには遅すぎた言葉だった。言うのだったらレアリティに出会う前に言うべきだった。彼女の窮屈さ、人間性、同族意識を持っていたあの頃の自分が面と向かって言うべき言葉だった。


 今は言ったところで虚しく感じられる。銃を撃った後に「撃つな」と言うようなもの、ドラマではそういうシーンがあるが、大抵悲惨な結果しか生まない。みんながみんな、悲しい気持ちになる。


 「ある意味でそれが一番の幸せ、なわけないか。ハッピーエンドよりもバッドエンドが素晴らしいなんてことあるわけがないんだし」


 その後ヘルガは教室へ出向くことはなかった。敵情視察、学園内のどこかに結界の起点を探そうと校内中を見て回っていた。そして一際妖しく、黒い雰囲気を漂わせる校舎から少し離れた教会の扉を開き、禍々しく黒く光る熾天使像を目の当たりにした。


✳︎

次話投稿は24日を予定しています。

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