VSハガシネオン
そいつはナイフだった。そいつは刃物だった。そいつは道具だった。そいつは絶視絶殺だった。結界と言えばいいのか、とにかくそいつの間合いに入ると死ぬ、ということがわかるくらいには濃密な殺気を放ち、ゆっくりと顔をあげてこちらを見た。ヘルガ達を見た。
わずかな光源、アルバの持つカンテラがわずかに写したそいつの顔は顔面が引き裂かれ、歯茎が剥き出しになった顔をしていた。表情を読み取ることも容姿が美しいか醜いかを判別することはできない。長身の男、ということだけがその圧倒的な体格からわかるに止まる。
男が立ち上がるとガチャガチャという機械の駆動音に似た音が響いた。アルバが男の全体像を掴もうとカンテラの光量を上げるとその全体像が明らかになった。
やはり容姿は変わらない。歯茎がむき出しになった唇がない顔だ。瞳はひどく鋭利、髪型はオールバックだ。灰色の長袖とジーンズを着ていて、その上にいくつもの金具が付けられた上着を着ている。そんな物を着ているから、男が体を動かす度に金具同士がぶつかって音が鳴った。
「ハガシネオン……!」
誰だよそれ、とヘルガがアルバに聞き返すよりも早く、そう呼ばれた男が口を開いた。
「博識……だ。だが……浅……慮でも……ある。私の名を知っている人間であると証明してしまったのだからな」
それは死刑宣告に他ならなかった。ただでさえおぞましかった殺意がさらに高まり、ハガシネオンは右手を上げた。何かをしてくる、とシドは構える。だがそれは手遅れだった。
彼がナイフを構えるとほぼ同時に背後の扉の真上が崩れ落ち、扉を塞いだ。何をしたのか、全く見えなかった。ただ現実として退路が塞がれた、と三人は認識した。
「最後……に……聞いて……やる。貴様ら……はなんだ?この……私のことを知るということは異能の世界に生きる住民なのだろう?」
「聞けハガシネオン!オレらはお前の敵じゃねぇ!敵対する理由なんざ持ち合わせちゃいねぇんだ!」
「知ら……ないな。貴……様ら……の事情……な……ど……私は知らない。ただ……私は私の目的を果たすだけだ。こ……の世……すべ……ての人外……を……異能……を殺し……尽くす」
「クソが。だから嫌なんだよ!」
アルバはポケットから金色の懐中時計を取り出し、ヘルガとレアリティの前に立つ。そして金色の懐中時計が秒針を刻むと同時に紫色の炎が彼を包んだ。
「魔術式にて炎の剣」
炎は一瞬にして剣の形へと変化し、ハガシネオンに叩きつけられた。その異様な黒さにヘルガの両眼も白熱する。まるで外部へ向けられる熱量がすべて一つの形に収められたかのような圧倒的な迫力のその一撃を受ければ確かに美術館で戦った幽霊だって消し去れるだろう。
だというのに。
ああ、だというのに。
まったくの無傷。体はおろか衣類もすべて無傷。激しい蒸気を腕の一薙ぎで払い除け、ハガシネオンはつまらなそうな目で唖然とするアルバを見ていた。
「其はまj」
「邪魔……だ」
次の手を打とうとするアルバを瞬間移動でもしたのか、即座に彼の目の前にまで移動したハガシネオンが叩き伏せた。彼の速度はおおよそ人間が出していい速度ではなかった。それ以前に体が頑丈すぎる。教会の床が地層ごと溶けるほどの熱量を丸々全部ぶつけられてどうして無傷なのかわからなかった。
絶対不条理にして絶対幻夢。物語の脚本、因果から解き放たれて縦横無尽に殺戮を行う。絶対強者を前にしてヘルガはナイフを無我夢中で振るった。だが彼のナイフは空を切る。避けたわけじゃない。避ける必要なんてない。ただ狙いが彼じゃなかった。それだけの話だ。
傍目にはそれだけの話。言うなれば隣のうちの猫がそのまた隣のうちの兎を食べちゃった、という程度のつまらない話。しかし当事者であるヘルガにすれば狙いの矛先が自分ではなく彼女に向いた時点で天地開闢のビッグバンにも等しい衝撃を帯びた憤怒が身をこがした。
鮮血が舞う。正体不明の他関節の刃がレアリティの首を引っかけ繰りとった。持っていかれた首がぼとりと教会のタイルを赤色で汚し染み渡っていく。ルビーに似た大きい血塊が雨粒のようにヘルガの顔に服に飛び散った。
ナイフを持つ手に力が入り、両眼を見開いた。目の前に写るハガシネオンの黒い体めがけてナイフが舞う。黒い体が見えたことでヘルガは勝機が見えたと確信した。ナイフの切先でも当てれば相手に傷がつく。その傷を勝利へ手繰り寄せ、レアリティの敵を討つことができると。
少年は人生初めてと言っていいくらいの脅威的な反射速度でハガシネオンの素っ首を切ろうとナイフを振りかぶった。すぐ真横にいるハガシネオンは気づくそぶりも見せず、レアリティを断頭した余韻に浸っている。そのままヘルガのナイフは彼の首を切断するよりも前に空を切り、彼自身の心臓が握りつぶされた。
意識が途切れるのに1秒も掛からなかった。自分が何をされたのかすらヘルガは自覚できなかった。闇の中にレアリティが遠ざかっていく姿だけが見えた。
「遅……い……な。私を殺したくばせめて光の3倍の速度は出さなくてはな」
土台無理な話を口にするハガシネオン。彼がその言葉を言い終わるよりも前にヘルガの意識は閉ざされた。
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