表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛しています、死んでください。  作者: 賀田 希道
停滞トランジット
2/146

デイルアート市の日常

「とりあえず死ね」——ヘルガ・ブッフォ《普通の学生》

 「うわああああああああああ!!!!!」


 目の前が真っ赤に染まる悪夢と共にヘルガ・ブッフォは目を覚ました。ひどい悪夢だった。一瞬の血溜まりというよくわからない酷い夢で脈絡なんてものはなく、唐突すぎて今見たばかりなのに何故か記憶にもやがかかったかのように全く内容が思い出せない。


 美しい人が出てきたかもしれないと何かが思い出せそうなのに思い出せない。朝早くから大変もどかしい気分を覚えた。だけどわざわざベッドから飛び起きるほどの夢だ。きっと怖い夢だったに違いない。そう納得して彼はからベッドから立ち上がった。


 やけに背中がひんやりしているな、とヘルガは自分の背中を触ってみた。背中は汗でぐっしょりと濡れていた。ベッドからシーツを剥いでみると、大きな世界地図ができていた。おねしょしたのか、と両親に言われそうだな、と思いながらヘルガは二階の自室から両親の元へと降りていった。


 まったくどうしてあんな夢を見たのか。階段を降りながらヘルガは夢の内容を思い出そうと首をひねった。生まれついて血を見る機会はたくさんあったが、それでも鼻血とかすりむきとかの類だ。普通の学生である自分が見るにしてはあまりに陰惨な夢にすぎる気がした。そうやってあーだこーだと首をひねっている間にヘルガは階段を降り切ってしまった。


 キッチンに降りると彼の母親が忙しそうにフライパンを振っていた。父親は難しい顔をして新聞をコーヒー片手によみふけっていた。母親が皿を置くとき邪魔そうに眉をひそめると、悪いと思ったのか新聞を引っ込める。かと思えばまた広げて母親がバチコンと父親の頭を殴った。


 いつものブッフォ家の食卓の光景だ。父親は子鹿のようにプルプルと震え、烈火のごとく彼を睨みつける母親に怯えながら出された目玉焼きとベーコン、パンを口の中へ放り込んだ。変わらない味わい、変わらない朝の食事が笑顔を誘い、それがたまらなく素晴らしく感じられた。


 きっと変な悪夢を見たせいだ。そうに違いないと気分を落ち着かせ、朝食のシメと言わんばかりに母親が置いたココアを飲み干した。


 気持ちを切り替えたヘルガはパジャマから制服に着替え、今日の授業のための教材をバッグへ入れていく。昨日は夜遅くまで宿題をしていたせいか、まだ机の上に教科書やノートが散らばっていた。ちゃんと準備をしていなかった過去の自分を恥ずかしく思いながらヘルガは階段を降り、玄関から出ていこうとした。


 ちょうどその時、ヘルガの母親が彼を呼び止めた。振り向くと玄関近くの戸棚の上に何かを置いていた。それが財布だとヘルガが気づくと同時に彼は今日が9月25日であることに気がついた。今日から約1週間、彼の両親は家を留守する。結婚してからずっとこの時期に限っての二人旅を楽しむのだ、とヘルガは両親から聞かされていた。


 学校から帰ってくる頃には両親はもう出かけている。誰もいない二階建ての一軒家に一人の1週間が今年も始まることに少し悲しさを覚えるが、15年も続けば慣れた話だ。物分かりのいい子供を演じるヘルガが頷くと、母親は肯定の意味も聞かずにキッチンへと戻っていった。


 扉を閉める直前まで父親との話し声が聞こえ、その内容の中にヘルガは含まれていなかった。今年はどこへ行こうとかそういう話だ。決して子供への関心がない両親だとは思わないが、少しは心配するとかしてほしかったが14年も文句を言わなければこうなるのは当然だ。


 バタンと扉が閉まってようやくその声は消えた。それが鬱屈とした登校前のせめてもの救いだった。


 気を取り直して学校への通学路を歩いているとチラホラと同じ学校に通う生徒達の姿が目に入ってくる。背丈は様々だが皆一様に濃紺の背広に似つつもどこか上品な印象を抱く特徴的な制服を着ている。無論それは男子に限った話で、女子は長袖のミニドレスに似た華やかな制服を着て登校していた。


 時代錯誤のようにも見えるが、これはれっきとした王立アテルラナ学園の制服だ。芸術と伝統の街デイルアートの唯一の学び舎であるアテルラナ学園の教育方針とは簡潔にまとめれば「温故知新」であり、古き装いをしつつも新しきに積極的たれ、という方針らしい。


 よくわからないし、何でそれが制服の古めかしさにつながるのかもわからない。絶対にお偉方の趣味だろ、と彼の友人はよく言っていた。だが「同時に女子の制服かわいくね」とも言っていた。それにはヘルガも同意せざるをえない。実際にフリルの付いた白いミニドレスを着ている女子というのは琴線に触れない部分がないでもない。


 「いよぅ、ヘルガ!相変わらず暗い顔しているなぁ!」


 噂をすれば、とヘルガは声がした方を向く。ヨーロッパではそう珍しくはない金髪に青い瞳、14歳とは思えない逞しい長躯、間違いようがなく彼の友人であるマックス・ヴォルフだ。白い歯を剥き出しに笑みを浮かべ、バッグを背負って近づいてくる彼にヘルガは笑みを浮かべた。


 「どーしたよ。なんか変なことでもあったか?」


 ちょっとね、と前置きしてヘルガは今朝見た夢の話をした。


 「そいつぁ怖いな。朝っぱらからそんな夢見るなんてお可哀想に」

 「茶化すなよ。僕はこれでも結構真面目なんだって。それに今日から僕の両親は家にいないしね」

 「不安だってか?好きなお星様でも見てればいいんじゃね?」


 それもありかもね、とだけヘルガは返した。10歳の誕生日の時に買ってもらった天体望遠鏡を脳裏に描き、星の大海原へ思いを馳せる。今は秋だから南の空にアンドロメダ座やうお座が見える頃合いだろう。久しぶりに戸棚の星座図鑑を取り出して天体望遠鏡から宇宙(そら)を見つめてみるのも悪くはないのかもしれない。


 想像するだけで夢が広がってくる。やはり星座はロマンだ。鬱屈とした感情を拭い去ってくれる。すっきりとした表情を浮かべたヘルガを見てマックスはニカっと笑みを浮かべた。無邪気でありながら頼りたくなる元気にあふれた笑顔だ。


 「そういえば昨日の夜も出たらしいぜ、例の殺人鬼」

 「殺人鬼?なんだっけそれ」


 「おいおい。一ヶ月前から話題になってたじゃねえか。今月に入ってもう五人も人を殺しているっていうシリアルキラーだぜ?」


 殺人鬼というフレーズにヘルガは一瞬だけ眉をひそめた。凄惨な夢の話をした直後にそれよりも凄惨な話をブッ込むだなんてマックスの感性はどうかしている。まったく情緒というものがない。だがそんな横紙破りな面がマックスの美点だ。


 気質が気質なだけにいつも明るいし、色んな人と関わりが持てる。彼の殺人鬼云々もその類に違いないとヘルガは結論づけた。そんな話もあったな程度の話だ。


 「殺人鬼ねぇ。実感が湧かないよね」

 「下校時間も5時完全下校になっちまったからなぁ。部活動のやつらもしょげてたぜ」

 「僕は部活入ってないけどね」


 生意気な奴め、とマックスはヘルガの濡羽色の髪をかきながら言った。登校中二人の間にはいくつもの話題が浮上しては沈殿し続ける。校門を通り教室についても二人の会話は続く。賑やかなクラスの雑音が入らないほどのめり込んで。


 そんな中、急にマックスが腹を抑えた。非常に苦しそうに顔をしかめ、ちょっとトイレという言葉を残して教室から出て行った。もう少しでホームルームが始まるというのに不運なやつだなとヘルガは思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ