ホディア美術館の幽霊Ⅲ
ナイフを握るとなぜかそんな言葉が自然と口から出てきた。意図した言葉ではなく、反射的な台詞。劇場の演者がシーンの盛り上がりで決め台詞を言うかのように状況によっていくらでも言葉には力がこもる。
本当に人を殺したい時人は黙るものだ、とはよく言うがそんな感情を黙らせ、殺し、虚無の心理の殺しは歌劇においても喜劇においても悲劇においても何に置いてもつまらない。誰かを殺すときは少なからず殺す目的があるし、それがない殺しなんてものはない。
殺意を明確化し、言葉でつづることで自分にも相手にも言語化した悪意をぶつける。かくして悪意をぶつけられた当人達はナイフの切先へ視点を集中させる。
最初にヘルガが動いた。彼のナイフが空を伝い、幽霊の体へと吸い寄せられる。同時に竜巻がヘルガ目掛けて吹き荒れた。レアリティを吹き飛ばしたのはこの攻撃か、と思う中ヘルガはナイフの切っ先を竜巻へ突き立てた。ガラスが割れる音と共に竜巻が殺された。
しかしそれだけで幽霊は動じない。動じれるほど驚いていない。
ヘルガの双眸が幽霊の変化を捉えた。つまり激痛が走った。幽霊の存在感がさらに増し、その体が風に包まれていった。黒い風が幽霊の蒼白々の幽霊を包み込み、白い瞳を赤く変えた。rpgのラスボスの風格すら感じさせる巨大な竜巻の化身。それこそが目の前の幽霊の正体なのだろう。少なくともヘルガはそう解釈した。
「しぃ」
竜巻が無数に吹き荒れる。風だって存在している以上ペンキを大気に振り撒けば可視化される。ヘルガの眼にはその作用があった。黒く染まった吐き気を催す波にも似たそれをヘルガはすべてナイフで斬り殺した。だが彼がすべての竜巻を殺し切ったと同時に幽霊が体を透過した。
体が前にも増して重く感じられる。だが、だがしかしとナイフの切っ先を心臓のまわりに突き立てた。ガラスが割れた音を皮切りに幽霊の呪縛が解かれた。
「これだけ?」
そう思ったヘルガを四方から幽霊が襲う。体が崩れた隙を狙い、幽霊の体が何度も何度もヘルガの体を透過した。菌糸類の成長を超高速再生でみているかのような奇妙な心理描写が脳裏に浮かぶ。それは蝶を喰む蟻、池州に飛び込む蛙、巣から落ちた蜘蛛などといった自然界のありふれた情景を想起させ、取り留めなく息苦しさを覚えさせた。
考えるスペースが脳内にない。心臓をナイフで突こうとするための交感神経が機能しない。体が固まり動きが停滞する。一度の透過ではそこまでのものではなかった。しかし立て続けの透過はヘルガの脳みそ可能な感情コントロールの限界を優に超えていた。
がっくりと膝を屈し、ヘルガの視線の先では痙攣する右手が見えた。動かそうと必死になっている。だがそれを自分は行えない。殺すと明確に宣言したと言うのに。
「いや、それじゃだめだ」
無理矢理ヘルガは考えることをやめた。方法は単純だ。僅かに動く舌を強く噛んだ。痛みが余計な思考をシャットアウトし、脳裏に溢れていた自然界の情景を払拭する。口腔から血が漏れるが、死ぬような量じゃない。
ナイフを構え直し、幽霊と対峙するヘルガは先程のような猪突猛進を避け、相手の出方を伺った。そして幽霊が竜巻を繰り出してきたタイミングを見計らってナイフを振った。受けるだけではない。躱すことも憶えた。
幽霊の喉元を掻き切る腹づもりで接近する一方、幽霊はすぐに身を退いた。本能的にヘルガの右手が、「異能殺し」がやばいものだと理解し、執拗なまでに竜巻を放ってくる。
だが竜巻はもう問題にならない。幾重にも浴びせかけられる竜巻はもはや攻略されていた。それは劇場のお約束。一度見た攻撃、浴びた攻撃、一度負けた相手に絶対に主人公は負けない。別にヘルガが主人公というわけではないが、そうであるかのように傍目にには見える光景だ。
幽霊は徐々に追い詰められ、真綿で首をしめられていくように死んでいく。
ヘルガのナイフが空を切り、幽霊の体を捉える。幽霊の体にナイフの刃が食い込み、そしてその体を刻んでいった。叫声も絶叫も哀願の声すらすべてがすべて立ち消えて、完膚なきまでに幽霊は影も形も残さない。ガラスを100枚くらい一気に地面に叩きつけたかのような激しい破砕音を撒き散らして、美術館に巣食う幽霊は打倒された。
同時に眼球の使いすぎか、体の疲労からかヘルガの体がゆらりと揺れ、破片まみれの床の上に倒れかけた。それをいち早くレアリティがすくいあげ、彼女の腕の中でヘルガは気絶した。
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