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愛しています、死んでください。  作者: 賀田 希道
停滞トランジット
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ホディア美術館の幽霊Ⅱ

 体が心臓を中心にして冷たく感じられた。ホラー映画を見たとき感じるゾワリとした寒気によく似ていた。思えばどうして足を踏み出したのだろうか。なんで右手を突き出した?なんで体が倒れかけている?


 まったく思い出せない。思い出せないことはいいことだ。思い出せないことは幸福だ。思い出せないことは祝福だ。自分の罪を自覚することがなく、自分の間違いに気づかなくていい。それは素晴らしいことだ。自分が感じる必要がない罪悪感を感じなくちゃいけないなんて残酷じゃないか。


 「——いや、そいつは違うだろ」


 刹那ヘルガは無意識に心臓のあたりに目線を送った。黒く染まっていた。眼球がそれを見てると痛む。熱く煮えたぎる。迷うことなくヘルガは右手で心臓のあたりを触った。刹那、ガラスが割れたような音が聞こえた。同時に彼の胸の中にあった言い知れない淀みが消え去った。


 振り返りキッと幽霊をヘルガは睨む。相手に攻撃された、それだけで敵意を向ける理由なんて十分すぎた。


 「おいクソガキ!ちょっとどいとけ!」


 アルバの声が耳にとどくや否や、黒い火球が飛ぶ。とっさにヘルガはのけぞる形で体を曲げ、目の先数センチを飛ぶ火球が彼の目の前を通過した。火球は真っ直ぐ幽霊へと突進し、その体を爆ぜさせる。


 「おっし!」

 「いやおっしじゃねぇよ。僕のことを殺すつもりか!」

 「どけって言ったろ?」

 「事後承諾じゃねぇか!」


 「ちょっと漫才ならよそでやってくれない?まだ終わっていない!」


 レアリティの鋭い声に緊張が紐解けていた二人の意識が前を向く。視線の先でまだ幽霊が健在であると知り、ヘルガの双眼が激痛を発した。痛みで目を覆いたくなる一方で、また透過する攻撃を喰らうわけにはいかないとヘルガは身構え幽霊の動きを注視する。


 その幽霊だがちょっと大きくなっていた。体が爆ぜたせいで質量が増した、という意味不明な説明がしっくりくる。煙の中で火を炊いたらもっと膨張することと同義と言えばわかりやすいかもしれない。とにかく幽霊が大きくなったように見えた。


 「ゴーストか。年齢はそこまでって感じだが」

 「幽霊でしょ?聖職者なら讃美歌とか歌えないの?」


 「オレのこれはコスプレみてぇなもんだ。聖書は旧約、新約どっちも読んだがどっちも神様って馬鹿だねぇくらいの感想しか湧かなかったかったよ。だからよく廊下に立たされたっけなぁ」


 老神父がエセ神父だったことにヘルガががっくりとする中、レアリティが動いた。ドレス姿からは想像できない速度で蒼白々の幽霊に近づき、拳を振るう。実体がないから空振りするだろう、と思ってヘルガは見ていたが彼女の拳は幽霊の体を捉え、真後ろの壁に叩きつけた。


 驚いて大きく目を見開いてしまうくらいにはありえない光景だ。自分の体を透過したからてっきり実体がないのかと思っていた。そして案の定まざまざとレアリティ、幽霊の双方を見てしまったせいでヘルガの眼球を激痛が襲った。


 「ゴーストって実体があるの?」


 しかしアルバは首を横に振った。


 「普通はない。そもそもゴーストなんてなぁ思念の残り香、自我なき妄執の産物にすぎねぇ。執着の度合いで雑魚にも最強にもなる。まぁーレアリティが殴れてる原因はあいつが死の概念そのものだからだろうなぁ。死神だし」


 それが絶対規則にして絶対法則と言わんばかりのドヤ顔でアルバは彼女を援護する目的で黒い炎を両の手のひらに出現させた。二つの火球が螺旋を描き、幽霊に直撃する。だが爆ぜるばかりで倒せる気配が微塵も感じられなかった。


 「あーこりゃあれだなぁ。炎を吸ってんだから始末に負えんわ」

 「じゃぁどうすんの。アルバお荷物?」


 「オレは別に炎以外の魔法が使えねぇわけじゃねぇぞ」


 言うが早いかアルバはカソックのポケットへ手を伸ばし、中から金色の懐中時計を取り出し、ぶっ飛んできたレアリティが顔面に直撃し大の字になって倒れた。


 あまりに呆気ない。そればかりかレアリティも脳震盪を起こしたのか、ぐったりとして動かなくなってしまった。恐る恐る振り向くと明らかに登場時よりも巨大化した幽霊が白痴な瞳を向けていた。目先数ミリの超近距離で。


 ——ぶち殺すぞ。


 瞬間、ヘルガは憎悪の眼を幽霊に向けた。愛するべきレアリティを杜撰に扱われ、気絶までさせたのだ。ぶち殺しても文句は言わせない。胸の奥からふつふつと湧き上がる憤怒の炎に身を任せヘルガは幽霊に殴りかかる。それに対して幽霊は挑発を繰り返し、ヘルガの間合いから出たり入ったりを繰り返した。


 右拳を振りかぶるが、ヘルガの拳は空を切る。驚異的な速度で幽霊は拳を躱し、ケタケタと笑った。その時の顔がとてもムカついたので、再度ヘルガは幽霊に接近を試みた。大して喧嘩慣れをしているわけでもないヘルガの右ストレートを幽霊は軽やかに避けていく。決して受け止めようとかはしない。


 「クソ!」


 悪態をつき、大ぶりのパンチが空振ったと同時に幽霊が動いた。ヘルガの体を透過し、再び彼の心の中に悪感情を芽生えさせる。現実逃避、夢、理想、そんな意味のない夢想を信じてしまいたくなる多幸感にだけ心が包まれていく。それが悪感情ではなくて一体なんだと言うのか。


 心臓の周りを見ると真っ黒に澱んでいる。急いで右手で触るとガラスを割ったような音とともに心の中で渦巻いていたもやもやが払拭された。


 この攻撃は地味だが厄介だ。少しでも気を許せばすぐに再起不能になる。どうしようもない。こちらの速度が相手を上回らなければいけないだなんていうバトル漫画にありがちな展開など誰が望んだ?主人公だったらギリギリで隠された力が、とかあるんだろうがヘルガにそんな力はなかった。一介の学生にそんな力は認められていない。


 右手だって当たらなければ意味がない。双眸はずっと幽霊を見ているせいで異様に熱い。限界まで熱がこもったコンピューターのように電子回路やコードから火花が散っていると錯覚するほどの痛撃も感じる。長期戦はできなかった。


 詰みだ。


 こうして振るう拳のなんと虚しいことか。どれだけヘルガが拳を振っても空を切るだけ、実りはない。何をしたところで無為、無威、無意味。


 あるがままの未来。あるがままの現実。あるべきと定められた運命。ヘルガ・ブッフォは拳で幽霊を打破できない不完全なる殲滅兵器。——だから彼の足元にナイフが突き刺さった時、当然であるかのようにヘルガはナイフの柄を握った。


 誰が投げたのかなど聞くまでもない。探すまでもない。常に彼女はヘルガの前にいた。エセ神父に覆い被さる形で倒れていた彼女が投げたことなんて宇宙開闢の頃からヘルガは知っていた。


 床に刺さったナイフを引っこ抜き、右手で強く握る。左手を右手に添える形で前に突き出したヘルガから見て斜め左上にナイフを傾け、双眸をたぎらせた。


 「こいよ、腐れ幽霊。とりあえず、死ね」


 それは殺刃宣言(コモンセンス)にして殺戮(アブソリュート・)命令(ルール)。殺すと銘打てば誰だって殺せる。ヘルガ・ブッフォの本質を表しているかのような言葉だった。

次話投稿は7月14日を予定しています。

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