ホディア美術館の幽霊
夜の美術館を歩くことほど薄気味悪さと幻想さが共存する精神状況はない。カンテラに照らされる煌びやかな甲冑や絵画が妖しく見える反面、カンテラの灯りに照らされた銀食器やガラス食器が紫色に照らされて美しく見えた。まさにアンヴィヴァレンス。こと相反する感情を抱くのならばアンヴィヴァレンスと形容する他言葉はない。
なるほど確かにこの場所もまたアンヴィヴァレンスだ。かつては華やかなる貴族の邸宅だった場所が今ではただの美術館と化し、大小様々な骨董品の類が転がる。歓喜と怨嗟の相反する感情が館内に充満していると考えれば、夜の美術館に薄気味悪さと幻想さを同時に感じるのは当然だ。
「久しぶり、だよね。なんかあんまりなつかしく感じないな」
もし平日にこの美術館に着ていたらきっと正面玄関に入ると同時にブルドーザーで退場させられるような格好のまま三人は美術館の奥へと歩を進めた。途中、美術館の壁や展示物に手をこすりつけるなどして泥は落とせたが、足の指先を伝う形容し難い感触は当分取れそうになかった。
「昼に来ていたらさぞかし荘厳だったのでしょうけど、夜の暗闇じゃぁ映えないのよねぇ」
「昼に来たとしてもレアの方が綺麗だと僕は思うよ?」
「あらお上手。でも美術館に来て展示品よりも隣の美女にうつつを抜かすのはいただけないのではなくて?作品が、作者が、スポンサーが悲しむわ」
スルーされた。その上苦言を呈された。一理はあるが、二理はない。モナリザと泣く女を見せられてどちらが美人かと問われればどちらもブスだと答えるようにレアリティの前ではすべての芸術品は霞んでしまう。これは理屈などではなく1+1が二進法の世界では10であるくらいには決まりきったルールだ。絶対規約にして絶対法則。変えようがない真実だ。
変わらず歩き続けることが今のヘルガの動作であるように、変わらずレアリティの美点を求め続けることはヘルガの使命だ。より一層愛するために美点を探す。道理だろう?
その足が止まった時、アルバはとある部屋のドアを照らしていた。ヘルガの記憶が確かであるならばかつての首吊り領主の私室だったはずだ。豪華な内装、効果な調度品、磨き上げられた窓から美術館裏手の庭園を望むことができ、のどかな風が入ってくる中、仕事をしていたと何かの教師が言っていた。
ドアノブをアルバは照らして見せる。何かを探っているように見えた。そして十数秒と経たずにアルバはドアノブを握り、三人は部屋の中へと入った。
すぐに何か仕掛けがあるとヘルガは身構えるが、そんなことはなく彼に先んじて部屋に入った二人を待っていたのは閑散とした部屋だった。無論展示品として元領主の私室は再現されているし、南側へ向いた窓からは月明かりが入ってくる。閑散という表現は適切ではなかったかもしれない。
とにかく何事もなかった。本当に何事もなかった。
——何事もなければよかった。
部屋に入りしばらくするとアルバが机の上に置かれた燭台へ手を伸ばした。それを見た刹那、尋常ではない痛みがヘルガの双眼を刺した。思わず声をあげ、ヘルガは苦しげな声を発した。眼球が熱く煮えたぎっているばかりか、内部と外部の双方から強酸を染み込ませた不織布を押さえつけられたかのような異常な痛みが怒涛の勢いで押し寄せていた。
このまま眼球を潰してしまえば楽なのに、と思う中、右隣から聞こえるレアリティの声がヘルガを正常な思考へと戻していく。双眸を潰そうとあげかけた左手を下ろし、苦悶に満ちた表情でヘルガは立ち上がり、もう一度燭台を見ようと顔を上げた。
だがそんな彼の目の前にいたのは燭台などではなかった。
青、白、そして白。青い髪、白い肌、白いドレス。青白い鬱屈とした表情を浮かべ、白い瞳を見開き眼下を睨め付ける一方で、蒼白とした唇をかすかに揺らし、白々しく助けを呼ぶ。
そいつはこの部屋に飾られている肖像画にそっくりな風貌だった。何から何まで同じ、ただドレス、いや寝巻きを着ている点だけを除けば。
除け、除いてしまえ。こんなやつは世界から除いてしまえ。
自然と、無意識に、運命的に、ヘルガは前へ踏み出した。黒く染まりきった蒼白々の幽霊に右手を突き出し、そして彼の体を透過した幽霊によって神経が凍結した。