倒錯思考
警察署を出たヘルガはすぐにディジェが手配したのだろう車に乗せられ、すぐさまホテルに向かわされた。車に揺られること約20分、ホテルの前に停車し降ろされたヘルガは同乗していた警官に連れられる形で四階の一室に案内された。案内した警官はディジェほどおしゃべりではないらしく、最低限の会話しかしてくれなかった。
それも自分が第一発見者であり、容疑者だからということはヘルガも理解していた。沈黙は金、多弁は銀とはよく言ったもので、会話がないから感情も変わらない。ただ思考だけが流水のごとく絶え間なく巡る。
老母の死、老父の死、そしてなんでそれが突然起こったのか。わからないことだらけだが、一つはっきりとしていることがあるとすれば、それは老父が老母を刺したということだ。だからこの場合の老母の死についてわからないことと言えばなんで老父が老母を刺したかだ。
愛する者を殺す、というのは古今東西の戯曲において定番のシチュエーションだが、しかして現実にないかと言えばそんなことはなく、痴情のもつれで妻を刺した、夫を刺した、恋人を刺したなんて話は枚挙にいとまがない。それは老人同士であってもで、介護に疲れた、愛想が尽きた、嫌気がさした、などなど理由は痴情のもつれ以外にも色々と出てくる。
だが、老父と老母にそれが当てはまるかと言われれば身近に見てきたヘルガは首を横に振る。老母が小言を言う、老父が時々怒鳴る、二人で一言も口を聞かない日がある、ということはいくらでもあるが、それが殺意にまで発展するかと聞かれれば答えは絶対にNoだ。老父と老母は喧嘩こそするが、破局につながるほどのことはしない。二人の喧嘩はいわばガス抜き、ニコニコと愛想笑いを浮かべたまま臨界点まで持っていく自称仲良し夫婦よりもよほど健全だ。
老父が老母を殺したのだから、きっと理由がある殺人ではない。殺人と言ってしまうとなんだか推理小説のタグっぽいが、実際のところは事故だ。多分。あの老父が考え抜いた末、老母を殺すというシチュエーションがヘルガには想像できなかった。思考停止とも言える消去法の結果だが、それが一番あの状況を説明する上でしっくりしたのだから仕方がない。
ではここで一つ疑問が生まれる。どういう事故で老父が老母を殺したか、ではなく、どういう意図が働いて老父が包丁を持ったまま老母を殺すことになったかと言う疑問。ハウダニットではなくホワイダニット。だって現場の状況からトリックを見破るなんていうシャーロック・ホームズみたいなことはできないのがヘルガ・ブッフォだ。彼は星を見ることと赤髪の彼女に想いを馳せるくらいしか脳のない人間なのだから。
まず普通に考えた時、老父と老母に対する怨恨からだとすれば回りくどすぎるから違う。どちらも80にはなっていないが70前後の高齢だ。別段、格闘技をやっていたというわけでもないから、殺そうと思えば簡単に殺せる。相手が同じくらい高齢だったとしたらちょっと構図としては面白く、滑稽ではあるが。
でもだったらなおのことだ。殺したいほど憎んでいる相手、それが自分と同じくらい高齢であると仮定して、文字通りの重い腰をわざわざ上げるほどか?まして怨恨が生じるほどの関係だった相手だ。老父に老母を殺させ、その後自殺させるようなトリックを仕掛ける体力も機会にも恵まれているとは思えない。
というか、なんで老齢になるまで待つ?殺したいほど憎んでいるならさっさと若いうちに殺せばいい。その時の方が体力にも機会にも恵まれているだろ。
老父、老母どちらを恨んでいたかとかは関係ない。二人に対する怨恨じゃない。それじゃぁどうして二人は死んだ?
「そんなの、決まっているじゃないか」
警官に聞こえないくらいの小さな声でヘルガはつぶやいた。自分が頭の中で考えた結論を後押しする悪魔の囁きを自分の口から紡ぐ。
——狙いは自分だ。自意識過剰ではなく厳然たる事実として。
言っては難だが、恨みを買っている自覚はある。魔術師とかと散々戦ってきたのだから、命拾いしたり魔術師だったり、殺した魔術師の縁者だったりが自分のことを恨んで精神的に追い詰めるために老父妻を殺した、と考えればいい。
意味なんてないのにな、とヘルガは嘲笑を浮かべた。老父妻を愛していないか、と聞かれれば答えはNOだが、好きか嫌いかで聞かれればきっと好きだ。その死を目の当たりにしたら精神崩壊は起きずとも茫然自失くらいはする。実際にそうなった。
——だけど、それだけだ。
ああ、死んでしまったと受け入れて、次の瞬間には安堵すら覚えている悍ましい自分を思い返し、この上ないおかしさから自嘲する。胸を撫で下ろし、復讐も考えない。考えるとすればそれは復讐ではなく、邪魔者の排除だ。害虫駆除と同じような感覚で老父妻を殺した何某を殺すだろう。
ヘルガ・ブッフォは普通の人間だ。介護者が被介護者が死んだときに悲しみの片端で安堵を覚えるのと同じで、ヘルガにとっては老父妻は結局のところ、足枷だったのだ。人間的に終わっていると自覚しながらも、この気性だけは治らない。両親の死だって簡単に受け入れられたヘルガからすれば、もう人の死というのはそれこそ赤髪の彼女が死んだときくらいにしか体験できない貴重な出来事のようなものなのだ。
思考を切り替え、ヘルガは考える。一体どこのどいつがちょっかいをかけてきたかを。興味はもう老父妻からはなくなっていた。どうやって老父が老母を殺したかなんて考える気すらなくなっていた。感謝もなくなっていた。
彼の今の興味はいつも通り、二分されていた。一つは赤髪の彼女について。もう一つは顔もわからない邪魔者について。短期的には邪魔者への興味が優先され、長期的には赤髪の彼女への興味が優先される。考えれば考えるほど興味がそそられて仕方がない。
「あああ、会いたいなぁ」
——快楽的にそう想った。
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