表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
141/146

日常にグッバイ

 老母の頭は玄関を向いていた。装いはいつものそれと変わらない。冬場ということもあって厚着だ。


 家の中はとても寒かった。外と同じくらい寒かった。それも当然だろう。なにせ一週間近く家を開けていたのだ。老父婦は12月のカラッとした空気の中、あのクソ魔術師に眠らされていた。起きた時、さぞかしびっくりしたに違いない。そしてなんで自分がいないのかを不思議に思ったはずだ。


 そのことを責められる。そう思っていた。


 しかし蓋を開けてみれば老母はいつの間にか亡骸になっていた。なんで、だろうか?


 落ち着こう、落ち着こう、落ち着こう。ヘルガはいつもの通りにスニーカーを脱ぎ、靴箱からスリッパを取り出した。それを履き、ゆっくりと老婆に近づいた。老婆の喉元に触れる。まだ温かった。死んでから間もない、ということだろうか。一瞬、生きているかもしれないという無為で無意味な希望が湧き上がるが、それはすぐに拍動のない脈の静寂によってなぶり殺された。


 老母は大きく目を見開いて死んでいた。年を取ってもう瞼が重くのしかかっていたはずなのに、それを押しのけるほど驚いたんだろう。だろう、だろう。そう思うことでヘルガは自分の心の動揺に整理を付けようとした。


 老母の見聞を終え、ヘルガはまっすぐ続いている廊下に目を向けた。廊下の真ん中に光るものが転がっていた。落ちていた、と表現するべきかもしれない。恐る恐る近寄ると銀色の包丁が落ちていた。それは見覚えがある包丁だ。


 何を隠そう老母が料理をする時に使っていた包丁だ。ヘルガも何度か握らせてもらったことがある。これでシチューだったりを作ってもらった過去が払暁の噴水のごとく溢れ出てくる。確か根菜類をよく料理するのが好きだったな、老母は、とどうでもいい記憶までも呼び起こされたのはきっと現実から逃げたい気持ちと、懐古の情が入り混じったからだ。


 包丁を拾い上げることはせず、そのままにしてヘルガはリビングを見た。何もない。何もないとは言うまでもなく、ヘルガの記憶にないものが何もない、ということだ。


 代わって玄関から見て右側の部屋を見た。その部屋は老母らの寝室になっている。てっきり老父がいるものとばかり思ったが、もぬけの殻だ。ベッドメイクがされていないくらいで、特筆すべきことはない。埃がだいぶ溜まっている。一週間近くも開ければこんなものだろう。


 廊下を真っ直ぐ歩いていくとバスルームに出る。トイレは老父婦の寝室の隣にある。どちらにも老父の姿はなかった。短い付き合いだが、老父の性格をヘルガは知っている。純朴で、世間とはちょっとズレた思考の人だ。老母のことを必要以上に大切に思っているのはきっとそのせいだろう。だから老母の近くに老父がいないことがヘルガには不思議でならなかった。


 ——まるで拐かされたかのようだ。


 そんな思考を打ち切って、ヘルガは天井を見る。そして二階へ行こうと階段を登り始めた時、ふと足元に視線を移すと穴が開いていた。階段にではなく、廊下に。ちょうど老母の遺体のほど近い場所になぜか埃が落ちていない場所があった。階段を登る時、段差を気にする癖があるから気付けたのだ。


 慌てて降りてみると、等間隔に穴が開いていた。まるで固定用のボルトを打ち込んだかのように八つの穴が開いていた。何かを置いていた跡だろうか。ヘルガの記憶が正しければこの家のこの場所に置物があったことはない。ひょっとしたら老母の死と関係があるのだろうか、とヘルガは首をかしげる。しかし考えてもわからない。気を取り直したヘルガは改めて二階へと登っていった。


 二階には部屋が二つある。一つは物置、もう一つはヘルガの部屋だ。まず最初に物置を見てみる。誰もいない。何もない。じゃぁ次は、とヘルガは自分の部屋のドアノブに手を回した。ドアノブをひねると抵抗もなく、開いた。


 「あ」


 短い感嘆符が口から溢れでた。ヘルガの部屋に人がいた。


 丸まった背筋、老人らしいふっくらとしたした四肢、対比するかのような落ち窪んだ瞳と痩せこけた頬。容姿が記憶と違ったので一瞬、誰かはわからなかったが、着ている衣服を見て脳内のイメージと合致した。


 「ああ、なんで」


 老父はしわがれた声でそう言った。そう言って、老父は無理をして笑みを作った。べっとりと老父のセーターに付着した赤い液体が正面から彼を見ると、まるでヨダレのように垂れているように見えた。


 「許してくれ。許してくれ」


 老父は何かを懇願するように仕切りにそう捲し立てた。懺悔のつもりだろうか。動転し、何がなんだかわからないヘルガを置いてけぼりにして、老父は不意に窓を見た。そして次の瞬間、半狂乱の状態で窓の施錠を外すと、ヘルガが止める間もなく、体操選手が跳躍で棒を飛び越える時のような体勢で頭から窓枠の外へと飛び込んだ。


 秒と経たずにぐしゃという音が聞こえた。何かが潰れた音。


 老父が落ちた音。


 遅れてヘルガは走り出した。意味がないと知りながら走り出し、窓枠から身を乗り出して下の様子を伺う。現実を受け止めようとする。


 一階の玄関先に老父の遺体はあった。さほどの高さから落ちたわけではないから老父の体はまだ綺麗だった。でもピクリとも動かない。ヘルガであれば落ちてもせいぜい打撲くらいで済む距離でも老父にとっては致命傷だったのだ。


 急いで階段を降り、玄関を出る。玄関を出たヘルガはもうピクリともしない老父に近づいた。まだぬくもりがある老父に触れた。


 枯れ果てた井戸のように声も涙も出なかった。ただ唯一起こった衝動、それは耐え難いほどに自己満足、自己中心的な安堵の感情だけだった。


✳︎

投稿再開します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ