VS エンシェロッテ・クロイツァー
「ああ、鬱陶しい」——エンシェロッテ・クロイツァー《殺し屋》
エンシェロッテ・クロイツァー。微笑を浮かべる彼女の名前を下の上で反芻しながらヘルガは上着のポケットに右手を忍ばせた。初めて会った時は下ろしていた髪を今は左右で結び、ツインテールにしているせいか、以前よりも幼く見える彼女はしかし、この状況を見る限りはまごうことなきヘルガの敵として彼の前に立っていた。
彼女が着ているのは厚手のコート、薄いTシャツ、そして冬場なのにショートパンツ。黒いストッキングのおかげで多少は素足よりもマシなのだろうが、全体的に見て上下でのアンバランスさが目立っていた。なにせマフラーも巻いてない。コート一枚で冬場の夜街に躍り出た彼女はいささかの妥協なく、違和感があった。
その違和感をより顕著にさせるのが左手の土色のグローブだ。鷹匠と呼ばれる鳥専門のトレーナーが付けるアレは鳥の爪から身を守るためのものだ。分厚いからか、コートの袖口に収まらず、袖口をまくり中の生地が裏返っていた。
赤い瞳が煌々と暗闇の中でも輝いて見えるのは近くの街灯が同じような色を宿してゆらゆらと灯っているからだろう。ああ、くそたっれと言いたくなるほどに怖い目だ。それは橋の上で見せていたキラキラとした瞳のままで、これから「殺人」を犯すにも関わらず、日常の世界の人間の瞳にそっくりだった。
「エンシェロッテ。あんたもやっぱり殺し屋なのか?」
「つまらないこと、でもないか。うん。そう。あたしも殺し屋だよ。一応、ヘルガ君の後ろにいる赤髪の女を殺せって言われてる。ていうか、依頼されてる。だからヘルガ君は別に殺さなくていいの。退いていてくれるならそれで」
「僕がそれを聞いて首を縦に振るとか思ってる?振るわけないだろ」
「うん、知ってる。きっと大事な人なんだろうね。顔見知りってところかな?いや、それ以上の関係か。Alpha-Nameも弑殺兄妹も気迫と根性と運と非情さに負けるなんて思ってもいなかったと思う。特にAlpha-Nameはほんと、残念。いいとこなしでリタイアなんて。これを言ったらちょっと自意識過剰かもしれないけどね、あたしよりも強いんだよ、Alpha-Nameって。あ、ちなみにあたしは二番目だね。この街に集まった殺し屋の中では、だけど」
まるで偶然、喫茶店で出会った友人のような温和な口調でエンシェロッテは話を続けた。
「だから、ヘルガ君があたしに勝てる道理はないんだよ。ことに直接戦うってなればね。あ、やってみなくちゃわからない、なんていうベタな返しはやめて?そういうのは負け犬の遠吠えよりも聞いてられない。負け犬にすらなれない、蔑称を付けられる価値もない人間の戯言だもの。そう、だから。できればヘルガ君には退いていてほしい。目を瞑って、耳を塞いで、どこか遠くに。あたしが彼女を殺す瞬間に立ち会わないで欲しい。そっちの方が悲しくないでしょう、あがいて守れなかったときよりも」
「怒らせたいのか?僕が何を言われればわかっt」
「うん。そうだよ。感情のままの殺し屋なんて凡夫だからさ。楽に殺せるもの。御し易いって言えばいいのかな?注意力が散漫にもなるしね」
よっこらせ、と腰を上げたエンシェロッテは右手をコートのポケットに突っ込んだ。中に入っているのは銃かナイフかそれとも暗器か。相手が何を狙っているかわからないままに迂闊に飛び込むことはできない。エンシェロッテへの激情を覚えていても、わずかな理性がヘルガを踏み込ませないでいた。
エンシェロッテもまた立ち上がっただけで、何かをする気配素振りは見せない。ヘルガを値踏みするような視線こそ向けるが、それ以上のことはしなかった。
牽制し合う両者の静謐を破ったのはエンシェロッテだ。ポケットに入っていた何かを彼女はヘルガに向かって投げつけた。それはヒューと笛のような音色を発して紙一重でヘルガを避けた。
「ああ、残念。そうでーす。あたしは拳銃とか持っていませーん。ナイフだけだよー。何かと思ったでしょ、ねぇ!何を取り出すかって思ってたでしょ。正解はくなーいでした。極東にある島国のにんじゃーんっていう暗殺者が使う武器なんだってさ」
「おちょっくてる?今だってわざと外しただろ!」
「えー?たまたま逸れただけだよ。それに言ったじゃない。あたしはヘルガ君を殺すつもりはないって」
「退いてくれるなら、だろ?僕は退くつもりは」
「退くよ。今すぐにでもね」
ふざけた微笑が消え、エンシェロッテは真顔になる。その刹那、首筋を何かに掴まれ、ヘルガは地面に叩き伏せられた。受け身を取る暇もなく、前のめりに倒れたヘルガは頭だけは守ろうと左手を回す。
バサバサという翼音が耳元で聞こえる。ガァーガァーという耳障りな音が次いで聞こえた。それがネヴァンという鴉だとヘルガはすぐに気がつき、引き剥がそうと手を伸ばすが、鋭い嘴が彼の手を弾いた。
「ネヴァン、抑えといて。できるだけ頭を地面に押さえつけといて」
「クソ、このあほ!」
「安心して。すぐにおわ、うわ!」
ふざけるな、と横を通り過ぎて行こうとするエンシェロッテの足をヘルガは蹴り飛ばす。予期していなかったのか、エンシェロッテの体が宙に浮き、驚いたネヴァンがヘルガの頭上から飛び立った。
受け身を取り、体勢を整えようとするエンシェロッテにいち早く起き上がったヘルガがナイフを抜いて襲い掛かる。自身の瞳孔にまで迫ったそれをエンシェロッテは手首ごと跳ね上げ、続けて鳩尾に一発、胸骨へ三発の計四発の掌底を食らわした。酸素が急激に吐き出され、咳き込むヘルガからナイフをひったくり、エンシェロッテは彼の背後に隠れていたレアリティ目掛けてそのナイフを投げつけた。
しかしナイフはあらぬ方向へと旋回し、近くの樹木に突き刺さった。立ち上がったヘルガがエンシェロッテを突き飛ばしたせいだ。
突き飛ばされてもエンシェロッテが地に伏すことはない。驚異的な反射神経で片手を地面に付き、受け身を取ると空で回転し、何事もなかったかのようにすくりと着地した。
「邪魔しないでって言ったよね、あたし。ヘルガ君がタフなのは認めるけど、それじゃあたしには勝てないよ。せいぜいが弑殺兄妹止まり。あのまま抑えられたままでいて欲しかったのに。全く、ネヴァンも臆病なんだから」
「僕が勝つとか負けるとかじゃないんだよ。僕はレアを救えればそれでいいんだ。この場を切り抜けられればそれでいいんだ。だったら」
「だったら、ここで死ぬ意味があるって?命を賭ける?ちょっとばかし英雄願望が強すぎない?ありんこが一匹でトラックに勝てる?勝てるわけ、ないじゃん。分を弁えろって言ってんだよ。それもわからないなら、もう、知らない」
言いたいことだけ吐き捨てて、エンシェロッテが急接近する。容易くヘルガの懐にまで潜り込むと、その下顎めがけて彼女は掌底を放った。両手を交差させ、その一撃をヘルガは防御するが、続けて手刀が左右から頸椎目掛けて繰り出された。それを避ける間もなく、ヘルガの双肩にかけて強烈な衝撃が走った。
意識が朦朧とするほどの衝撃、平衡感覚を失いかねないほどの波動が身体中を駆け巡る。かろうじて立っているのが精一杯。とてもエンシェロッテの次の攻撃に耐えるなどできなかった。彼女の放った右フックは容易くヘルガに命中する。意識を刈り取るための手加減された一撃だということは手刀の威力を天秤にかければ一目瞭然だった。むしろ、あの手刀すら手加減していた。本気で放たれれば頸椎に負債を背負うだけでは済まず、首の骨が折れていた。
「もう、降参してよ。ヘルガ君じゃあたしに。え?」
「か、え、た」
突き出された左手がエンシェロッテの胸ぐらを掴む。彼女の細い体躯を引き寄せ、その鼻っ柱目掛けてヘルガはヘッドバットを打とうと振りかぶった。
「ちっ」
即座にエンシェロッテは左手を振り解く。勢い余って頭からヘルガは前に向かって倒れかけた。
「まだ、あだ」
平衡感覚が戻りかけていた。さっきまでは寝起きの視界のようだった景色も、今では凛としている。夜光を背に抱くエンシェロッテに向かって、正拳突きをヘルガは放つ。しかし見え見えの攻撃をエンシェロッテが受けるはずもない。ため息まじりにヘルガの攻撃は躱され、カウンターの左フックが頬を貫いた。
身体能力、技術、観察力のあらゆる面でエンシェロッテはヘルガを圧倒していた。それは下手な奇襲や不意打ちしか意味をなさない。どれほどヘルガが食い下がろうともエンシェロッテは真っ向から彼の抵抗を踏み砕く。彼女が本気を出していないと言うのに。
何度もエンシェロッテに殴りかかろうとして、ヘルガは逆に攻撃を喰らった。拳を何度も顔面に叩きつけられ、蹴りを何度も脇腹や鳩尾に受け、息は切れ、無数の裂傷や青あざが肌に目立つ。両足は痙攣し、立っていることが異常なくらいだ。
ボロボロのヘルガにエンシェロッテは一瞥だけ送り、彼を放ってレアリティへ向かって走り出した。気づいたレアリティが樹木に刺さっていたナイフを抜き放ち応戦しようとする。
レアリティがナイフを逆手に持ったとほぼ同時にエンシェロッテは背後に両手を伸ばし、彼女に接近しながら腰のホルスターから抜き放った拳銃の銃口を向ける。いわゆる二丁拳銃、抜き放たれた禍々しい殺意の塊はレアリティを正眼に捉え、それはみるみる内に距離を狭めてきた。
「ぐぅ!」
「ほんと、往生際の悪い!」
弾丸を避けるなんてことは普通の人間には不可能だ。今のレアリティもそれは同じことで、彼女が取れた作戦はただ一つ、エンシェロッテへの接近だった。
腰をできる限りかがめ、レアリティはエンシェロッテに接近する。激しく蛇行するレアリティをエンシェロッテは正眼で捉えようとする。
「そうやって動き回っていれば当たらないとか、思ってる?ちょっと見通し、うわぁ!」
突然声を上げてエンシェロッテは倒れかけた。銃口を地面に接触させ、器用に受け身を取るエンシェロッテの視界の端には満身創痍ながらもまだ歯向かってくるヘルガの姿があった。殺すだけならどうとでもできる。しかしエンシェロッテが殺そうとしない。それを理解しているから、調子に乗って無茶ができる。
「こいつ、!クソ!」
受け身を取ったとはいえ、エンシェロッテは体勢を崩している。後ろから彼女を蹴り飛ばしたヘルガはその小さな体に覆いかぶさろうと両手を広げて飛び掛かってきた。避けられず、ヘルガの全体重がエンシェロッテに乗り掛かる。身体能力に優れていようと両者の体格差は歴然だ。両手を掴まれ、さば折でもするかのように抱きつかれたエンシェロッテがいくら力を入れようとヘルガを剥がすことは不可能だ。
「レア!早く!心臓でも喉でも頭でもいいから、とにかく刺して!」
「わかってる!」
「いや、わかんないで!クソ、おんどりゃぁああ!!!!」
「はぁ!?」
勢いよくエンシェロッテは地面を蹴った。抜群の身体能力を引き出すために鍛えられた健脚は容易に二人分の重量を持ち上げ、そのままヘルガは噴水に背中をぶつけられた。衝撃による反動でヘルガの手がエンシェロッテを離れる。即座に彼の拘束から抜け出したエンシェロッテは銃口が潰れた二丁の拳銃を水面へと投げ捨て、小型のナイフを取り出した。
「まったく、手間取らせてくれちゃって、ん?」
「えんしゃ、ろって。まだ勝負は_ついてないぞ」
「もうついたじゃん。手、離してよ。あたしはヘルガ君を殺すつもりはない。ほら、退いてくれたじゃない。あの女の前から」
「まだ退いて」
「だーかーら!いい加減にしてよ!わからない!?君を殺したくないからこう言ってるの!君は、巻き込まれただけの一般人!それでなくてもあたしは君と話していて楽しかった!だから、後味の悪い、後味の悪い別れ方をしたくないの!あの橋の上みたいに笑顔で別れたい!だから、そう。だから。君には忘れて欲しい。忘れたまま、何も見なかったように振る舞って欲しい。そこの赤髪の女もそれでいいんじゃないの?ヘルガ君を巻き込んだ張本人さん」
エンシェロッテの意識がヘルガがレアリティへと移る。ナイフを持ったまま、一定の距離を保つレアリティは険しい表情を浮かべながらもエンシェロッテの考えに同調しているのか、その紅色の瞳がわずかに揺れていた。
「ヘルガ君。ヘルガ君。君は本当に何もしないで。何かをしても意味がない。あの女だって君が大事なんだ。あたしも君が大事だよ。話し相手としてね。そうすれば」
「どうでもいい。どうでもいいんだよ。本当に。ぶっちゃけ、レアが僕のことを嫌ってようが、邪魔に思っていようが、僕にはどっちだっていいんだ。僕は、僕のエゴのままに彼女を愛している。都合のいい盾役だろうが、肉壁だろうが、あまんじて受け入れるさ。どういう打算があれ、彼女が僕を頼ってくれているってことなんだからなぁ!」
「それってカッコ悪くない?横恋慕ってレベルじゃないよ」
「知らねぇよ。横恋慕?ストーカー?そういうクソみてぇなレッテルを貼るんじゃねぇ。こいつは純愛だよ。底知れない愛の発露だよ。アイドルのおっかけが全員ストーカーや横恋慕だとかおもってんのか?あいつらと同じだと思えよ。見知った友人から課金をやめろって言われてあいつらがやめるか?やめねぇだろう。例え当の本人に拒絶されようと、なぁ!」
怒りのままに、感情のままにエンシェロッテの腕をヘルガは引く。彼女は抵抗する。それは当然だ。引かれるがままではなく、勢いに任せてヘルガの鳩尾に拳打を打ち込んだ。
「もう、いいよ。ネヴァン!」
鳩尾を抑えたまま膝をつくヘルガを見下ろしながらエンシェロッテはそれまで夜闇に紛れて眼下の様子を窺っていたネヴァンを左手に手繰り寄せる。クークーと喉を鳴らすネヴァンにポケットから取り出した肉切れを与えながらエンシェロッテは嘆息した。
「いい加減、飽きた。もう好きにして。あたしは降りる。元々乗り気じゃなかったし」




